第145回(2007年05月号掲載
南一条大路
(一条通り)
 平城京は東西に伸びる一条大路から九条大路、平城京の朱雀門から羅城門へ南北に通る朱雀大路をはさんで平行に伸びる左京一坊大路〜四条大路、右京一坊大路〜四坊大路、さらに、一条大路から五条大路の間を東へ五坊大路〜七坊大路と張り出す外京を含めて、規則正しく区切られていた。
【一条大路】
 他の大路が、それぞれ一筋ずつだったのに対して、一条大路は二筋あった。平城京の北側を通る北一条大路は、総国分寺の東大寺転害門から西に伸び、総国分尼寺の法華寺に達する道で、この沿道には大宮人達のみやびやかな邸宅が並んでいたことだろう。南一条大路は、平城宮で一端途絶えて、右京に入るとさらに西へ伸びて、称徳天皇が創建された西大寺の南側を通っていたという。(というよりも、二条大路の北側に西大寺が創建されたと言うべきだろうか。)いま、私達は、南一条大路を一条通りと呼び、北一条通りを佐保路と呼んでいる。
【南一条大路】
 《転害門》東大寺の西面に設けられた三つの門の中で、一番北の門で、いまも往時の威容を保っている。
 屋根は切り妻造り、本瓦葺きで、東大寺創建以来変わらない姿で建ち続けてきた貴重な門で、国宝に指定されている。鎌倉時代に補足された部分と奈良時代の様式が、肘木や斗に見られるという。
 私は今まで「禍(わざわい)転じて福となす」という諺から、転害門となづけられたのだろうと思っていたが、調べてみると諸説があるようだ。
@手向山八幡が宇佐から東大寺境内に勧請された時、この門から入られる時、殺生を禁じられたので、転害門と呼ばれるようになった。
A手向山八幡宮のお祭の時、この門から乱声(らんじょう 雅楽の笛の曲で舞人の出に奏するもの)が奉せられたことから転害門と呼ぶようになった。
B大仏開眼の導師を務めるために、婆羅門僧正が東大寺に来られる時、この門で行基菩薩が待ち受けておられて、僧正の姿が見えて来ると、歓迎の意を姿に現すように手で招かれた。その様子が、手で物を掻くように見えたので、手掻門→転害門となったとも言われる。
 また、才色兼備で一世を風靡した小野小町が年老いて零落し、乞食のようになって放浪していた時、この門でも寝泊まりしていたことがあると伝えられているそうだ。
 歌舞伎で有名なのは、建久六年(一六六六)東大寺大仏殿の鎌倉再建がなり、その落慶法要に参列するために奈良に来ることになった源頼朝を討とうと、悪七兵衛景清がこの門に隠れて、頼朝を狙っていたが、警備の武士に捕えられて目的を果たすことが出来なかった、という逸話だ。それで、この門は景清門とも呼ばれている。
 この門に掲げられている太い〆縄は、五年目毎に、川上町と雑司町の人達のご奉仕によって掛け替えられるそうだ。
(包永町)・かねながちょう
 東包永町と西包永町に分れている。貞和年間(一三四五〜五○)頃、この地に手掻文殊鍛冶平三郎包永が住んでいたので、包永という町名が生れたという。東包永町には、町有の春日赤童子画像、三社託宣の掛軸があって、大切に保管されているそうだ。
 西包永の佐保川沿に佐保川天満宮が祀られている。もと多聞山にあったが、松永久秀が多聞城を築くにあたって、現在地に移したという。ご祭神は佐保姫で、佐保姫の本地は八大竜王だと言われ、元明天皇の御代に初めて神として祀られたという。佐保川は、今はおとなしい川だけれど、昔は竜神様にお願いしなければならない程、長雨の時には氾濫する、あばれ川だったのだろうか。

(北川端町)
 町名の通り、奈良の北方に位置し(この頃は、もっと北まで発展して拡がったが)佐保川に沿った町である。この町にある普光院には、幕末から明治の中頃にかけて、奈良人形の一刀彫の名手として有名な森川杜園氏(文政三年一八二○〜明治二十七年一八九四)のお墓があるということだ。杜園氏は生前、私の家の近くの中新屋町に住んでおられ、私の家の初代傳次郎とは、親しくお付合いさせて頂いていたと、祖母から聞いていたので、なんだか懐かしい感じがする。
