第146回(2007年06月号掲載
北一条大路
(佐保路)
 平城京の地図には、碁盤の目のように整然と坊と条とが描かれ、南一条大路に平行して北一条大路が通っている。しかし、この項を書くにあたって、何度も北一条大路の名残と思われる道を歩いてみたのだが、途中で南の方に折れていたり、途切れていたりして、これがかつての北一条大路だと思われる道は見当たらない。しかし、昔から大和の国と山城の国との国境に横たわる平城山(ならやま)とも呼ばれる佐保・佐紀の丘陵の南面には、元明天皇の奈保東陵、元正天皇の奈保西陵をはじめ、多くの御陵や古墳が点在する。
 最愛の妻を失った大伴家持は、
 昔こそ外にも見しか吾妹子が
 奥津城と思へば 愛しき佐保山
(昔は、なにげなく眺めていた佐保山だが、いま、妻の墓があるかと思うと、愛しくてたまらない。)
 佐保山にたなびく霞見るごとに、
 妹を思い出 泣かぬ日は無し
(佐保山に霞がたなびく度に、妻を火葬にした時の煙を思い出して、妻をなつかしんで泣かない日はない。)
 と詠まれているように、奈良時代、平城山は皇族や中央貴族の火葬場や墳墓の地になっていたようだ。
【奈良坂】
 転害門から北へ進むと、路線バスが通る現在の幹線路は、佐保川を渡る所で大きく右に迂回し、遠回りではあるが、ゆるやかな傾斜の道になっている。旧道は、真っ直ぐ丘陵を越えるため、かなり急な坂になっている。旧道は山城の木津を通って京都に通じるので、京街道と呼ばれ、佐紀の歌姫越と共に、京に通じる主要道路であった。
 山城と大和の境に横たわる平城山を越える道としては、奈良時代は平城京に近い歌姫越を利用される事が多かったようだ。しかし、都が京都に遷ってからは、東大寺や興福寺に直接通じる奈良坂越が、奈良詣、京見物の主要道路となったのだろう。
 奈良坂を通って奈良に入ってきた京街道は、上街道から伊勢街道にと続いているので、長谷詣や伊勢参り、吉野見物の道としても賑わったようだ。奈良の入口にあたる手貝町あたりは「旅宿郷」とも呼ばれる程の宿場町で、般若寺付近には、関所も設けられていたということだ。
 平城京から新都への遷都の折、新しい都への期待に夢をふくらませながらも、藤原氏出身の貴族達は、祖先をお祀りしている春日大社や興福寺へ報告の参拝を済ませてのち、この奈良坂から旧都をふりかえり、大寺の甍や塔が立ち並ぶ奈良の風景に、名残を惜しまれたのではないだろうか。
【北山十八間戸】
 奈良坂を登りきる少し手前の右手に、南向きの、東西に細長い、簡素だが由緒ありげな切妻造の建物がある。
 この建物は、鎌倉時代に、名刹西大寺を復興された興正菩薩叡尊の弟子良観が、師の教えである戒律の実践の一つとして推し進められた、貧者救済の精神に基づき、当時最も難病とされた癩病(ハンセン病)患者の救済施設として建てられたものである。
 当初の建物は般若寺の東北にあったらしいが、永禄十年(一五六七)に三好・松永の乱で焼失したので、寛永年間(一六六一〜一六七三)に、当初の規模・様式に基づいて、今の場所に再建されたという。
 内部は十八の室と仏間が一列に並んでいるので「北山十八間戸」と呼ばれている。前の庭には二基の古井戸と、奥の方には地蔵菩薩や沢山の石仏が祀られている。この十八の室で亡くなった人達の供養のために建てられたのだろうか。後に残った人達も、先人の極楽往生と自分達の死後の安楽を願って、心をこめて供養されていたのであろう。
 良観は、奈良坂の癩病患者が重症で物乞いに行けないと嘆いているのを見て、毎日、朝夕その患者を背負って奈良の市に行き、物乞いを助けられたと伝えられる。当時、近づくのさえ恐れられた癩病患者を、自らおんぶして、患者の心の自立を図られたというような話の背景には、光明皇后の悲田院や施薬院の伝承も影響しているのではないだろうか。良観上人は、その高徳を認められて、後醍醐天皇から忍性菩薩の号を与えられておられる。
 この北山十八間戸も、私が子どもの頃、先生に連れられて見学に訪れた頃は、建物はかなり傷んでいたが、前庭まで自由に出入り出来た。今は綺麗に修復されたが、その代わり勝手に出入りすることは出来なくなった。
【夕日地蔵】
