第140回(2006年12月号掲載
角振町
【角振町】
 椿井町を北に進むと、角振町という一風変わった町名の町に出る。
◆町名のおこりと隼神社
「奈良坊目拙解」によると「昔、この町に角振明神が東南の隅に祀られていたので、それから、この町名がおこった。角振明神は火酢芹命(ほすせりのみこと)の御子で隼神を父とし、この父子神二座を祀ったのが隼神社で、小祠なく、柿の木を神木とし、毎年正月にシメ縄を柿の木にかける。」と記されている。
 奈良坊目拙解を書かれた村井古道氏は、天和元年(一六八一)奈良の東城戸で産まれ、後に西城戸に移り、生業の医者として活躍されると共に、当時の奈良の町名の由来を書いた「奈良坊目拙解」や、奈良の社寺や民家、町々で行われる行事を記した「南都年中行事」の著書があり、郷土史についての古書の写本も残しておられる南都地誌の功労者で、寛永二年(一七四九)六十九才で亡くなっておられる。とすると、村井古道氏江戸時代中頃の方だから、隼神社のお祠はなく、ご神木の柿の木をご神体としてお祀りしていたのだろうが、言伝えによると、角振明神の祠は、治承四年(一一八○)十二月におこった、平重衡の南都焼打の際に焼失したと言われるから、それまでは、お社もあったのだろう。
 それにしても、神木といえば松、杉、桧、榎、楠などが多く、柿って珍しいのではないかと思って辞書をひいてみた。すると、「柿は甘いものが乏しかった時代には、貴重な果実でぁった為、日本人にとっては、なじみが深く、呪術や俗信も多く伝えられている。串柿は正月には鏡餅と共に供えられたり、歯固めや、福茶と共に食べられる大切な食物であった。」と書かれている。また、「柿の実は霊魂と深い関係があるとみられ、長野県東筑摩郡では、人魂は生前に住んでいた家の柿の木に来てよりつくと言い、この辺りでは、お化けも柳ではなく柿の木の下に出現するという。」など、柿の木が神聖視されていた旨が書かれ、「昔話に登場する柿の木は、天や地獄など異界と、この世を結ぶ境に立っていることが多い。」とも記されている。
 現在の隼神社は、こぢんまりとはしているが、朱塗りの美しい祠で、境内も清らかに整えられ、柿のご神木がお祠を護るように枝を広げて、この間通ったら赤い実を夕日に輝かせていた。町内の方々や信者さん達が、大切にお守りしておられるのだろうと敬意を表する次第である。
◆筒井順慶と黙阿弥
 「元の黙阿弥」という諺(ひとわざ)は、誰方でもご存知のように、例えば、貧困から身をおこして栄達した人が、失敗して再び元の貧困に戻った様な場合によく使われる言葉で「再び以前の状態戻る。」つまり「物事が振出しに戻る。」という意味で用いられる言葉だが、この起源が角振町にあった事を知っている方は少ないのではないかと思う。
 南北朝時代から大和に勢力を持っていた筒井氏の戦国時代中頃の当主、筒井順昭は、天文十九年(一五二○)重い病気にかかって、南都林小路(現在の奈良市中央公民館辺り)の外館(下屋敷)で、養生していた。
 戦国の世、当主が病に臥すことは一家存亡の危機である。順昭は病をふせて、七月七日、七夕祭りをすると称して、主だった親族や三老(腹心の部下だった、島右近・松倉左近・森好之)をひそかに枕元に呼び寄せて、次のように語った。
「わしは民を慈しみ大和を治めてきたが、不幸にして病を得て、このぶんなら来年夏までは生きてはいまい。藤勝(順慶の幼名。一五六六年、得度して順慶と称す。)はまだ幼いから、松永等は、この機に乗じて、当家を滅ぼそうとするだろう。そうなれば、わしはご先祖様に顔向けができない。そこで一つの案がある。若しわしが死ねば、ひそかにこの土地に葬って追福をせず、三年間喪をかくせ。そして奈良角振町の隼の祠近くに住む、黙阿弥という盲目の者がいる。この者は、よくわしの所にやって来て、筝を奏でて慰めてくれたが、この黙阿弥は顔立ちや声、年格好もわしとよく似ている。彼に事情をよく申し含めて、わしの床に横たわらせ、お前達も以前と変わらず給仕せよ。そして藤勝を守り立てて筒井の家を長く残してくれ。」と遺言し、翌、天文二十年六月二十日、順昭は林小路の外館において没した。享年二十八歳の若さ、嗣子の藤勝(順慶)は、まだ頑是無い二歳の幼児であった。
 遺言を聴いていた親族や三老は、順昭の遺体を外館の奥に人知れず埋葬し、葬儀や供養もせず、黙阿弥をひそかに呼び寄せた。
 黙阿弥を病に臥せっている順昭として、毎日、食膳を運んで側近の人たちがお給仕していたので、筒井家の家臣達でさえ、順昭公は病身ではあるが、生存していると思っていたし、まして敵方に知られることはなかったので、筒井家は攻め込まれることもなく、平穏に月日が過ぎていった。
 この間、親族や三老によって防備を整え、いつ敵が攻めて来ても大丈夫という体制が整ってから、黙阿弥には多額の金銀を与えて、もとの角振町へ帰って貰い、天文二十一年六月二十日、順昭の死を公表した。家中の武士達も驚き、盛大な葬儀が行われたのであろう。そして、筒井城の近くにあった圓證寺を林小路に移して、石塔を建てて供養したという。
