第142回(2007年02月号掲載
中街道―5
大豆山町
【大豆山町】
 中筋町を更に北に進むと、大豆山(まめやま)町に入る。大豆山は昔、眉目山とも書いたそうだ。それには次のような伝説がある。
(町名の由来)◆玄9僧正の受難
 奈良時代の僧 玄9は、その才を認められて、霊亀二年(七一六)遣唐僧に選ばれ翌年入唐した。玄9は法相を学び、玄宗皇帝から紫の袈裟の着用を許されるまでに精進して、天平七年(七三五)諸仏像と、経論五千余巻を携えて帰国した。
 玄9と同行し、儒学や天文学、兵学、音楽まで学んで一緒に帰国した吉備真備と共に、時の右大臣 橘諸兄に新知識を認められて重用された。これをねたみ玄9や橘諸兄と対立していた藤原広嗣は、藤原氏内部でも孤立し、七三八年末、大養徳守(やまとのかみ)から、大宰少弐に左遷された。
 広嗣は七四○年八月、玄9と吉備真備を除くことを要求する上申書を中央政府に提出し、その返事を待たず八月末頃、挙兵にふみきった。広嗣も奮戦したが、中央政府軍にはかなわず敗れて捕えられ、斬殺された。
 一方玄9も、天平十七年十一月、筑前観世音寺造営のためとして、左遷された。観世音寺は天智天皇が、筑紫の朝倉行在所で崩御されたお母様、斉明天皇の追善供養のため建設されていたのが、未完成になっていたのを仕上げるためと、落慶法要の大導師を務めるためであった。玄9が赴任してから半年余りで観世音寺は見事に完成して、天平十八年六月十八日、落慶法要が執り行われることとなった。当日、威儀を正して大導師を務めておられた玄9僧正は、その法会の場で亡くなられた。(というのは歴史書に残っている事実であ。る。これからが伝説になる。)
 言伝えによると、筑前国太宰府観音堂で落慶法要の導師を務められる玄9僧正が威儀を正して高座に登壇し、鐘を打ち鳴らし、啓白を述べ始められた時、一天にわかにかき曇り、雷鳴が轟いて、黒雲が降りてきて高座に巻き付いたと思うと、導師玄9を巻き込んで天に騰っていった。怨霊は天翔けて奈良の都に玄9の遺体を運び、バラバラにして空から撒いたといわれる。
 興福寺の境内に落ちていた頭を弟子たちが拾って葬り、土塔を造って供養したのが頭塔、肘が落ちてきたのが肘塚町、眉と目が落ちてきたのが眉目山町(大豆山町)で、同町にある名刹、崇徳寺の境内に、眉目塚の跡と伝えられている場所がある。同寺の西南の隅の小高くなつている所で、今はこの寺の鎮守の神が祀られている。
 ちなみに広嗣は、朝敵として討たれたにかかわらず、「亡霊が荒れて恐ろしきことが多くおこった。」と言われ、後難を恐れて、佐賀県唐津市の鏡山にある、神功皇后が祀られている鏡神社の別殿に安置されている。奈良の新薬師寺の西南にある鏡神社は、そのご分社である。
 一方、玄9様は、幼い頃から秀才の誉れ高く、国の威信にかけて秀逸を選抜する遣唐使に選ばれて唐に渡り、長安の都で法相唯識論の権威、智周大師より、法相教学の奥義を学び、経論五千巻と仏像などを招来して献上したり、多くの学僧を育てて、天平文化や仏教の興隆に大いに尽力された仏教界の大恩人である。
 興福寺では、法相六祖の一人として尊敬され、丁重にお祀りされているというが、一般には、その御高徳を知らず、怪談めいた伝説の被害者的存在位いに思われているのは、誠に申し訳のないことだと思う。
 また、町名の由来について、一説には崇徳寺の山号「花甞山」(花賞山の誤記か)の甞山(なめやま)と大豆山の語音がよく似ているので、大豆山になったのであろうとか、大豆山という人が、ここに住んでいたのだろうかとも言われている。

【華賞山 崇徳寺】(そうとくじ)
 この町の中程の西側に崇徳寺という立派なお寺がある。私は子どもの頃、当時この通りの突き当たりにあった奈良女高師(奈良女子大学の前身)の付属小学校に通っていたので、毎日、この通りを行き来していたので、お寺があることは知っていたが、境内まで入ったこともなく、由緒も知らなかった。ところが、今回大豆山町を書くに当たって、崇徳寺様について下調をしてみると、色々ないわれがあることが分かって、改めてお寺にお参りをした。御住職はお留守だったが、奥様が親切に案内してくださって、寺伝などをお話いただいた。
