第144回(2007年04月号掲載
二条大路―2
宿院町から平城宮跡まで
 此の間、鍋屋町と宿院町のほぼ境目(少し西に寄っていて宿院町になる)から南に伸びる花芝町の旅館、白鹿荘で、京都教育大学付属小学校の生徒さんに「奈良の昔話」をさせて頂いた。
 「皆さんが今夜お泊まりになるこの場所は、花芝町といって、興福寺の北花園があった所と伝えられております。花園といってもヨーロッパのお城にあるように、眺めたり散歩をしたりするための花園ではなく、仏様にお供えするためのお花を栽培していた所です。興福寺は大きなお寺で塔頭寺院も多く、それぞれに沢山の仏様がお祀りされているので、その仏様にお供えするためのお花は、この北花園と、猿沢池の辺りにあった南花園で栽培されていたということです。お供え用の花といっても、花園は綺麗ですから、天皇や皇后が興福寺や東大寺にお参りの時は、お食事の後などに、この辺りを散歩なさったかもしれませんね。この町の突き当たりの道は、今は細い径ですけれど、平城時代は、二条大路といって、幅が三十六メートルもあるメイン道路で、大宮人達が桜や楓をかざして優雅に歩かれた道なんですよ。」といったような話をした。
 この花芝町が旧二条通りに突き当った辺りから東の鍋屋町が、鐘や鎖、鍋・釜等を造る仕事をする人達が多かったのに対し、西に並ぶ、宿院町や坊屋敷町、内侍原町は、平安時代から春日祭に参詣する京都のお公家さん達が宿泊された所だという。
【宿院町】
 宿院という町名は、昔、春日祭の勅使の宿坊があったからと伝えられる。また、一説には興福寺の仏師 宿坊定政が住んでいたからと言われる。興福寺西金堂に祀られていた仏像の多くは、宿院定政の作であるということだ。
 右大臣 藤原道綱の母が書かれた蜻蛉日記(九五四年から二十一年にわたって書かれたもの。)にも、初瀬詣の途中、春日大社に参拝し、宿院に宿泊した旨記されている。
【坊屋敷町】
 慶長八年(一六○三)中坊秀正が「奈良奉行」に任じられ、とりあえずこの町にあった自宅で奉行所としての役目を果たしたので、中坊屋敷と呼ばれるようになり、坊屋敷町という町名が生れたという。しばらくして、現在奈良女子大学になっている場所に、奉行所が設置された。
 奉行所の敷地は、東西、南北とも約九十三間(一間は約一・八メートル)あり、坪数約八千六百九十五坪もあった。大岡政談で有名な大岡越前守が奉行をしていた江戸、南・北町の奉行所も、大阪の奉行所も、三千坪から五千坪位であったというから、日本一の広大な奉行所だったのだろう。この奉行所は、大御所 徳川家康公が奈良に来られた時、泊まられていたというので、格式の高い奉行所であったようだ。奈良女子大の南門からは目と鼻の距離にある崇徳寺の初代住職、緑誉上人と家康公は竹馬の友であったというから、この奉行所に滞在された折は、鎧を脱いで庭の松の木に掛け、ゆっくりくつろいで懐旧談でもされたのであろう。今でも家康公鎧掛の松というのが、枯れてはいるが残っている。
【内侍原町】(なしはら町)
 大昔、この辺りには梨の木が数本繁茂していたので、梨子原と呼ばれていたそうだ。天平勝宝元年、東大寺の鎮守として宇佐から八幡様を勧請した時、ここに神殿を作ってお祀りしたと伝えられる。その後、春日祭の時、上郷や諸司の使内侍等の宿舎となったので、内侍原と書くようになったという。昔、宇佐八幡を勧請してお祀りした遺跡は分からないが、現在、八嶋神社のある所が、その跡ではないかと言われている。古くは内侍原八幡宮であったようだが、八幡の幡の字が、あまりにくずして書かれていたので、後世の人がこれを嶋と読み、遂に八嶋となったと「奈良坊目拙解」に記されている。この町には、江戸中期のものといわれる「春日大社太々神楽参拝記念帳」が保存されているというから、やはり、春日大社とゆかりの深い町なのだろう。
【北大路町】
 内侍原町の北隣に北大路町がある。聖武天皇のご発願と伝えられる十一面観音様を祀る堂があったので、観音堂町とも呼ばれていたという。現在、厄除の観音様として有名な慈眼寺さんである。初午や二の午には、「厄除観世音」の赤い幟旗が立ち並び、境内は溢れんばかりの参詣者で賑わう。厄年に当たる人は申込をしてご祈祷をして頂くが、なんとなく温かい情緒のあるお寺である。
 戦国時代には、豪族飯田氏が、この辺りに城をかまえていたそうだ。飯田直基の息子の頼直は、筒井順慶の次女と結婚し、筒井氏とは姻戚関係になっていた。この頃、松長久秀が多聞城を築いて勢力をはっていたが、織田信長に反したので、命を受けた筒井順慶等に攻められて落城した。功労によりこの辺りの実権を与えられた順慶は、姻戚関係にある飯田氏にその管理をまかせた。飯田氏は、城外の渓間を開いて田圃にした。現在、半田開町といわれている辺りだろう。法蓮町に残っている古地図には「半田開田」と記されているそうだ。
