第141回(2007年01月号掲載
錘q授けの神 楢神社と街道
 江戸時代の奈良観光
【小西町】
 角振町を更に北に進むと、小西町に入る。昔、ここは興福寺の別院「宝積院」のあった所で、興福寺から少し西にあたるので小西町と呼ぶようになったと伝えられる。今はスーパーマーケットや洒落た店が並ぶ繁華街だが、私が小学校に通うのに、この町をよく通った頃は、いかにも旧家らしい家が建ち並ぶ静かな町だった。(子どもって面白いもので、元興寺町にある私の家から、坊屋敷町にあった女高師付属小学校に通うのに、猿沢池の西側を通ったり、餅飯殿を通ったり、小西町を通ったり、その日の気分によって道をかえて歩いていた。そのおかげで、いま、こうして町にまつわる昔話を書くについて思いおこすと、昔の町の様子がよみがえってくるのである。)
 そのどっしりとした家並みのなかに、門から玄関まで、由緒あり気な庭が見られるお家が何軒かあったように思うので、奈良ライオネスクラブで日頃から親しくさせて頂いている吉川志津子さんにお話を聞きに行った。
◆奈良きもの芸術専門学校
 吉川さんは、学校法人吉川学園、奈良きもの芸術専門学校の理事長であり、校長先生でもある。
 吉川先生は「この辺りに、たしか立派なお庭があったように思うのですが。」という私の問いに対して、「昔、この辺りは春日大社の領域に属していて、うちの学校を拡張して新築工事をするまでは、ここにも風雅なお庭があって、お茶室もありました。壊すのはもったいないと思いましたが、生徒さんは増えてくるし、手狭になったので、しかたなく庭をつぶして拡張工事をしました。昔、そのお庭の部分は、春日さんのおん祭の時だけしか門をあけなかったと聞いています。」と教えてくださった。
 吉川学園は、昭和三年に理事長のお母様が「和服縫裁専門学校」を設立され、その後、校舎の増改築を、昭和三十五年から五回にわたって行われ、カリキュラムや専修コースを増して時代のニーズに応えておられるので、立派な庭をつぶすのは惜しいと思われても、やむを得なかったのであろう。
 私が子どもだった昭和の初期には、ひとつの町内に一軒づつ位は和服の仕立屋さんや和裁のお師匠さんがおられて、弟子たちに教えておられた。その頃は「和裁が出来る。」というのが、お嫁入りの必須条件であったようだ。戦後は洋裁が盛んになり、洋裁学校が増えて、和裁のお稽古場が減っていった。その洋裁学校もだんだんと少なくなり、既製品の服で間にあわす人が多くなった。昨今では、和服を自分で縫うどころか、和服の取り合わせ(襦袢、長襦袢、着物、帯、羽織、帯あげや帯〆、等々小物に至るまでの色や材質の配合)、着付けも、自分ひとりで出来る人が少なくなった。
 これでは、外国の人たちが目を見張る、日本が世界に誇り得る和服の伝統美が若人の間で忘れ去られるのではないかと危惧される。そんな折柄、スーパープロの和裁専門士を養成する「和裁特別専門学科」、ハイレベルな「きものプロ」を育成する「和裁テクニカル学科」、きものとビジネスに精通したプロを育成する「きものビジネス学科」を備え、日本の文化である茶道、華道、書道、着付けやビジネスマナー等を教えておられる「奈良きもの芸術専門学校」は、日本の和服文化を伝承し、ひろめる貴重な存在である。
◆いま、奈良ビブレになっている所は「松よし」という旅館があった場所で、その向い側の三辻になっている南側には大蔵流の家元があって、能舞台もあったそうだが、今は東京に移られ、現在その場所は、ツダ美容室、ダイニングバー雷来、お好み焼 平の家等に替わっている。この小西町から東向町に抜ける東西の通りは、昔は興福寺へ納める瓦を焼いていた所なので、その頃は瓦町と呼ばれていたそうだ。
◆正気書院
 現在、石崎眼科医院になっている所は、昔は正気書院という学校があったという。私の父は明治二十六年生れで、「済美小学校が、まだ陰陽町にあった頃に卒業して、正気書院という中学へ行った。」と聞いていたのだが、この項を書くに当たって「正気書院は男子の中学校だったのでしょう。」と聞くと、「洋裁学校だった。」と言う方もあり、父は、私が十四歳の時に死んだので、幼い時に名前を間違えて覚えたのか、別の所に正気書院という中学があったのか聞く由もないが、若しご存知の方があったら教えてください。
◆小西町には符坂さんという、仕立の洋服屋さんがおられた。その頃、子どもの既製服ってあまり良いのが無かったのだろうか。符坂さんは父と同級生であったという事もあったのだろう。姉や私の子どもの頃の服は、この符坂さんがご自分で寸法を採りに来て仕立ててくださっていた。巻尺で寸法を採る時、祖母はいつも「ぢきに大きくなりますから、大きい目にして、裾上げ等をたっぷりしておいてください。」と言っていた。
 たまたま父が、友人が来ているというので、その場に居合わすと、「わざわざ注文で作って貰うのに、大き目にする位なら、既製服を買ったらいいじゃないか。符坂君、あまり気にしないで適当な寸法で作ってやってください。」と、取りなすように言っていた。
 いま考えてみたら、幼稚園や小学校の子どもの注文服を作るのは、大き過ぎても不格好だし、きっちり作ったら、春作ったものが秋には着られなくなるだろうし、難しかっただろうなと思うが、懐かしい思い出だ。
◆元奈良税務署