 北山十八間戸から少し北へ行った右手の民家の間に、二メートル余りもありそうな石の地蔵菩薩が立っておられる。民家の並びだと思ってうっかり歩いていて、ふと左を見ると立派なお地蔵様が立っておられるのに、びっくりする位の大きさだ。室町時代のものらしく、永正六年(一五○六)の年号が刻まれている。
 「夕日観音と呼ばれているのは、平素はやや、きびしい表情をしておられるが、夕日を受けた時のお顔は、慈悲深く、親しみやすい感じになります。」と聞いたので、この項を書くにあたって、久しぶりに夕陽の射す頃、お参りに行った。なる程、明るい夕陽を浴びたお顔は柔和で温かい感じであった。拝礼してから更によく拝見させて頂くと、お地蔵様の前の線香立が道と平行に、やや斜めになっている。その線香立の正面から、少し西南西から拝むと、お地蔵様のお顔が真正面になり、やさしい穏やかな表情に見えるが、真東向きに拝すると、目じりが少し上って、厳しい表情に見える。これ程大きい石に、これだけ繊細な表現をされた作者に敬意を表する。
 北一条大路の付近と思われる辺りには、名刹 般若寺や、光仁天皇が父君の志貴皇子(しきのみこ)の御霊を祀るために創立され、翁舞で有名な奈良豆比古(ならずひこ)神社、元明天皇奈保山東陵、元正天皇奈保山西陵、開化天皇の孫、狭穂彦、狭穂姫の哀話が伝えられる黒髪神社などがあるが「奈良の昔話 奈良町を支えた里編」に書いたので略させて頂きます。
【佐保殿】(さほでん)
 現在、法蓮佐保田町と呼ばれている辺りに、平城時代には、藤原不比等の次男で、藤原北家の祖となった房前(ふささき)の邸宅があった。平安京へ遷都後は、別荘のような役割をしていて、藤原氏の氏神である春日大社への参宮の時などに使われていたようだ。摂関家の春日詣の行列は、その勢力を誇示する様に、派手で供まわりも多いが、もともと私祭なので、公的な宿所を使うのを遠慮して、房前の旧邸の規模を改めて「佐保殿」が設営されたと伝えられる。藤原氏を束ねる藤氏長者(とうしちょうじゃ)の春日詣の折りには、前夜は「佐保殿」に宿泊し、日の出を待って春日大社に参拝した。
 嘉承元年(一一○六)十一月の関白忠実の参詣の記録には、「(現在の時間になおして)午前四時頃、京都の東三条殿を出発して、九条から深草、伏見北坂を経て宇治橋を渡り、午前九時頃石清水八幡に着き、その六時間後に佐保殿に到着した。」と書かれている。京都から奈良まで十一時間かかっている。
 大勢のお供を従えての華麗な行列だから、随分、費用もかかったことだろう。春日大社の例祭の中でも、旧暦の二月と十一月の上申の日に行われた「申祭」(さるまつり)は格が高かった。旧暦の十一月といえば、一番日の短い頃だから、午前四時出発と言えば真っ暗な時刻、寒さもきびしいし、お供の人達も大変なことだったろう。
 現在は藤原家の私祭ではなく、国家安泰、国民快楽を願う祭として、京都の賀茂祭、石清水祭と共に、日本の三勅使祭の一つとして、三月十三日に祭礼が行われている。伝統を重んじて、勅使に選ばれる方も、春日大社の宮司さんも、代々、藤原氏の子孫の方々である。しかし、壮麗であったろう佐保殿は、今は無い。
【佐紀の里】
 奈良盆地の北辺と山城の境界を東西に走る、標高百メートル前後のなだらかな丘陵は、一般には奈良山と呼ばれている。東西に続くこの丘陵の真ん中辺りが、谷のような低地になっていて、現在そこには、JR関西線と、それに平行して国道二十四号線が通っている。今は、この低地より東を佐保山と言い、西を佐紀山と呼んでいる。
しかし、JR平城山駅前に、長屋王が詠まれた
 佐保過ぎて 寧楽の手向に置く幣は
  妹を目離れず 相見しめとそ
 という万葉歌碑が建っている。
 「佐保を過ぎて平城山にかかり、この手向けの場所に、旅の安全を祈って幣を供えるのは、無事に早く妻に会わせて頂きたいと願う気持からです。」といった意味だと思うのだが、そうとしたら、当時は佐紀山を平城山と呼んでいたのだろうか。
 長屋王は高市皇子(たけちのみこ)の子で、佐保左大臣と呼ばれ、現在、イトーヨーカドーになっている辺りにお邸があったようだ。王が妹(いも)と呼ばれている奥様は、元正天皇の妹君の吉備内親王で、王は当代きっての知識人であり、権力者でもあった。しかし、元正天皇が聖武天皇に譲位された頃から、藤原氏の専横が始まった。藤原氏を抑えて皇親政治を護ろうとされた長屋王は、藤原氏にとっては、目の上のこぶの様な存在であった。
