第143回(2007年03月号掲載
二条大路―1
かつての二条大路と七坊
大路の
交差点から、油留木町と鍋屋町
【旧二条大路】
 大豆山町を北に進むと、今は奈良女子大の駐車場になっている、昔は、私が通っていた奈良女高師付属小学校の正門前(鍋屋町)に出る。この学校の前を東西に通っている道は、今は細い道だが、かつては東大寺の西大門から西にのびて、平城京の朱雀門に通じる平城京二条大路であったという。
 二条大路は平城京の朱雀門から、南の羅城門に通じるメイン道路であった朱雀大路(幅八十四メートル)につぐ大路で、幅三十六メートルもあったという。他の大路は二十四メートルだったというから、朱雀門から興福寺の北側を通り、東大寺の西大門に至る重要な道であった。通りの両側には樹木も植えられてあったようで、奈良時代には大宮人が桜をかざし、紅葉をかざして優雅に歩かれた道であろう。
 現在は、東大寺西大門趾から西へ、油留木町、鍋屋町、宿院町、坊屋敷町、内侍原町、菖蒲池町、芝辻町、畑中町等を経て、平城宮跡に達する道として、往時を偲ばせているが、かつては三十六メートルもあった大路とは思えない位、細い道になっているのに、都が京都に遷って以来の千二百年の歳月が感じられる。
 奈良時代、皇居の朱雀門から直線道路によって最短距離で結ばれていた東大寺の西大門は、いつ頃焼失したのだろう。聖武天皇の勅願によって、五穀豊穰・天下奉平・国家鎮護のため、全国に建てられた国分寺の中でも、総国分寺として権勢を誇った東大寺ではあるが、永年の間には、意外に種々な災難に遭遇しておられる。

【東大寺の罹災】
 天平勝宝四年(七五二)四月九日、盛大な開眼供養会が行われ、天下安泰、万民快楽の象徴とされていた東大寺盧遮那仏(奈良の大仏様)が、百年程経った平安時代の斉衡(さいこう)二年(八五五)五月の大地震で、大仏様の頭が墜落したと伝えられるから、他の建造物も大きな被害を受けたことだろう。
 九三四年十月には、西塔及び回廊が落雷によって焼失している。治承四年(一一八○)十二月には、平重衡によって、奈良時代以降の諸堂や坊舎がほとんど焼け落ちた。この時は、重源(ちょうげん)、栄西など、造東大寺大勧進上人によって復興が続けられ、ことに後白河上皇を中心とする院や宮廷・公卿の援助、源頼朝を頂点とする武家達の助力によって復興が行われた。
 文安三年(一四四六)にも、せっかく復興なった講堂、戒壇院などが焼失し、再興されたが、永正五年(一五○八)に炎上した講堂、三坊僧坊は、ついに復興されることはなかった。永禄十年(一五六七)十月には、松永氏と三好氏の兵火によって、大仏殿、戒壇堂等が焼失した。
 昔は他に、大きな造営物も少なかったので、落雷や地震等の被害も受けやすかったのだろう。さらに、乱世の頃ともなると、自衛のための僧兵達の力も強くなった反面、その兵力がどちらにつくかによって、形勢も変わってくるので、牽制の意味で武家に焼かれることもあったのではないだろうか。
 いずれにしても、災害がある度に僧侶達の熱心な勧進と、貴族や武士達による協力、一般大衆の信仰心により不死鳥のように見事に再建しておられる。この西大門は被災後に建て直されて、再び焼けたのか、倒壊したのだろうかと思って、碑の裏にでも刻まれているかと、改めて見に行ったが、被災の年月は見当たらなかった。都も京都に遷ってからの事だから、南大門は大切にされても、廃都となった平城京に直結していた西大門は再建されなかったのかも知れない。
【一里塚】
 西大門趾の碑の少し南の木陰に「一里塚」と彫られた小さな石標が立っている。一里塚というのは、中国では古代からあったようだが、日本では室町時代に足利義晴が始めたと言われている。織田信長や豊臣秀吉の頃から、三十六町を一里として、一里毎に五間四方の塚が築かれ始めたという。全国的に設けられるようになったのは、慶長九年(一六○四)徳川家康が秀忠に命じて、江戸日本橋を起点として、主要街道に設置させてからだ。塚には榎や松等の樹木を植えさせたと伝えられる。西大門趾の側にある一里塚の傍らにも、内部がうつろになって枯れ折れた、榎らしい大木の残骸が立っている。きっとこの一里塚は、江戸の初期に、京都から奈良への京街道の道しるべとして立てられたものだろう。一里塚は、旅人の一日の行程の目安や、馬や駕籠を利用する場合の賃金の基準として重宝されたのだろう。
【南都八景】
 一里塚の少し南に雲井坂という碑と轟橋という小さな碑が建っている。
 昔から、南都八景として「南円堂の藤」「猿沢池の月」「春日野の鹿」「三笠山の雪」「東大寺の鐘」「雲井坂の雨」「轟橋の行人」「佐保川の蛍」が挙げられている。
