第139回(2006年11月号掲載
中街道―2
南京終町・綿町・木辻町
・城戸町・椿井町
【南京終町】
 旧中街道を大安寺町から南京終町に入り、JR桜井線を越えて旧市内に入ると、食料品の卸屋さんが軒を連ねていた。ここは、中街道の奈良市への入口に当たっていたために、大正七年二月に、南京終町青果市場が開設され、魚市場も設置されたので、それにともない、鮮魚や青物、乾物、菓子など、各種の食料品の卸屋街となって、午前中など、おおいに賑わった。
 奈良自動車学校を開設する前だから、昭和三十年頃だっただろうか、家でサラダを作る時も、レストランなどでよく出るセロリーやレタスを使いたいのだが、その頃、近所の八百屋さんには売っていなかったので、大阪のデパートまで買いに行っていた。ある時、青果市場へ砂糖を配達に行った社員が「大阪までセロリーを買いに行かなくても京終の市場に売っていますよ。」と教えてくれた。早速行ってみると、セロリーだけではなく、ラディシュやレタスなどのサラダ用野菜や、お刺身のツマにする芽紫蘇など、お料理を引き立てる付け合わせの専門店があって、値段も百貨店よりは、かなり安いのには驚いた。
 ところが、何度か買いに行ってお店の人とも顔馴染になった頃、店の方がセロリーを指さして「それはそうと、奥さんセロリーはどうして食べはりますの?」と聞かれた。「マヨネーズをつけたり、ドレッシングにあえて生のままいただきます。」と答えると、次に行った時「生のまま食べたら堅いし、薬のようなにおいがして不味かった。ようこんなもの食べはりますな。」と言われたので、びっくりした。五十年余り前は、これ程馴染の薄かったセロリーが、此の頃では、スーパーで手軽に買えるように、茎一本か二本づつパックされて並んでいるのに、今昔の感を禁じ得ない。
 昭和三十三年六月七日に、奈良自動車学校が開校した頃は、県下に本格的な自動車学校がなかったので、家から通学できない、十津川村や奥吉野の方から来られる生徒さんたちから「宿舎があったらな。」と希望が多かったので、早速宿舎を建てて、食事などのお世話をするおばさんに来て頂いたが、今の西大寺と違って、その頃は往復三十分位かかって駅前まで行かなければ、八百屋さんも魚屋さんも無かった。荷物を持って歩くのも大変なので「奈良から車で毎日来られるのだから、見計らいで結構ですから、野菜や魚を買って来てください。」とおばさんに頼まれて、よくこの町に行くようになった。
 町の人たちは明るく親切で、気軽に声をかけて下さるので、皆さんと心安くなった頃、県下に何校かの自動車学校も出来たので、宿舎は閉鎖して教習に専念することになった。そんな事情でしばらくこの町にも行かなくなったうちに、昭和五十二年五月、県中央卸売市場が大和郡山市筒井町に創設されて、京終地方東側町、同西側町にあった卸売市場の各店は新市場に移って行かれて、奈良町らしい、ひっそりとした情緒のある住宅地となった。
【綿町】
 この町は、綿や木綿を扱う大店(おおだな)が軒を連ねていたので、この名がついたという。江戸時代、大和平野の農家では綿の栽培が盛んで、河内木綿と並んで、大和木綿と名をなす程であった。従って、産地から奈良への入口であるこの辺りは、木綿を扱う商家が多かったのだろう。しかし、明治の開国により、広い大地で大量に生産される外国綿に淘汰されて、大和の農家では次第に綿を作らなくなり、木綿商も転業されたのか、あまり見かけなくなったが、町名にその名残をとどめている。
【木辻町】
 木辻町の町名のおこりは、慶長の頃、ここに辻堂があって、霊験あらたかな地蔵菩薩をお祀りしていた。その傍らに一本の大樹があったので、木辻と呼ぶようになったと伝えられる。
 木辻は中街道を境にして、東木辻と西木辻に分かれている。昔は、東木辻は日本でも指折りの遊廓のある歓楽街、西木辻は素朴な農村地帯だったそうだ。
◆東木辻町