◆崇徳寺の由緒
 この寺の寺域は、かつては興福寺の別院 花林院のあった所である。治承四年(一一八○)平重衡(たいらのしげひら)による南都焼打の際焼失して以来荒地のままで、周囲に人家もなかったようだ。天正年間(一五七三〜一五九二)の頃、一人の僧が、この地に庵を結んで、念仏修業に励んで、精進していた。
 このことを聞き伝えて多くの人々が、この僧の徳を慕って集まって来るようになった。この僧は駿河出身で、少年の頃、徳川家康公と竹馬の友であったという。幼い時から出家の志が深くて、諸国行脚で修業の末、この地に留まったと伝えられる。
 関ヶ原の戦で勝利を得た家康公が、南都に立ち寄った時、この僧と久しぶりに対面して、寺院の建立と知行五千石を与えると申し出たが、僧は固く辞退して、出家は三衣一鉢の身で何も望まないと答申した。この僧が崇徳寺開山の、縁誉上人休道月公大和尚である。
 慶長八年(一六○三)家康は江戸幕府を開き、大和三十三ヶ寺院に朱印を授ける時、崇徳寺には付近の山林と、堪忍分として知行五十石を与えた。「堪忍の五十石」の朱印で、他の寺院とは異なるものと伝えられている。
◆本堂
 家康公は当時の奈良奉行、大久保長安に命じて本堂を建築させた。昭和五十五年、本堂修理の時、創建当時の棟札が発見されて、「上棟 慶長八年五月二十五日 本願 縁誉上人休道月公大和尚 大檀那 大久保拾兵衛 惣奉行 原田貳右衛門丞 附奉行 北七右衛門丞」と記されていたという。本堂は東向で、寄棟造・本瓦葺で、桃山時代の建築様式を伝える簡明なものである。
 本堂内陣中央の宮殿厨子には御本尊阿弥陀如来、その横には観音・勢至菩薩を祀り、四方を四天王が守護しておられる。コンパクトによくまとまったお姿だなと合掌して、右側を見ると、これもコンパクトな二十五菩薩が安置されている。
 あまり綺麗に整っているので、最近、造像されたものかと思ったが、十五世の和尚様が発願されて、文政八年(一八二五)春に完成し、薬師堂に安置されたものだそうだ。平成十五年五月十七日、本堂建立四百年慶讚法会を挙行されるに当り、数年前から大修理を行われた際、薬師堂に納められていた二十五菩薩もかなり傷んでいたので、綺麗に修理して、本堂に納められたということだ。
 本堂内脇壇には、初代家康公から十三代家定公までの、江戸幕府歴代将軍のお位牌がお祀りされているが、何故か十四代家茂公と十五代慶喜公のお位牌は見当たらないそうだ。
 本堂の前には、創建当時よりと思われる蘇鉄の大木が茂っている。右前には家康公鎧掛けの松というのがある。武士の頭領たるものどこにいても心を許せない時代ではあるが、幼馴染の縁誉上人に会って、鎧を脱いで庭の松の木に掛け、くつろいで話をされたのであろう。初代の鎧掛けの松は枯れて、今たっているのは二代目だというが、これも最近枯れて赤葉になっているが、今も姿正しく立っている。この外にも枝が見事に芸をしている立派な老松があるが「この頃、松の病害虫が流行っているようなので心配です。」と奥さんが仰言っておられた。
◆庫裏
 桃山伏見城解体の時、その古材を京都の諸寺に贈られたが、崇徳寺の庫裏は、上台所と言われた建物を家康公から賜って移築したものだという。
 建物の木割も大きく、規模も伏見城当時のままで、屋根瓦まで運ばれて来たらしく、豊臣家の家紋、太閤桐の紋瓦や、石田三成の家紋と思われる桔梗紋の瓦も使われているそうだ。
◆客殿
 客殿は、本堂の創建後、間もなく造営されたようだ。その形式手法から、江戸時代初期頃と推定される。主室の三畳もある書院には、木箱に納められ、さらに格子造りの駕籠のようなものに納まったご朱印が鎮座していた。この駕籠は、将軍が替わる毎に、朱印を頂きに江戸との間を往復していたと伝えられる。
◆薬師堂