 この中で「南円堂の藤」は今も五月頃には見事な花を咲かせて、参詣の人達の心に、極楽浄土を垣間見たような安らぎを与える。「猿沢池の月」は、仲秋の名月の夜は、采女伝説にちなんで、采女神社に献じた花扇を龍頭船に積んで池を二周し、池に投じて供養するという、天平の雅を連想させるような行事も催されるが、何も行事の無い時、池畔から、塔や寺のシルエットの上にかかる月を見るのも素敵だ。「春日野の鹿」は、今も奈良のシンボルで、奈良公園に鹿がいなければ、「画竜点睛を欠く」ようなものだろう。
 「三笠山の雪」は、御蓋山か若草山かとの疑問もあるし、近年、暖冬が多く、あまり雪景色も見られないが、緑深い御蓋山の樹木に積もる雪は神々しく優美であり、若草山に積もる雪は明るく晴れやかで、どちらにしても南都八景の一つにふさわしいと思う。
 「東大寺の鐘」は、奈良時代に鋳造された鐘だというが、今も健在で国宝に指定されている。平素はこの鐘を撞くことは禁じられているようだが、大晦日の除夜の鐘として、旧奈良市内(奈良市も広くなっているので、新市内までは無理だろう)に響きわたる。やっと迎春の準備が出来上がって、テレビが各地の除夜の風景を放映しだす頃になると、私はいつも廊下へ出て、身の引き締まるような寒風に乗って聞こえて来る、この鐘の音に耳を澄ます。総国分寺として権勢を誇った東大寺にふさわしい荘重な鐘の音を聞いていると、過ぎ去った年月の思い出がよみがえり、新しい年に対する期待や希望が湧いてくるような感じがする。
 八景のうち、ここまでの五景は昔を偲ぶ面影を残しているのだが、あとの三景が、かなり姿を変えている。
 「雲井坂の雨」だが、雲井坂は昔はかなりの坂であったらしく、西大門のあたりからの展望が素晴らしかったそうで、ことに雨にけぶる風景は幻想的で人々の心をとらえたのであろう。この坂を重い荷車を曳いて上るのは大変だったので、坂の下の方で重そうな荷車が来るのを待っていて、荷車を押し上げる手伝いをして、駄賃を貰う人達もいたので、押上町という町名が出来たと聞いたことがある。京都と奈良を結ぶ重要街道だったから、人や荷車の往来も多かったのだろう。今は、この道が国道二十四号線として改修された時、なだらかにされたので、その風情は残っていない。
 「轟橋の行人(旅人)」の轟橋の場所には諸説があるが、天保十五年(一八四四)五月に作成された「和州奈良の図」には、雲井坂のすぐ南に道を横切る川が描かれ、とどろきの橋と記されている。その川の水は「みどりゐ池(地図にはみどり池となっている)」から流れて来ていたようだ。轟橋と彫られた碑の下方にある歩道には、橋の土台の名残ではないかと思われる板石が三枚残っている。この池の水は緑っぽい色をしているので、私も以前はみどり池だと思っていたが、碑には「みどりゐ池」と記されている。「佐保川の蛍」も、私が子どもだった昭和の初め頃には、夕闇迫る頃、この辺を通ると蛍が飛び交って幻想的な趣を見せていたが、戦後、田畑に農薬が使われだしたせいか、佐保川のみでなく、蛍の姿をめっきり見なくなった。夏の夜の情緒をかもし出す蛍の乱舞が見られなくなったのを憂えた東大寺の故上司永慶師が、三十年位前から蛍の幼虫を苦労して集めて、東大寺境内の川で育てたり、試行を重ねた結果、蛍を復活させて、平成二年に蛍の会を結成された。その頃から東大寺境内を中心に、蛍の光が見え始めたので、やがて「佐保川の蛍」も、かつての華やぎを取り戻すことだろう。
【油留木町】
 この町が「ゆるぎちょう」と呼ばれるようになったのかについては諸説がある。伝承によると、昔、この町に霊験あらたかなお地蔵様がお祀りされていた。人々が心をこめて祈願をして、お地蔵様がその願いを受納されると、うなずくようにゆらゆらと揺れられたので、ゆるぎ地蔵と呼ばれ、それが町名になったと伝えられる。この地蔵菩薩は、後に眉間寺に移され、明治の初期に眉間寺が廃寺になったので、今は伝香寺の境内に安置されている。仏身が一メートル五十二センチという堂々とした石のお地蔵様である。
 また、一説には「この町に池の樋口、あるいは小川の水門があった。樋口や水門などを『ゆるぎ』と呼んだところから町名になったという説もある。」と奈良町風土記に書かれている。
 この町に、一挙(ひとこぶし)の弁財天と呼ばれる弁天様が祀られていたそうだ。東大寺の理源大師が山上岳(大峯山)に登られた時、大蛇が現れて大師をこの辺りまで追ってきた。大師が現在の雲井坂の辺りまで逃げてこられると、急に黒雲が降りて来て、大師と大蛇の間を遮った。その時、鈴谷左近将監が利剣でその大蛇を刺して退治した。大師は、その大蛇の霊をこの町に祀り、弁財天と称したと伝えられる。この伝説によって、その坂は雲井坂と呼ばれるようになったということだ。