 藤原氏は光明子を皇后にしたいと思ったが、当時、皇后には皇族出身の方がなることが習わしとなっていたので、強い反対意見が出ることが予測された。その抵抗勢力の中心人物と見なされた長屋王は「左道を学んで国家を傾けようとしている」との、身に覚えの無い密告をされて、自尽に追いこまれた。平城山を眺めながら、この歌を思い出すと、仲良く暮らしておられた長屋王夫妻が遭遇された悲劇に同情を禁じえない。
【佐紀盾列古墳群】(さきたてなみこふんぐん)
 佐紀丘陵の南側、東はJR関西本線と、西は近鉄京都線に挟まれた辺りを中心として、東西約三キロ、南北約一・五キロの範囲に点在する約五十基の古墳群を「佐紀盾列古墳群」と呼んでいる。この古墳群は四世紀後半から五世紀後半にかけて造られたものらしい。四世紀後半に造られた神功皇后陵、日葉酢媛陵(垂仁天皇の皇后)、五世紀前半には成務天皇陵、平城天皇陵、ウワナベ古墳等が、五世紀中頃には、磐乃媛陵、コナベ古墳等が造られたのではないかと言われている。
 なにしろ五十基もあるのだから、称徳天皇陵等、皇族の方達の陵の他にも、丸塚古墳、瓢箪山古墳、猫塚古墳、塩塚古墳、赤井谷古墳等、豪族の墓と思われるものもあって枚挙にいとまがないので、その中から私が昔、この辺りの御陵巡りをした時、聞いて印象に残った話をひとつだけ記しておく。
(磐乃媛陵)
 磐乃媛は仁徳天皇の皇后だった。媛は大和の豪族、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)の娘で、武内宿禰の孫にあたり、臣下から皇后になった最初の方だった。
 天皇を愛するあまり、嫉妬深く、じだんだを踏んで猛烈に嫉妬したと伝えられている。それだけ、愛情も深かったのだろう。
 平凡社の世界大百科事典にさえ、皇后の嫉妬深さについて、「仁徳天皇には妻妾が多くいて、その一人の吉備の黒媛は、皇后をはばかって、吉備へ船で逃げ帰ろうとするが、それに天皇が歌を贈ったのを聞き、激怒した磐乃媛は、黒媛を船から追い降ろして、徒歩で国に向かわせたとも、語られている。」と記されている。
 百科事典には書かれていないのだが、御陵巡りをした時に聞いた話では、その後も、天皇に愛妾が出来たのに腹を立てて、皇后はお里のある大和へ帰ってしまわれたそうだ。天皇は難波高津宮におられたが、きっと慌てて迎えに来て下さると期待しておられたのだろう。その頃にお詠みになったのが、次の歌だということだ。
 君が行き 日長くなりぬ 山たづね
 迎えか行かむ 待ちにか待たむ
(あの方がお出かけになってから、もう随分日がたった。山をたずねて自分から迎えに行こうかしら。それとも待ちに待とうかしら。)
 かくばかり 恋いつつあらずは 高山の 磐根し枕きて 死なましものを
 
「これ程までに恋こがれているのだったら、思い続けてばかりいないで、迎えに行こう。途中、高山の磐根を枕にして、死んでしまってもかまわない。じっと待っているより、死んだほうがましだ。」というような気持が詠まれているのだろうか。
 ありつつも 君を待たむ 打ち靡く
  わが黒髪に 霜の置くまで
「こうして立ち続けて、あの方が来られるのを待ちましょう。この打ちなびく私の黒髪に、夜の霜が置く程遅くまで。」うがった見方をすれば、黒髪が白髪になるまで、とも考えられるが、皇后は一夜一夜を待ちこがれておられたのだろう。
 秋の田に 穂の上に霧らふ 朝霞
 いづこの方に わが恋ひ止まむ
 (秋の田の穂の上に朝霞がもうもうと立っている。果てしない私の恋心のように。)
 どの歌にも、天皇を恋しく思われる皇后の心が偲ばれる。しかし、プライドがあったり、皇后という立場から、自分から出かけて行けないもどかしさ、悲しさが伝わってくるようだ。
 いろいの資料を探してみたが、皇后が大和へ帰られたという記述は見つからなかった。しかし、仁徳天皇の御陵が、和泉百舌鳥耳原(いずみもずみみはら)陵で、難場の宮に近いのに対し、皇后の陵が、奈良の平城宮跡の北、水上池の北側にあるのは、やはり腹を立てて大和に帰ったものの、自分から天皇のもとに戻れなくて悶々としておられたのではないか。
 お里が豪族だけに、大きな立派な御陵ではあるが、恋いこがれながら愛しい方のもとへ戻れなかった淋しさが、伝わってくるようで、心からご冥福をお祈りした。