 薬師堂にお祀りされている薬師如来像は、もと、東大寺 瑠璃寺の本尊であった。しかし治承四年の平重衡の南都焼打の際、瑠璃寺も兵火によって焼失してしまった。その後、吉城川から出現されて、崇徳寺に招来され、薬師堂に安置された。宝永元年(一七○四)四月十一日に芝辻町より出火し、油阪から高天・中筋・東向・坊屋敷・半田・押上から水門に至る民家や社寺が焼け落ちるという大火があって、崇徳寺の周囲も、隣家まで焼失したのに、薬師堂のところで火が止まって崇徳寺は焼失をまぬがれたという。
 その後も奈良の町は数回大火に見舞われたが、この寺は焼けなかったので、人々はこの薬師如来の霊験を口々に称えたと伝えられる。
◆阿弥陀如来三尊石枠仏
 崇徳寺境内の墓地の東側には、おだやかなお顔の阿弥陀如来と観世音菩薩・勢至菩薩を大きな石に浮彫にした三尊像があって、にこやかな笑顔で墓地を見守っておられる。
◆明治以降の崇徳寺
 慶応三年(一八六七)十五代将軍 徳川慶喜公が大政奉還され、朝廷からは王政復古の大号令が発せられて、二百六十五年間続いた江戸幕府は幕を閉じた。
 明治の始め、維新政府は神道の国教化をすすめる立場から神社と寺院の分離政策を取り、それによって、排仏毀釈の運動となり、廃寺や合寺が行われた。明治五年の学事奨励により、お寺が学校として利用されるようになり、崇徳寺にも「尚教舎第五番小学校」が設立された。小学校が大豆山突抜町に移ってからも、崇徳寺には「大豆山女紅場」が設立されて、十五歳以上の女子に裁縫などを教えておられたそうである。
 お寺が学校として利用されたのは、いずこも同じで、元興寺極楽坊は現在の飛鳥小学校の前身に、鳴川町の徳融寺は済美小学校の前身に利用されていたようだから、各お寺、色々なことがあったのだろう。寺が学校にというのは、寺子屋からの発想かも知れない。
 時代も落ち着いてお寺本来の仕事に励んでおられた昭和の初期から徐々に政情が不安定になって、戦争に突入し、太平洋戦争の末期になると、大都会では空襲を受けて亡くなる人も多く、物的被害も膨大になってきた。
 その頃から、大都会の国民学校(小学校)児童の地方への疎開が始まった。崇徳寺でも、昭和十九年(一九四四)から翌年の終戦頃まで、親元を離れた大阪の生野国民学校の児童約五十名を疎開児童として受入れられたそうだ。子ども達は、本堂と客殿で生活し、学校は佐保国民学校へ通っていたという。
 まだ親に甘えたい年ごろの子どもが、親の側を離れて、馴れないお寺で生活するのも淋しかっただろうけれど、物の不自由な時代に五十名もの子どもを引き受けてお世話をするのも、また、県指定文化財となるような重要な建物の内で、いたずら盛りの子どもたちを住まわせるのも、随分、心身共に疲れられたことだろう。このことを思うだけでも、二度と戦争などには巻き込まれないよう、永遠の平和を祈る思いだ。
 戦後の復興も進み、日本経済も高度成長期に入り、世の中も落ち着いてきた昭和三十八年(一九六三)、現住職の善誉良道師が第二十三世の住職に就任された。
「その頃は、三百六十年の星霜に耐えたお寺は、雨漏りが各所でおこり、老朽化がはげしく、次から次へと修理の必要性に迫られた。」と「崇徳寺の歩み」に記しておられる。もっともなことだと思う。我々民家では、それ程古くなくても、戦争中、家の手入れなどしないままになっていると、一寸した雨漏りでも周囲が傷んで、戦後、大修理をしなければならなかった。お寺は太い立派な材木を使っておられるとはいえ、三百六十年もたったら、いかに頑丈な建物であっても、修理が大変なことだっただろう。
 昭和四十六年から三十数年かけて、寺院の全建物の修復から、仏像の補修、その他、境内の整備を終えられて、平成十五年、本堂建立四百年慶讚法要を見事に挙行されたのは、誠におめでたいことである。
 崇徳寺さんだけでなく、奈良のお寺、どのお寺も、綺麗に修復されて、お詣りする人の心を慰め、極楽浄土を垣間見る思いをさせて頂けるのは誠に結構なことで、お坊様方の穏和なお姿のなかに秘められた偉大な力に感激し、感謝するこの頃である。