第148回(2007年08月号掲載
古代から京街道であった
歌姫越
 奈良と京都を結ぶ京街道と言えば、奈良坂越であるが、飛鳥時代や奈良時代の終り頃までは、歌姫越が大和から山城への主な道で奈良坂と呼ばれていて、現在の奈良坂は、当時は般若坂と名付けられていたと伝えられる。

【平城山】(ならやま)
 日本書紀に因ると、「崇神天皇の御代、謀反がおこり、山城に進軍する時、精兵を率いて、進んで那羅山(ならやま)に登りて軍(いくさだち)す。時に官軍屯聚(いは)みて草木を踏(なら)す。因りて其の山を名付けて那羅山と曰(いう。)」とある。
 それで、今も、大和と山城の境、平城宮跡の北辺に連なる丘陵を平城山と云い、丘陵の西の方を佐紀山、東を佐保山と呼んでいる。
 平城山(ならやま)というと、歌人 北見志保子さんが、この地を訪れた時の短歌二首が思い浮かべられる。
(一)人恋ふは 悲しきものと 平城山に もとほり来つつ たへ難かりき
(二)いにしへも 夫(つま)に恋ひつつ 越へしとう 平城山の路に 涙おとしぬ
 この短歌には、平井康三郎によって哀愁を帯びた、この歌にぴったりの曲がつけられて、現在に至るまで、広く愛唱されている。北見志保子さんが、自分のかなわぬ恋の愁いを、いにしえの大宮人の恋になぞらえて詠んだものと伝えられる。今は奈良山近辺も新しい家が建ち並んで、近代的な感じになっているところもあるが、昔の風情を残す小径を歩いていると、ふと、この歌をくちずさみたくなる思いがする。北見志保子さんは、高知県の宿毛出身の方で、宿毛へ末娘を嫁がせている私には、一層、感慨深いのかも知れない。
【歌姫越】
 平城宮跡の大極殿跡(今は復元工事中)の少し東よりのところで、一条通りから北に曲がると、歌姫街道に入る。
 佐保山側を通る現在の奈良阪線には、バイパスが出来て、東之阪町、興善寺町、般若寺町、奈良阪町辺りで、旧道から少し東に迂回しているとは云うものの、道幅の広い県道 木津・横田線となって、トラックや乗用車がひっきりなしに走っているのに対し、歌姫越の道は、まだ道幅も狭く、沿道には落ち着いた風情のある農家が並び、道のあちこちに道祖神的なお地蔵様が祀られていて、花や水が捧げられているのも、歴史のある街道筋を偲ばせる趣がある。
 天智天皇が都を近江に遷される時、文武百官を引き連れて、威風堂々とこの道を通られたのであろう。
 また、天智天皇薨去の後、大海人皇子(おおあまのおうじ・後の天武天皇)が壬申の乱をおこされた折、道中、次々と増えて来る援軍を引き連れて近江に攻め入る時も、この道を通られたであろうし、勝利を収めて都を大和にかえられる時も、堂々とこの道を行進された事だろう。
 万葉人たちは、おおらかに恋をし、その喜びをおおらかに詠った。しかし、何時の世にも、義理や権力に阻まれて、成就しない恋もあったようで、それも名歌として残っている。
 これは歌姫越の道中ではなく、近江の蒲生野(かまうの)で詠まれた歌であるが、大海人皇子というと、次の歌を思い出す。
 紫草の にほへる妹を
  憎くあらば 人妻ゆえに
   われ恋ひめやも  大海人皇子

 あかねさす 紫野行き 標野行き
  野守は見ずや 君が袖振る
     額田王(ぬかたのおおきみ)
 この歌の舞台は、西暦六六八年五月五日、近江の国、蒲生野で行われた「薬狩り」と呼ばれた年中行事の場だ。男は不老長寿の薬にするため、鹿を射て、その袋角を取り、女は野原の薬草を摘むという、レクリエーションを兼ねた、近江朝廷を挙げての年中行事だったようだ。
 その場で出会った大海人皇子と額田王は、かつては恋人同士で、二人の間には十市皇女(とおちのひめみこ)も誕生したが、今は兄の天智天皇の妃になっておられる。二人が別れられてからはかなりの年月が経過したが、お互いの愛は衰えていなかったようだ。