【菖蒲池町】(しょうぶいけ町)
 古くからこの地には菖蒲が自生している池があり、菖蒲池と呼ばれていたという。奈良時代には、五月五日の菖蒲の節句には禁裏(宮中)に菖蒲を献上していた土地だと伝えられる。
 また、一説には、平安末期の武将で、禁裏をなやませていた鵺(ぬえ)を退治したので有名な、源三位頼政の妻の「菖蒲の前」が、頼政の死後、尼となって、この地に住んでいたので、菖蒲池町と呼ばれるようになったとも伝えられる。
◆称名寺
 この地には称名寺という名刹がある。文久二年(一二六五)興福寺の別院として創建された「興北院」と呼ばれていた。後に本堂を建立して釈迦如来・阿弥陀如来を安置して称名寺と改名された。ご本尊の背後には春日曼荼羅(鹿曼荼羅)が納められているということだ。元々、この寺の鎮守として春日大社が祀ってあったそうなので、この曼荼羅は、その鎮守社に祀られていたのではないだろうか。他に薬師如来、木造地蔵菩薩、木造、増長天等、重要文化財が目白押しである。
 この寺には室町時代、わび茶の開祖 村田珠光師(一四二五〜一五○二)が住んでおられた。大徳寺の一休禅師の門に入り「仏法も茶湯の中にあり」との語を得てからは、茶禅一味の境地に達し、禅味を加えた、わびの精神を重んじる点茶法を編み出し、茶道の祖と言われている。称名寺には、珠光ゆかりのお茶室「珠光庵(独炉庵ともいう)」がある。珠光好みの庭に、珠光ゆかりの井戸、珠光の分霊をお祀りした墓がある。茶道を大成させた千利休師(一五二二〜一六八八)も、二十三才の時、奈良の塗師 松屋久政を招いて、記録に残る初めての茶会を開かれた時、村田珠光ゆかりの茶碗で茶を点じたと記されているから、茶道をたしなむ人達にとって、珠光さんは貴重な存在だったのだろう。現代でもお茶を志す人達にとっては、得難い存在で、私や娘達も、それぞれ習っているお茶の先生に連れられて、このお寺で開かれるお茶会に参加させて頂いたことがある。
 このお寺には千体地蔵と呼ばれる沢山の石の地蔵尊がお祀りされている。貞享年間(一六八四〜一五○二)頃、この寺の住職をされていた海空和尚が、市内に散逸していた石地蔵尊を集めて、ここでお祀りされたそうだ。この寺は代々奇特徳なお坊さんが護ってこられたので、茶道も千体仏も大切に伝えられてきたのだなと思う。
【船橋町】
 寛永の中頃、佐保川に橋が架けられていた。その橋の用材として、破損した船を解体した古材を使ったので、当時の人達は「船板橋」と呼んでいたが、略して船橋となり、地名にもなったという。昔、漢国神社の南側に有名な澤庵禅師開基の如意輪観音をお祀りした芳林寺というお寺があった。天和二年(一六八三)に、この町に移築されて、芳林庵と呼ばれて大切にされていたが、明治初年の排仏毀釈の騒動でなくなってしまったということだ。もったいない話だ。江戸時代には、この町はほとんど農家だったようだが、大軌電車(近鉄の前身)が開通し、油阪駅が出来たので、商店が多く出来て繁華街となった。
【畑中町】
 二条大路に沿って畑があり、畑の中に農家が建っているところから畑中町と呼ばれるようになったという。寛永(一六二四〜一六四四)年間の地図には畑中村となっている。阿弥陀如来をお祀りした明寛寺というお寺がある。
【北市町】
 鎌倉時代、興福寺の別当職であった一乗院門跡が、住人達の便宜のために、領内に市場を開設されたのが北市で、それが町名になったという。市場といっても常設市場ではなく、一定の時期と期間を定めて開かれる定期市場だった。平素は静かな農村だったのだろうが、市場がたつ時は、海石榴市(つばいち現在の桜井氏金屋)で詠まれた
  紫は灰指すものを 海石榴市の
   八十のちまたに 逢へる兒や誰
 といった賑わいを見せ、ロマンも生れたことだろう。
 奈良市には、南市、北市、高天市、古市、今市等、市のつく町名が多いが、いづれも、昔、定期市のたった所である。
 今も南市町では、一月五日の夷神社の祭礼の日には、五日夷といって、交通整理の人達が沢山立って下さる程、押すな押すなの人で賑わう人出になる。私の家でも、毎年必ずお参りをして、吉兆笹を頂き、福箕や大判等を付けて貰って、自宅では神棚の近くに、自動車学校では教頭室(校長室より人の出入り多いので。)に挿して、その年の無事安全と家業の繁栄を祈る。
