第147回(2007年7月号掲載
平城宮跡 平城天皇
隆光上人と超昇寺
【平城宮跡】
 昔はまっすぐだったのだろうけれど、今は折れ曲がっている、かつての一条北大路をさらに西へ進むと、平城旧跡の北側に達する。「咲く花のにほうが如く」と讚えられた平城京は、東西4・3キロ、南北4・8キロの、唐の都を思わす整然としたものであった。その心臓部にあたる平城宮は、平城京の北部、約1キロ四方の地に、皇居、大極殿、朝集殿をはじめ、二官(神官と太政官)、八省(太政官に置かれた八つの中央行政官庁。中務、式部、治部、民部、兵部、刑部、大蔵、宮内の八省。)が建ち並び、官庁には一万人余りの人々が勤務しておられたそうだ。七代、七十余年間(七一○〜七八四)の帝都として、文化史上に絢爛たる華を咲かせた平城京も、平安京に遷都の後は荒れ果てたり、勤勉な国司の指導によって田畑になったりして、明治の初期には、神社仏閣とその門前町を含む、平城時代外京と呼ばれていた辺りだけが奈良だと思われていて、平城京がどこにあったかということは、ほとんど知られていなかった。
 明治二十八年、京都で平安遷都千百年祭が盛大に行われたのを機にして、では、その前の奈良の都の宮殿はどこにあったのかということに、世間の関心が高まってきた。その頃、奈良県技師として赴任されてこられた元東大教授の関野貞氏は、「都跡村、佐紀の田圃の中に、高い土壇があって、地元の人達が『大黒芝』と呼んでいる所が大極殿の跡で、大黒芝とは、大極殿をなまったものではないか。」という説を発表された。
 一方、当時、奈良公園の植木の管理を委されていた大手の植木職、棚田嘉十郎氏は、公園で仕事をしていると、観光客に「社寺仏閣はお参りしてきたけれど、天皇がおられた御所の跡はどこにありますか?」と尋ねられても返答ができなくて困っておられた。関野氏の説を聞いた棚田氏は、飛びつく思いで平城宮跡の保存顕彰に尽くされた。その姿に感激された佐紀町の大地主 溝辺文四郎氏も、棚田氏を助けて保存運動に絶大な協力をされた。明治三十九年、両氏の呼びかけで、有志が寄って「平城宮址保存会」が設立され、さらに大正二年には、大極殿と内裏跡保全のため、「平城大極殿址保存会」が結成され、大極殿跡の土壇の前に「大極殿跡」の碑が建てられた。
 私が、初めて平城宮跡へ連れて行って貰った昭和十年頃は、すすきや雑草が生い茂る荒地の中の、小高い丘のような一角に、由緒あり気な松の木があって、その前に大きな碑が建っているだけで、「これが奈良の都の宮城の跡だよ。」と言われても、子供心に信じ難い思いであった。おそらく、明治時代にこの碑が建てられた頃よりも、荒れ果てていたのではないだろうか。
 戦中、戦後も、しばらくは、綺麗に手入れされた青田の中に、荒地が取り残されているような状態だったが、昭和二十八年十一月、一条大路の改修が進駐軍の命によって行われた時、遺蹟が発見されて大騒ぎになつた。
 秋されば、春日の山の 黄葉見る
  寧楽の都の 荒るらく惜しも
 
と、大原眞人今城(まびといまぎ)が歌った頃は、咲く花の匂うがごとく華やかに栄えた奈良の都が、京都に都が遷ってからは、色鮮やかだった黄葉が散って行くのを見るように、急激に荒れ果てて行くのを惜しんで、人の世の無常を感じて詠じたものと思われるが、晩秋から冬を迎えた平城京は、雪に閉ざされて長い冬眠状態に入ったようだ。
 千年に余る厳寒時代を経て、雪解けが始まり、土がところどころ顔を見せ出したのが、明治から大正を経て、この一条大路改修の折の発見だろうか。
 昭和三十四年からは、国費で大々的な発掘調査や、周辺遺蹟の土地の買上が進められるようになった。
 私どもの経営する奈良自動車学校は、昭和三十三年の六月七日に開校したので、その建設が始まった昭和三十二年頃から、教習が軌道に乗るまでの三十年間は、私も毎日、この平城宮跡の横を通って、学校のある西大寺へ通っていたので、ちょうど、刻々と姿を変えていく宮跡の様子を実際に目にすることが出来た。時には、ライオン・ライオネスクラブ合同で、清掃奉仕に行ったこともあった。袋を持ってごみを拾っていると、すぐに一杯になつてしまう。「ゴミここへ入れなはれ。」と、大きな袋を持って集めに来て下さったのが、当時の奈良市長大川靖則さんだったこともあった。