 額田王の歌は
「紫草を摘んでいる草原を、あなたは袖をなびかせながら、私に手を振って下さいますが、蒲生野(皇室などの所有する原野で、猟場などにするため、一般人の立ち入りを禁じられた所)の番人が見ているかも知れませんよ。天皇に告げ口されては困るけど、でも嬉しいわ。やっぱり私はあなたが好きですもの。」といった意味だろうか。(「あかねさす」は、茜色に照り映えるの意味で、「日」「昼」「照る」「君」「紫」などにかかる枕詞。また、額田王が摘んでおられた紫草は、根を乾燥させて皮膚病の薬にする他、昔は高貴な色とされていた紫色に染めるための得難い染料であった。)
 大海人皇子の歌は
「額田王よ、そなたは紫草が香り立つように美しい。そんな、あなたを憎いと思うなら、どうしてこんなに恋こがれたりするものですか。あなたは、今はもう人妻ですからね。」
 このやるせない相聞歌に思いを馳せると、大和三山になぞらえた「中大兄皇子(天智天皇)の三山(みつのやま)の歌」が連想される。
 香具山は 畝傍を愛しと 耳梨と
 相争ひき 神代より かくにあるらし
 古も 然にあれこそ
 うつせみも 妻を争ふらしき
 畝傍はウネビ→ウネメ(采女)によく似た音感を持つので、女性である額田王。香久山は中大兄皇子 耳梨(耳成山)は大海人皇子とみなしての兄弟の確執が、かなり長く根強く続いていたものと思われる。
 壬申の乱の直接原因は、天智天皇が弟で皇太子であった大海人皇子(後の天武天皇)の皇太子位を廃して、ご自分の子である大友皇子(天智天皇逝去後、弘文天皇として第三十九代天皇に即位されるが、壬申の乱で崩御された。)を後継の天皇にされようとしたことだが、大海人皇子の心の中には、額田王を奪われたわだかまりもあったのかも知れない。
 それにしても、天智天皇が都を近江に遷される時、皇太子として歌姫越の道を通られた時は、新都に対する期待に満ちた大海人皇子の明るいお気持、皇位継承に関する災いを避けて吉野へ逃れる時にこの道を通られた時の暗いご心境、壬申の乱の時、行進される道中で、どんどん増えて来る協力者を従えて、近江へ攻め上がられる勇猛なお姿、壬申の乱で勝利をおさめられた大海人皇子は、飛鳥京の飛鳥浄御原宮に於て即位の大礼を行うため、抱負に胸をふくらませて、この道をお通りになった事だろう。
【佐紀町】
 佐紀町には佐紀池がある。昭和五十年頃、この池の発掘調査が行われた。古墳時代初期の土師器や木製の鋤や砧(きぬた)等が出土して、この池には、古墳時代初期から人々が住んでいたことが実証されたそうだ。奈良時代の丸瓦、中瓦、軒丸瓦や木簡、鉄の鎌、神功開珎等も発見されて、この地が古くから栄えていたことが実証されたという。
 佐紀東町には、一言主神を祀る葛木神社がある。この町では、二月一日に葛木神社の境内に、町内中のシメ縄を持ち寄って大がかりなトンドをするそうだ。その時、前年に長男が産まれた家では、正月に、青竹に種々の色紙で作った短冊を吊るして家に祀り、このトンドの日にトンド場でそれを焼き、子どもの健やかな成長と、家の繁栄を祈る風習があるという。
 佐紀中町は、町の中ほどに歌姫越の京街道が通っている所で、この道筋には、明治初期の頃まで、公家茶屋(くげちゃや)と呼ばれた茶店があったそうだ。先月号に記した超昇寺も、明治十年頃までは、この町にあったという。
 町内には、武甕槌命・経津主命・天児屋根命・比売大神を祀る佐紀神社がある。
 佐紀西町にも佐紀神社があって、ご祭神は経津主命・六郷県命・天児屋根命と、少し異なっているようだ。
 町の皆さんがお忙しい真っ昼間にお参りしたので、どの神社でも参拝の方とは会わず、境内はひっそりとしていたが、雑草一つ生えず、綺麗に清掃されていて、この町の人達の崇敬神の深さに頭の下がる思いであった。