【鍋屋町】
 この町は、昔は鍋や釜、鉄器などを造る家が多かったから町名となったのだろう。というのは、私が学校に通っている頃も、鉄工所が何軒かあったからだ。これを書くにあたって調べてみると、遣唐使として唐へ渡り、苦労して天竺から帰られたばかりの玄奘三蔵様の弟子になられた道昭様が、三蔵様から鎖(くさり)を頂き、帰国してからこれを真似て造らせたのが鎖の始まりだと伝えられる。道昭様は帰国して元興寺の前身である飛鳥の法興寺に入り、弟子達の教育をされた。奈良に都が遷るにつけて、法興寺も半分奈良に移って元興寺となる頃には、道昭様は亡くなっておられたが、弟子だった行基様が諸事を取りしまられたので、鎖を作る技術も奈良にもたらされたのであろう。でも、その頃の平城外京(奈良町)は寺町だったから、鍛冶屋さんや鉄工所が多くなったのは、もっと時代が下がってからではないだろうか。
 太平洋戦争が終わった昭和二十年夏、主人は幹部候補生として四国で教育を受けていた時だったので、終戦後すぐ、帰郷を許された。教務を担当していた将校さん達は、帰郷が少し遅れるので「奈良へ帰るのだったら、荷物を少し持って帰ってくれ。」と頼まれて、将校さんの荷物を預かって帰って来た。鍋屋町だというので、その荷物をお届けに行くと、「大きな鉄工所だった。」と言っていた。
 いま、NHKの奈良放送局のある場所には、昭和四十七年まで大きな鉄工所があって、江戸時代、東大寺の大仏様の頭部修理の際、そこで鋳造されたという程の歴史のある工場だったということだ。
 しかし、仕事が繁忙になると、火災をおこす恐れがあるというので、郊外へ移られ、その跡地がNHK奈良放送局になったというから、そのお宅だったかも知れない。
 鍋屋町から女子大の方へ曲がる角のところに「春日有職 奈良人形師」の竹林節(恵美子)さんのお宅がある。節さんは一刀彫の名工 履中斎氏を祖父に、昭和の第一人者とうたわれた薫風氏を父に持つ、一刀彫の名家の継承者である。節さんは父祖伝来の天分と持ち前の刻苦勉励の精神で、伝統に基づきながら工夫をこらした作品を造られるのを認められて、伊勢神宮の舞楽面や、春日大社、橿原神宮、大阪の住吉大社等に作品を納めておられる。
 格調高い奈良一刀彫の起源になったのは、春日若宮おん祭の行事に用いられる杯台と田楽花笠を飾る奈良人形だと言われている。
 杯台はおん祭の饗応に用いられる用具で、高さ二十センチ、幅四十五センチ、奥行三十五センチの桧材の台の上に、めでたい松竹梅の造花と、一刀彫の奈良人形を飾った豪華で格調高いものだ。大宿所祭の後、祭礼関係者をねぎらう時には、お神酒を頂く人に対して正面を向け、頂く人達は、このおめでたい景色を見ながら祭礼の無事を祈るということだ。。
 田楽花笠は、田楽座の笛役がかぶる大きな花笠で、一番上には金の太陽と銀の三日月を配し、五色の紙垂(しで)をなびかせ、華やかに飾られた牡丹の造花の下に春日大社をあらわす鳥居を据え、笠の一面には「高砂五ッ人形」を、反対面には「猩々三ッ人形」を配する豪華なものである。
 節さんは、昨年も杯台の人形の依頼を受けて三ッ人形の「猩々」を彫られたそうだ。杯台は百二十年間、中断していて、昭和六十三年に復活されたものというが、節さんは平成元年からほとんど毎年引き受けておられるという。その忙しいさなか、私は毎年、年末の優秀社員の表彰式に贈る、新年の干支人形をお願いに行く。いつも「忙しいのですが。」とおっしゃるのを、無理に頼んでいることを改めて恐縮して感謝すると共に、今後の益々の御精進をお祈りする。
 竹林さんのお宅角を右に曲がると、初宮神社がある。春日若宮おん祭に参勤する田楽法師は、おん祭のお渡りの前に、この神社に参詣して田楽を奉納されるそうだ。学校へ通っている時は、毎日この前を通っていたが、そんな格式のある神社とは知らなかった。
 初宮神社の向いには林さんという歯医者さんがある。私が学校に通っていた頃は、ここはやはり林さんだが眼科の女医さんだった。その頃、わたしはよく「ものもらい」(目いぼともいうが、麦粒腫というのが本当らしい。)をつくって、この目医者さんに行って治療をして貰った。
 今は私ども夫婦とも、この林歯科の西大寺の診療所でお世話になっている。不思議なご縁だなと思って、歯の治療に行く度に、眼科だった女医先生の事を懐かしく思い出している。その頃はものもらいを切って貰うのは痛くていやだったのだけれど…。年月が経つということは不思議なものだ。