きたまち界隈
 東京極大路に面して建立された天平時代の建造物で、国宝に指定されている。三間一戸の八脚門で、天平時代のものとしては、他に法隆寺東大門があるだけだ。二度の兵火を幸いにまぬがれ、東大寺創建当時の面影を伝えてくれているが、昭和初期に解体修理を受けたとき、柱にはヤジリ・弾丸が残っていたそうだ。手向山八幡宮の転害会の際、ここをお旅所としたところから転害門と呼ばれるようになったと伝えられる。古くは景清門とも呼ばれていた。これは建久六年(一一九五)に平景清がこの門に身をひそめて、大仏供養に出かける源頼朝を討とうとしたという俗説から付けられた名称だ。奈良町の人々が言い伝えを大切にし、古い遺構を親しみを持って守ってきたかが分かる。
◆転害門(手貝町)
◆戒壇院(押上町)
◆八阪神社(押上町)
 押上町祇園社とも呼ばれ、例祭は七月十四日に盛大に行われる。広い境内には三間社流造の一殿三座の本殿、菅原道真を祀る天満神社などがある。石燈篭や水船、古い井戸枠なども風格を感じさせる。
◆奈良八景
 大仏開眼供養が終了した二年後、天平勝宝六年(七五四)に唐僧・鑑真和上一行が、盛大な歓迎を受けて平城京に入った。当時、仏教は隆盛を極めていたが、反面、僧尼の行動にもとる者も多かった。そこで鑑真に授戒伝律を一任し、作法を正すことになった。同年四月に大仏殿前に仮設の戒壇を設置し、聖武上皇はじめ四百四十余人に授戒が行われた。受戒とは僧侶として守るべきことを履行する旨を仏前で誓う、最も厳粛な儀式だ。翌年五月には大仏殿西に我が国最初の常設の戒壇建立が始まった。三年後、受戒堂、講堂、僧坊からなる戒壇院が完成した。三度に亘って火災に遭い、現在の戒壇堂は享保十七年(一七三二)に建立されたものだ。堂内には四天王(塑造)と多宝塔(木造)が安置される。四天王は東大寺内の中門堂から移設された天平時代の傑作。ぜひ観賞しておきたい。
 江戸時代に発行された「大和名所図会」などには、南都八景として「南円堂の藤、猿沢池の月、春日野の鹿、三笠山の雪、東大寺の鐘、雲井坂の雨、轟橋の行人(旅人)、佐保川の蛍」が挙げられている。十四世紀中頃に設定されたらしいが、そのほとんどは損われずに現在に受け継がれている。ただ、雲井坂と轟橋は地名としても、現代人には馴染みが無い。どちらも東大寺と興福寺が境を接するところの風景らしい。雲井坂は県庁駐車場の東側の坂。東側の歩道に往時を偲ばせる石畳が一条だけ残されている。国道と整備されるとき、かなりなだらかに改修されたようだが、この石畳が張りめぐらされ、雨に濡れて光っている様を思い浮かべたい。
◆奈良女子大学記念館(北魚屋東町)
 明治四十二年に奈良女子師範高等学校の本館として建設された。改修工事を終えた平成六年に重要文化財に指定されている。木造寄棟造二階建て瓦葺きの建物は、外壁に漆喰壁を用い、縦横筋違いの板を交互に使って装飾し、北欧風のイメージを作りだしている。若草色に塗られた木部と漆喰の白との調和が美しい。屋根の中央には頂塔ランタンが、四方の屋根には六つの出窓(ドーマー窓)があしらわれている。