 参拝者の数は昔と変わらず多いが、今、参道の店は、吉兆笹をつける縁起物を等を売る店になった。私が幼い頃、祖父母に連れられてお参りしていた昭和の始めの頃は、まだ飴屋さんや首巻や毛糸の帽子、手袋などの小物を並べた雑貨屋さん、猪の皮を使った山や田畠で作業するための防寒靴を売る店、縁起物の花かんざしを売る店等が並んで、私はいつも、いくら噛んでも折ってもお多福さんが出てくるお多福飴や紙風船などの一寸した玩具を買って貰うのが楽しみだった。アイデアものの日用雑貨を呼び声も面白く実演販売をしている店(すべて露店であるが)などがあって、今から思うと、あれが昔の市の名残だったのかと思う。
 私はお参りをしたことがないのだが、北市の夷神社は十日夷で賑わうと聞いている。私の住む元興寺町や隣の井上町では、昭和初期、一六の夜店というのがあって、一と六のつく日に夜店が開かれていたが、ひょっとしたら、南市は五のつく日(五、十五、二十五日)、北市は十の日(十、二十、三十日)に市が開かれていたのではないだろうか。(というのは私の勝手な想像で、識者には叱られるかも知れない。)会所に地蔵菩薩をお祀りし、中通りの南側に観音堂があって如意輪観音をお祀りしていた。観音堂は荒廃してしまって無くなってしまい、地蔵菩薩像は称名寺に預かって貰っているそうだ。
 明治時代の中頃から住宅地とて整備され始め、戦後に急速な発展をみせ、住宅やお医者さん、商店などが立ち並ぶ繁栄した町になっている。
【芝辻町】
 少し北へ入りすぎたが、道を旧二条通りに戻って、畑中町を過ぎてJR関西線の線路を渡ると芝辻三丁目に入る。この芝辻町というのは大きくて、菖蒲池町から船橋町の間にも芝辻北町があるのだが、西の方が大きく拡がっているので、後にまわした。
 江戸時代は、農家を主とした奈良町周辺の八つの村の一つであった。今は繁華街や住宅街になっているが、農業の神である野神様が祀られている。楠の大木にしめ縄がはられ、毎年六月一日には粽(ちまき)を供えて野神祭が行われるそうだ。
 大正四年に大軌電車が開通して油阪駅が出来、法蓮村が奈良に合併されて、平城時代には大宮人達の住居であった佐保丘陵が住宅地として発展し、学校等も次々出来るにつれて芝辻町や船橋町は商店街として、住宅地として大きく飛躍することになった。昭和四十五年、大阪で日本万国博覧会が催されるにあたって、その関連事業として、近鉄奈良線は、油阪駅の西から地下へもぐることになり、「油阪駅」の代わりに、芝辻町四丁目に「新大宮駅」が出来、その近辺は近代的なビルが建ち並ぶ近代都市に生まれ変わった。
 旧二条大路がJR線と交わる辺りの南の方に、昭和四十年代位までは「ガラガラ池」という池があった。戦後、この付近に住宅が建ち並んで、農業用水の必要が無くなったので、この池は埋め立てられて住宅地となり、芝辻一丁目となった。
 新大宮駅を過ぎた辺りから、かつての細々と続いていた旧二条大路は、近代化されて昔の面影をとどめなくなってしまったが、この辺は、天皇や皇族が、貴族達が往き交われた道だったのだろう。
 そうこう言っているうちに、平城宮跡に到達する。七八四年に山城の長岡宮に遷ってからも、平城天皇の離宮として用いられたりしていたが、九世紀には廃絶してしまい、水田や草原になってしまって、宮跡はどこか見当もつかなくなっていたようだ。明治時代になって、関野貞(ただし)という方が、土地の人達が「大黒芝」と呼んでいる土壇が大極殿の跡ではないかと推定した。さらに、その南方にひろがる水田跡の中に、古図に見える朝堂院の十二の殿舎に相当する土壇を発見したという。
 関野氏によって平城宮の実態が多少分かってきたので、明治末期から大正年間にかけて、平城京の顕彰運動が始まった。運動を始めたのは、佐紀町の大地主、溝部文四郎氏と、奈良公園の樹木の手入をまかされていた植木職の棚田嘉十郎氏であった。運動はやがて実を結び、一九二二年、平城宮の中心部分とされた、朝堂院跡付近が史跡に指定されて保存されることになった。しかしこの運動で、私財をつかい果たした棚田氏は、債権者に迷惑をかけたというので、割腹自殺されたそうである。奈良にとって大恩人なのに、悲劇的な最後を遂げられたのは誠にお気の毒であるが、この古武士のような方の名は、平城宮跡と共に語り継がれるであろう。
 とは言っても、太平洋戦争までは、平城旧趾という碑が立っているだけで、草原や水田であった。大切な史跡であるとして国に買い上げられ、昭和二十九年(一九五四)以来、国の力で発掘調査が行われたので、種々のものが出土して、当時の生活を偲ばすよすがとなり、研究がおおいにはかどった。
 今では朱雀門や東院庭園が復元され、遷都千三百年を目指して大極殿の復元作業が進められている。