 黙阿弥は充分なお礼を与えられたとはいえ、殿様扱いから、元の盲目法師に戻ったというので「元の黙阿弥」という言葉がおこったという。今では「元の黙阿弥」という諺は、成り上がり者が、また、元の貧窮に戻ったといった、あまり良い意味では使われないことが多いが、黙阿弥さんは立派に筒井家を護った、まさに菩薩行を成し遂げた方だと思う。
◆「奈良観光の振興に寄与し、市民の心に娯楽の灯火を点された谷井友三郎氏」
 隼神社の道の向い側に、三条通りに面して有楽会館ビルが建っている。谷井興業株式会社の創始者で、この会館ビルを建てられた谷井友三郎氏は、明治三十四年(一九○一)二十世紀始めの年に、奈良市京終町の藤井勇吉氏の七男として誕生された。若くして谷井家を継ぎ、奈良の名産品の行商をしたり、藤井家のお兄さん達と力をあわせて、各地で開かれる博覧会には、奈良館を設けて奈良の紹介につとめられた。昭和八年に、奈良市制三十五周年を記念して開催された「観光と産業博覧会」を、まだ幼かった私が祖母に連れられて見に行くと、目ざとく私達を見つけた谷井さん、藤井さんの兄弟が、親切に案内してくださったのを憶えている。
 私の祖父母が昔、谷井さんのお兄さん(藤井家の)の仲人をしたことがあるというので、義理堅いご兄弟は、皆さん親切にしてくださつたものだ。各地の博覧会にお仕事に行かれる度に、珍しい食物や物品をお土産に届けてくださった。
 なかでも印象深かったのは、大連に行かれた時にお土産にいただいた、本場ジャワから届いたというジャワ更紗だった。祖母が自室のテーブル掛けにしていたのを、祖母の没後、戦後の繊維不足の折りでもあったので、私がギャザスカートに仕立ててはいていたら、さすが本場もの、皆さんが「良い物ですね。」と言ってくださったのを憶えている。谷井さんは私の家に来られる度に「この家の棟上げの時は、私も手伝いに来て、棟上げの餅まきをしたんですよ。」と、おっしゃっていた。なにかと随分、お世話になったことと思う。
 昭和十五年の皇紀二六○○年の建国記念日の折には、奈良歴史館を開いて、建国の歴史を、実物大の人形を使って、パノラマ式に展示して、友三郎さんの美人のお嬢さんが、黒い紋付に緑の袴を短めにつけて、宝塚音楽学校の生徒さんを思わすような姿で説明をしておられたのが、今でも目に浮ぶ思いだ。
 大阪市立大学大学院の橋爪紳也先生が、「奈良の谷井友三郎は、戦前期、各地の展覧会で、展示企画と出展のとりまとめを請け負った人物である。彼は自分の企画した展示を、思うようなかたちにするため、人形を自作することを考えた。友三郎は知己でもあった博多人形の職人をわざわざ南都に呼び寄せて工房を開設し、人形を製作させている。博多に伝えられた技術が移転したわけだ。」と「蒐集家の博物誌」に記しておられる。ありきたりの既製品の人形に、時代衣装を着せただけではなかったから、その印象が記憶に残ったのかも知れない。
 第二次世界大戦が勃発すると、ニュース館をつくって、刻々と変遷する戦況を市民に報じられた。
 戦後は進駐軍によって中止を命じられた「春日若宮おん祭」を、私費を投じて継続されたそうである。
 昭和二十三年九月六日、当時、民主党総裁であった芦田均首相が、奈良へ演説に来られた時、谷井邸が宿泊所となった。当時、谷井さんが住んでおられたのは、もと、六十八銀行頭取の島田家のお屋敷で、江戸時代は油屋をしておられたそうだ。谷井さんがこのお屋敷を買われた時、祖母は「島田のお嬢さんは『お乳母日傘育ち』という言葉があるけれど、まったく文字通りで、ちょっとお稽古ごとに出かけられる時でも、お乳母さんが日傘をさしかけて、小僧さんが荷物(といっても稽古本か三味線の撥位だろうが)を持ってお供をされていたものだったけれど、あのお宅を友さんが買うてなあ。」とびっくりしていた。(今は、そのお屋敷もとりこわされて有楽会館ビルになっている。)昭和二十九年には下三条町に、お芝居と映画を上映できる有楽座を開館されて、長谷川一夫さんが柿落とし(こけらおとし)に、たしか連獅子を舞われたと思う。
 昭和三十五年(一九六○)は、奈良遷都一二五○年の記念すべき年に当たるので、春日野グランドに神殿を設け
 奈良七重 七堂伽藍 八重桜
 と後世まで歌われるような、輝かしい文化の華を咲かされた。奈良時代の七代の天皇や、祖先達に感謝を捧げて、御冥福を祈り、将来の発展に加護賜るよう祈願して、市民と共に六日間にわたる盛大な祝賀行事が行われた。
 また、市会議員・県会議員、奈良市観光協会会長などを歴任され、奈良の文化財の保護、年中行事の復興などにつとめられた。
 一方、猿沢池畔にお祀りされている采女様の故郷の福島県郡山市、お水取りでご縁の深い福井県の小浜市、文化交流の深かった韓国の慶州と姉妹都市関係を結び、相互の親善と発展に貢献された。
 昭和四十五年(一九七○)には、当時、奈良では珍しかった五階建てで展望台を持つ有楽会館ビルが竣工した。
 柿落しには、やはり長谷川一夫さんが来られて、鏡獅子を舞われ、大好評であった。
 生涯を大車輪で働かれた後を受けて、息子さん達も、観光業界や実業界に於て誠実に活動を続けておられる。亡くなられた友三郎さんも、満足げに見守っておられることだろう。