 この頃では、朱雀門が復原され、その前には、かつての朱雀大路の一部かと思われるような広場が整備され、東院・東院庭園も、天平時代を想わす姿を取り戻している。今や、遷都千三百年に向かって、大極殿の建設が進められているし、建物のあった柱の跡には、柱のように刈り揃えられた柘植の木が並び植えられて、千三百年前の都の様子を偲ぶに難くない姿を取り戻しつつあるのは有難いことだ。
【平城天皇 揚梅陵】
 平城宮跡のすぐ北東に平城天皇の揚梅陵がある。平城天皇は高貴なお生まれでありながら数奇な運命をたどった方である。平城天皇は桓武天皇の皇子で、安殿親王と申し上げた。七八五年、皇太子 早良親王(光仁天皇と高野新笠の間に生まれた皇子で、桓武天皇の異母弟。光仁天皇のご遺志により、桓武天皇の皇太子になったと伝えられる。)が、藤原種継(桓武天皇の皇后のお父様で、安殿親王のお祖父様に当る。)暗殺事件に連座したとして廃位されたのを受け、安殿親王が皇太子となられ、大同元年(八○六)に即位して天皇となられた。
 お父様の桓武天皇が、平安京建設と蝦夷征伐の大事業をなされた為に生じた、国家財政の破綻を収拾するために律令制の官司を大幅に整理したり、地方の民情視察を行う観察使を創設する等、積極的に政治変革に取り組まれた。
 しかし、早良親王の怨霊のたたりといわれる風病に悩まれ、在位わずか四年の八○九年、弟の神野親王(嵯峨天皇)に譲って、平城上皇となられた。平城上皇は、転地療養のため、幼少時代を過ごされた、懐かしい平城京に移って養生なさるうちに、すっかり健康を取り戻された。
 一方、嵯峨天皇はその頃から健康がすぐれず、即位後初めての八一○年の正月の朝賀の式も取りやめられ、七月には川原寺、長岡寺での祈祷や、伊勢神宮への病平癒を祈る奉幣が行われるような状態であった。
 こうした事情の中で、すっかり元気になられた平城上皇は、東宮時代から溺愛していた藤原薬子(藤原種継の娘)と、その兄の藤原仲成等と共に、重祚(ちょうそ/退位した天皇が再び即位すること。)を企てられた。
 同年九月には、薬子などが上皇を擁して平城京への遷都を計り、官人も二分して「二所の朝廷」を生み出した為、人心が動揺し、決定的な対立となった。天皇方の攻手に対し、薬子方も兵を募って応戦したがかなわず、上皇側は、東国へ逃れようとされたがうまく行かないで、仲成は射殺され、薬子は服毒自殺した。
 上皇は落髪出家して草庵を結んで余生をおくられ、八二四年七月七日逝去された。この草庵が、後の不退寺だと伝えられる。平城天皇の皇子で皇太子であった高岳(たかおか)親王も、薬子の変で皇太子を辞し、出家して真如上人と号され、平城天皇の楊梅の宮を改めて寺とされたのが超昇寺であると伝えられる。
 真如上人は、仏教の奥義を極めるため中国に渡り、さらに印度の仏蹟を目指される途中、虎に襲われ亡くなられた。一説には、自分の体力では、とても仏蹟まで行けないと悟った上人は、自ら餓えた虎に自分の身体を与えて、虎の腹に入ってでも、目的の地に達したいと念願されたのだとも言われている。
 また、平城天皇は詩文や和歌を好まれた事で知られる。その皇子 阿保親王の子には、平安初期の有名な歌人、在原行平・業平の兄弟もおられる。この項を書くにあたって、楊梅陵にお参りした。境内は静まり返って、人影は見当たらないが、綺麗に清掃された前庭は初夏の陽光に満たされ、平城天皇が生前こよなく愛された平城宮が、長い眠りから醒めて、今度は歴史的遺産として、往時の輝きを取り戻しつつあるのを、喜んで見守っておられるような感じがした。
【超昇寺の創建】
 平城天皇の御代、皇太子であった高岳親王は、弘仁元年(八一○)薬子の乱で、皇太子を辞して出家し、東大寺で三論を、東寺で空海(弘法大師)から、真言密教を学ばれた、真如上人と号されて、父君の平城天皇の楊梅の宮を改めて寺とされたのが超昇寺だという。寺域は、はっきりしないが、平城天皇が御所になさった跡だから、かなり広大なものであったと思われるが、治承四年(一一八○)の平重衡の南都焼打の際に消失した。
【隆光上人と超昇寺の再興】