 戦後しばらく位まで、奈良税務署はこの町にあった。父母に早く死なれ、戦争中は主人も顧問経理士さんも、応召してしまった。七十歳を越えた祖母や、まだ幼かった妹や赤ん坊の長女を抱え、家計の責任を持たされた私は、税務関係の事も何も分からずに、何かあると税務署まで教えていただきに行っていた。税務署というと、なんだか堅苦しい感じで、近づきがたいように思っていたが、皆さん親切に教えてくださったのに感謝している。税務署が新庁舎に移転されてからは、奈良県市町村会館になっていたが、その後、「スーパーいそかわ」になっている。
◆近鉄と小西町
 大正三年(一九一四)、奈良と大阪を最短距離で結び、「大軌電車」と人々に親しまれた大阪軌道電鉄(今の近鉄)が開通した。
 東向町に奈良駅が設置されて便利になったと喜んだのも小西町にとっては束の間、最初は二輛編成であったのが、乗客の増加によって、五輛編成になるに当たって、駅も西へ拡張される事になった。そのため、今まで小西町から中筋町へと一直線に結ばれていた道路が、駅の拡張によって、西の方にクランク状に迂回しなければならなくなった。その上、電車は地上を走っていたので、電車が通る度に交通は遮断されるので、町の発展を阻害されると、町の人たちは反対して、会社や市役所に抗議を申し込んだが、阻止することは出来なかった。その後、幾度もの交渉の結果、将来、駅舎改築の時は必ず考慮する、町内に照明灯を設置するということで、不本意ながら解決したそうだ。
 昭和四十五年(一九七○)、大阪で世界万国博覧会が開催されるに当り、協賛事業として、奈良県庁から尼ケ辻まで道路が拡張されて、近代的な大宮通が出来ることになった。近鉄も油阪町から地下に入ることになり、油阪駅に替えて新大宮駅が設置され、近鉄奈良駅は地下になって、出口を七ヶ所も設けられる事になった。これで地上の危険も不便も一応解消し、中筋町と小西町を結ぶ道路も、元通り真っ直ぐになって、先の懸案も解決した。
 奈良の人口増加にともない、乗降客が増えるのに加えて、地下からも、一階からも小西町の方面に行ける出口が出来、人通りが多くなるのを見越して、昭和四十三年には、全国にチェーン店を持つ「ニチイ」(現在のビブレ)が奈良店を開店し、続いて食料品スーパー「いそかわ」が、奈良市町村会館跡に開店した。そのうち、洒落たテナントが並ぶ「花小路」が開設されたり、町内の各店もつぎつぎ改造されて、明るい近代的な商店街となった。
 小西町も東向町も、奈良では屈指の繁華街だが、少しムードが違う。東向通りを歩いている人の半分位は観光客なので、地元の人たち向けのお洒落な店もあるが、観光客向けの飲食店やお土産物を売るお店も多い。(お土産物といっても美味しいから、土地の人間も買うし、観光に来られた方も、奈良に行ったら、あのお菓子や奈良漬を買って帰らねば、と言ったところだろうが。)それに対して小西町は、土地の女の人たちが気楽にお買物が出来る親しみ易い雰囲気がある。どちらの商店街も、ますます繁盛して、奈良の経済活性化のリーダーになって頂きたいものだ。

【中筋町】
 興福寺の西の門が三つあったが、その中央の門が、この町にあったと言われる。この門は、中御門とも敬田門とも呼ばれていたが、この中央に通じていた所から、中筋町という名前になったのだろうと思われる。興福寺の別院の花林院があった所なので、昔は花林院町と呼ばれたらしく、天正年間(一五七三〜一五九二)の記録には、花林院町と記されているそうだ。
 町のまん中位に喜多野耳鼻科医院がある。私が小学校に行っている時、同級生に喜多野紀子さん(現在の先生の叔母さんになるのだろうか。)という方がいらっしゃって、学校からも近いので、よく遊びに寄せていただいた。今のように自動車が走り廻る時代じゃなかったので、道路でも安全に遊べた。
 「奈良町風土記」に「同町(中筋町)に、勝手明神をまつる祠がある。」と記されているが、勝手明神とは、どんな神様が辞書をひいたり、種々の資料を調べたが見当たらないので、喜多野さんに遊びに行っていた頃、道の向いに由緒ありげな祠があったのを思い出して、ご祭神のいわれ等を書いた立札でもあるのではないかと、久しぶりに行ってみた。
 二礼二拍手一礼で拝礼してから周囲を見まわしたが、ご祭神の由緒書きは見当たらない。だが、御神前にびっくりする程、立派な楠(多分御神木だろう。)があるのに目を見張った。この辺で鬼ごっこをしたり、隠れんぼをしたりしている時もあったのだろうが、子どもだから関心がなくて気がつかなかったのかなと思ったが、七十年近く前の思い出だ。当時の樹齢に七十年加えているのだから、当時より、立派な大樹になっている訳だと、過ぎ去った年月をなつかしく思い浮かべた。
 紀子さんには美人のお姉さんがいらっしゃって、そのご主人の喜多野徳俊様は、奈良の歴史に詳しく、「奈良閑話」等の著書があるので、ご健在だったら聞きに行くところだが、残念だった。
 中筋町でも東西の通りの近鉄奈良駅前に「菊屋」という、立派な酒屋さんがあった。二百年の歴史を持つという堂々たる店構えで、奈良の玄関口を飾るにふさわしい老舗であったが、昭和四十五年の大阪万博に備えての道路拡張、近鉄奈良駅前の整備によって移転された。
 太い立派な材木を使った由緒ありげな建物が壊されてしまったのは惜しかったなと思っていたら、京都の下賀茂神社のほとりに移築されて、レストランや結婚式場として営業している「愛染倉」として保存されていると聞いて、よそ事ながらホッとしている。