(多門町)
 多門町は、その北東に位置する佐保山の一角に松永久秀が永禄三年(一五六○)、多聞城(今は法蓮町に属する。)を築いたことに起因する。この土地は、もと東大寺ゆかりの共同墓地があった所だというが、松永久秀はこの墓を油阪に移し、その跡に城を築城したと伝えられる。移された墓石は、いまも油阪町の西方寺の墓地でお祀りされているそうだ。
 この城は、従来の山全体を城とする山城ではなく、山上に城を築き、城の周囲に長屋門を配するという、後世の築城の先駆をなす立派な城で、多くの門があるところから、多聞城(多門城)と名付けたという。また一説には、松永久秀は信貴山の多聞天を篤く信仰していたので、多聞城と称したとも言われる。
 我が国の城郭史の上でも重要な城とされる程、善美を尽くした立派な城だったようだ。当時、日本に来ていたポルトガルの宣教師 ルイス・アルメイダが、本国に送った報告書に「世界中に、この城のごとく、善美を尽くした建物はないと考える。」と記していたという。
 その華麗な城は、残念なことに、創建後、僅か十五年で、織田信長によって廃城となった。その後、豊臣秀吉の弟、秀長が、百万石の城主として郡山城を改築した時、石の多くは郡山城に、建物の一部は伏見城に移されたと伝えられる。今、その城跡は奈良市立若草中学校となっている。
 多聞城にちなむ町名の「多聞」が「多門」になったのは、江戸時代の初めであろうと言われている。
 多聞城跡のすぐ隣に、聖武天皇佐保山南陵と、天平應眞仁正皇后(光明皇后)の佐保山東陵がある。
 御陵の表門は一条通りに面しているので、城址から一条通りに出て、長い参道を墓の前まで行くのは、かなり歩かなければならないが、皇后の東陵から仰ぐと、すぐ隣に城址の桜が見える。私が学校に行っている頃は、五月二日の聖武天皇祭には、全校生徒揃って、この御陵にお参りした。当時は、憲法記念日や子どもの日の連休はなかったが、五月一日は開校記念日、二日は聖武天皇祭で、式や御陵参拝には出なければならなかったが、当時としては数少ない連休のようなもので、楽しみにしていたものだ。
 今回、この稿を書くにあたって、久しぶりに御陵へお参りに行った。昔、よくお参りをした頃は、多勢でガヤガヤと歩道を歩いたが、その日は他に人影もなく、ひっそりとした参道脇の芝生には、すみれやたんぽぽが春の陽光に輝き、木立からは鳥の鳴き声が降り注いで、奈良に千古に誇れる文化財を残して下さった天皇・皇后が、おだやかに微笑んで下さっているような気がして、感謝の心をこめて拝礼した。
 多聞城跡は、石段の下から城址を見上げると、桜が花の雲のように満開で、視野を覆うので、今もそこに城があって、高楼で花の宴が催されているような錯覚を覚えた。
 御陵の前の道を北東に進むと多門町に入る。多門町はもと一乗院門跡の土地であったが、江戸時代の初期頃、奈良奉行所の与力や同心の屋敷町になったという。その頃、佐保川を渡って多門町に入る橋を千石橋と呼んでいたそうだ。与力・同心屋敷へ千石の米が運ばれたというので、この名が生れたと伝えられる。
 また、「冤罪に泣く人や、思わぬ罪を犯してしまった人が、なんとか逃れて千石橋を渡り、多門の殿様(奉行は転任があって時々変わるが、与力は世襲なので、土地の人達は、代々奈良に居られる与力さん達を、殿様のように思っていたのかも知れない。)の所へ逃げ込むと『窮鳥懐に入らば猟師もこれを撃たず。』と言って、事情を聞いて調べ直したり、更生の道を考えて下さった。」と聞いたことがある。きっと人情味のある良いお裁きをされたのだろう。今も格式のあるお屋敷の残る高級住宅地である。