 時代は下がって江戸時代の中頃(慶安二年/一六四九)佐紀村の河辺家に元気な男子が産れた。初名は河辺隆長、字(あざな)は栄春。後に、江戸幕府の守護寺、知足院の住職を務めた隆光上人である。河辺家は藤原魚名(養老五年/七二一〜延暦二年/七八三)を祖とする旧家である。非常に利発で、唐招提寺や長谷寺等、大和の諸寺で唯識・三論・華厳・倶舎を学び、一六八六年、江戸・湯島の知足院住職となり、江戸城中鎮護の祈祷に努めた。徳川綱吉将軍に認められて、神田橋外に五万坪の地を賜り、知足院をそこに移した。隆光上人は、綱吉と、その生母の桂昌院に気に入られ、大僧正となり、江戸幕府の守護寺として、大和の長谷寺をはじめ、唐招提寺・法隆寺・東大寺等の復興に力を尽くされた。
 隆光さんが復興に力を尽くされたのは、七大寺に数えられるような大寺ばかりでなく、我家の菩提寺である十輪院も、隆光さんのお口添で大修理が行われたとのことで、土塀の瓦に三葉葵の紋が入っている。
 隆光上人は、ともすれば、実子を望む綱吉将軍に取り入って「生類憐れみの令」を奨め、それがエスカレートして社会不安を引き起こした悪僧のようにも伝えられている。「それはとんだ冤罪で、隆光様は偉大な学僧で、まして奈良にとっては大恩人である。」として、隆光大僧正の濡れ衣を取り除いて名誉の挽回をはかりたいと、奈良のお坊さん達の有志が集まって「隆光大僧正を顕彰する会」を作って努力しておられる。
 宝永六年(一七○九)将軍綱吉が亡くなられると、隆光上人に対する風当たりも強くなり、生れ故郷の佐紀村に帰り、超昇寺の再建に力を尽くされ、この寺で余生をおくられたという。
 せっかく、江戸時代に隆光上人が復興された超昇寺も、明治の排仏毀釈で廃寺となり、門やお堂は北新町の正行寺や二条町の歓喜寺に移築され、仏像や絵巻物は奈良国立博物館に寄託されているそうである。
 超昇寺を書くにあたって、何度か佐紀町へ超昇寺の跡を探しに行ったが、道を歩いている方や畑で仕事をしておられる方に尋ねても、ついにわからなかった。超昇寺を終の住み処として亡くなられた隆光様のお墓は、超昇寺内にあったのではないかと思って、佐紀幼稚園の南裏側にあるお墓へもお参りした。綱吉将軍にも尊敬され、大和の寺院を数多く修復して下さった、奈良にとって大恩人の隆光様は、信じられない程、質素な墓石の下で眠っておられた。(お墓の斜前には、昭和五十三年に建てられた「隆光大僧正墓所」の碑があり、裏面に隆光師の遺徳などが記されている。)ここに名刹にとらわれず、何事にも真剣に取り組みながら、時代の趨勢に流されて、本意ではない誤解を受けられた聖人の真の姿があるようで、心を込めて礼拝した。傍らの幼稚園の石垣が、超昇寺の名残りかなとも思ったが、よくわからない。超昇寺がなくなってから百年余り。由緒あるお寺が、これ程分からなくなるのかと、びっくりした。(というよりも、私の探し方が悪いのだろうけれど。)
 近くに佐紀神社や釣殿神社があるのでお参りしたが、人影も見えず、ひっそりと静まり返っているのに、境内に草も生えず綺麗にお掃除されているのに驚かされた。町内の方達が、この歴史のある地に誇りを持って、心をこめてご奉仕しておられるのだろうと感心した。
 超昇寺について分からないので、奈良市史を見てみると、超昇寺城についての記述があったので引用しておく。
 平城宮跡に隣接する大地先端部に超昇寺城がある。平城宮北面の築垣を利用して城域が設定されたと見てよい。東方一帯は超昇寺跡で、城主の超昇寺氏はこの寺僧の出自と推定される。長禄三年(一四五六)三月、南山城の琵琶小路氏と相良(楽)新氏の争いに巻き込まれ、相良新氏が超昇寺城に逃げ込んだので、琵琶小路氏とその加勢の越智・古市勢がこれを攻め落とし、「竹木を払う」つまり城郭破却を行った、という事件が城の初見である。(「大乗院寺社雑事記」)十六世紀に入ると、この城は超昇寺氏の居城としてではなく、南都を制する権力者の陣城としての側面が目立つようになる。南都の南の今市城に対応して、南都の西を押さえるという機能を果たしたようである。(後略)
 お寺と武将というのは、今の感覚ではおかしいと思うが、昔は僧兵もあって、戦ったこともあったことだから、やはり、高岳親王が創設された超昇寺の流れだろうか。