【歌姫町】
 街道のゆるやかな坂を登りつめた辺りで歌姫町に入る。額田王が天智天皇と近江の京に移られる折、奈良山を越える時、ふる里の飛鳥から毎日仰ぎ見た三輪山を省みて詠われた歌
 うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山/山の際に 伊隠るまで 道の隈/伊積もるまでに
 つばるにも 見つつ行かむを/しばしばも 見放けむ山を 情なく/雲の隠さふへしや
 反歌
 三輪山を しかもかくすか 雲だにも/情あらなむ かくさふべしや
 と詠われたのは、この辺りだったのだろうか。
 大伴家持も、住み慣れた佐保の邸を後にして、越中に赴任される時は、この辺りから平城京を振り返って名残を惜しまれただろう。
 さらに、この道を北に進むと、左側に見事な楠の巨木がそびえ立っている。傍の掲示板には「幹周 四・三五メートル、高さ二十四メートル 平成十六年に、奈良市巨樹保存樹に指定された。」旨記されている。この木はこの街道を通じて、随分、世の中の移り変わりを見て来たことだろう。
 その楠のすぐ北側の森に、添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)がある。延喜五年(九○五)から延長五年(九二七)までかかって出来た古代法典 延喜式の巻九〜十の神名式に記されている由緒ある神社で、この町の歴史の古さを物語っている。
 ご祭神は天照大神の弟君である速須佐之男命(はやすさのおのみこと)と、その奥様の櫛稲田姫命(くしなだひめのみこと)。櫛稲田は「奇し稲田」が原義で、神格は農業を司る神様だそうだ。もう一柱は、武乳速命(たけちはやのみこと)で、添上・添下の接点である添御県の地の祖神である。延喜式の祈願祭の祝詞によると、御県の神は代々の天皇の御膳に野菜を献上したと記され、三柱の神様はこの地を禍事から護り、豊饒をもたらして来られたのであろう。 それを感謝するように、参道には奉納された石燈籠がずらりと並び、御神殿の前では苔むした風格のある狛犬が辺りに睨みをきかして神前をお護りしている。
 都を離れて地方に赴任する人も、巡察使として旅立つ人達も、きっと、旅立ちにはこの神社に詣でて、旅の安全を祈り、留守家族の安泰を願われたことだろう。
 この道は、郡山藩の殿様も参勤交代の折、通られそうで、一名、郡山街道とも呼ばれていたそうだ。
 添御県坐神社を過ぎると、道は下り坂になり、右手にはこんもりとした竹薮が続き、左手には美しく手入れされた、のどかな田園風景が展開される。二〜三十年位前までは、歌姫大根といえば美味しい大根の代名詞のように思われていて、ことに漬物大根が有名で、私の家でも、毎年歌姫の方に頼んで持って来て頂いていたが、この頃、宅地が増えて町が発展しておられるのは結構な事だが、良い漬物大根が手に入りにくくなったのは残念だ。
 郷愁を覚える程、おたやかな田園風景を楽しみながら歩いていると、前方に外環状線(ならやま大通り)のガードが見えてくる。そのガードをくぐると、まるでタイムスリップしたみたいに、平城ニュータウンの近代的な街に入って、頭の中を駆け巡っていた古代よりの夢から醒めて、現実に引き戻された感じがする。
 それにしても、今まで私は歌姫という美しい名前と、平城宮に近いところからも宮廷で儀式や祝宴が催される時、また、外国からの使節が来られた時などに、おもてなしのため、歌舞を演じる歌姫が住んでおられた所だろうと勝手に想像していた。
 ところが、この項を書くにあたって資料を調べていると、刑部(うたへべ ・今でいう裁判所の役人)が住んでおられた所という説もあって、自分の持っていたイメージと全く違うのにびっくりした。