(眉間寺)・みけんじ
 天平勝宝六年(七五四)、聖武天皇の勅願で、佐保山の東部に眉間寺が創建された。それが、戦国時代、松永久秀が佐保山に多聞城を築くにあたり、聖武天皇の御陵の西南に移された。
 この寺からの眺望が素晴らしかったので、一名、眺望寺とも呼ばれていた。幕末に奈良奉行を務められていた川路聖謨公も、奈良巡行の折、眉間寺に詣でて、その眺望の素晴らしさに感動し、江戸に残してきたお母様に、その旨を書き送っておられる。その名刹も明治維新の排仏毀釈で取りこわされた。今残っていれば、緑の中に多宝塔や重厚な寺院の屋根が映えて、古都 奈良のチャームポイントの一つとなったであろうに。眉間寺の名残としては、小川町の傳香寺に、永正年代の銘のある立派な石地蔵が残っているだけである。
(法蓮町)
 奈良町の北方にあって、明治時代頃までは、奈良八ヶ村の一つとして、ほとんど農家だったそうだ。
 しかし奈良時代には、南に佐保川が流れて、夏には涼風をもたらし、北には佐保・佐紀の山が連なって、四季目を楽しませ、冬は寒い北風を防いでくれる、住宅地として最適の場所だったので、大宮人達の優雅な住居が並んでいたと伝えられる。
 明治二十二年、市町村制が実施されるにあたり、市になるためには人口が足りなかった奈良町から、合併を要請された。しかし、近在の村は、村という組織に愛着を持っておられたのか、奈良町からの要請には応じず、法蓮村、法華寺村、半田開村が合併し、佐保村を設立された。この時、三村を合併出来たら、奈良市として出発出来たのだろうが、合併できなかったので、奈良町として、新制度に出発した。明治三十一年になって、ようやく人口が三万に達したので、二月に待望の市制が実施された。
 明治四十二年、奈良女子大学の前身、奈良女子高等師範が設立されるに伴い、法蓮に住宅地が増えてきた。
 大正十二年、佐保村は奈良市に合併され、翌十三年には、奈良県立奈良中学が設立されて、法蓮町は大いに発展した。
 私が物心ついた昭和の始め頃、大人達は寄るとさわると「法蓮良うなりましたなあ。」「綺麗な家がたくさん建って、見違えるようになりましたなあ。」と話合っていた。それは、昭和三十年頃、「学園前見違えるようになりましたね。」「蕨や山つつじが生えていた野山が、ハイカラな町になって、日に日に発展して行きますなあ。」と話題にのぼっていたのは、子どもの頃に聞いた、法蓮町の話にそっくりだなと思った。
 私が学校に行っている頃は、先生や友達の家が圧倒的に法蓮町に多く、友達の家に行って帰りが遅くなると、蛍が飛び交って、こんな所に住みたいなと羨しく思ったものだった。
 法蓮町は広くて、市行政町名や通称名が三十近くもある程なので、町名毎の説明は略させて頂くが、一条通りには、一条高校や育英学園があり、奈良県法蓮庁舎もあって、文教行政を兼ね備えた文化住宅地である。
(法華寺町)
 聖武天皇の御代に、全国の国分尼寺を総括する総国分寺として造営された、法華寺の門前町である。法華寺は、正しくは「法華滅罪の寺」といい、氷室御所とも呼ばれていた。光明皇后の父君 藤原不比等の旧邸のあった平城左京一条三坊の地に、光明皇后の皇后宮が設けられ、天平十七年(七四五)宮寺に改められた。
 その後、総国分尼寺として整備され、法華寺と呼ばれるようになったという。代々皇族や華族出身の御門跡が大切に法燈を護ってこられた。現在の御門跡は久我高照様という優雅で清らかな方である。
 ガンダーラ国から来日した問答師という工匠が、光明皇后のお姿をモデルとして彫刻したと伝えられるご本尊の十一面観音始め、貴重な仏像の数々や光明皇后が千人の病人を清めて救われたという浴室等があるが、以前、奈良の昔話の「奈良町を支える編」に記したので、略させて頂く。