 安土桃山時代になって、天下は統一され、戦乱は一応収まったが、浪人が町にあふれて、治安や風紀が乱れて、女の一人歩きは危険な状態であった。そこで豊臣秀吉は公娼制度を設けて、天正十三年(一五八五)各地にちらばっていた私娼を集めて、大阪に初めての遊廓の設置を許可した。
 京、大阪に近い奈良では、乱世に乗じて出世をしようと集まった人たちが、夢破れて浮浪人となって奈良に流れ込み、窃盗や強請が横行したり、女性を襲ったりするので困っていた。豊臣の世となって、やっと落ち着きかけた頃、秀吉が亡くなって、関ヶ原の戦いがおこり、関ヶ原浪人が奈良にも入り込んできて風紀の乱れは極に達する感を呈してきた。
 そこで秀吉に仕えていた虎蔵と竹藏という二人の奴が、秀吉の公娼集娼にならって、寛永六年(一六二九)許可を得て、公認の遊廓を木辻に創建して、それまで高畑、今辻子、紀寺などにあった遊女屋を、ここに移したと伝えられるから、遊女町の草分け的な存在だ。江戸に吉原の遊廓が出来る時も、木辻から経営者や太夫を送って指導にあたったというからたいしたものだ。
◆西木辻町
 東木辻町が傾城町として、多くの女性の悲哀を秘めながらも華やかに繁盛していたのに対し、西木辻町は、ひっそりとした農業地帯だったようだが、明治六年に鳴川町の徳融寺で開校した、現在の済美小学校の前身になる魁化舎が、明治十四年には中辻町にあった紀州屋敷跡に移って中辻小学校となり、その後、陰陽町に移って「済美尋常小学校」となり、大正五年四月に、現在地の西木辻町に移転してきてからは、人通りも多くなり、住宅や商店が建ち並ぶようになったようだ。
 さらに、昭和五十一年、循環道路が開通してからは、交通関係の工場やその他の産業工場も次々と進出し、春日中学校、スーパーマーケットや住宅団地も出来て目覚ましい発展を遂げている。
 一方「遊廓として繁栄を極めていた東木辻町は、昭和二十年の終戦以後、人権の尊重、自由平等、男女同権が盛んに叫ばれるようになって、特に女性の解放運動が盛り上がり、昭和三十三年、国会に於て公娼廃止が議決されたので、三百有余年間、傾城町として発展して来た、この木辻の町の置屋も、三月十五日を以て廃業となった。旅館、喫茶店、料亭に転じた店もあるが、大部分の家は普通の住居となり、特に木辻格子と呼ばれた特殊な構造を持った格子や、遊廓として一種変わった様式を備えた公娼部屋なども、ほとんど姿を消した。」と山田熊雄先生は、著書 「奈良町風土記」に記しておられる。
【城戸町】
 城戸町には、平城京の四条大路が通っており、外京への出入口にもなるので城門が設けられていたから、城戸と呼ばれていたと伝えられる。また、春日の神鹿が農村部へ出て行って農作物を食い荒らすのを防ぐため、棚を作って鹿が出て行かないようにしていた。この棚を城戸門といったのが、城戸という地名のおこりだとも言われている。春日大社の古文書に「明治十年頃には、神鹿の保護範囲は城戸の通りまで。」と記されいるそうだから、春日の神鹿が出ていくのを防ぐ棚が設けられていたというのも、もっともなことと、思われる。また「地形的にも、高畑辺りの台地が、城戸の辺りまでのび、この通りから一段と低くなっているので、城戸が設けられたことも一応うなずける。」と「奈良町風土記」にも記されている。
 城戸町は、南城戸町、東城戸町、西城戸町と三つに分かれている。
 この中街道は、大和盆地の中央部から、豊かな産物を運ぶ、重要な産業道路であっただけに、江戸時代から大正時代にかけて、城戸、椿井、光明院町から餅飯殿にかけて、奈良晒に関係のある晒蔵方、晒問屋方、晒仲買、両替屋、墨屋など、当時、奈良の重要産業の豪商たちが、軒を連ねていたという。
 その頃「東城戸通りは娘の一人歩きは禁物」と言われたそうだ。そこには娘たちの欲しがりそうなものが、いっぱい並べて売られていたのと、それらの店の番頭や丁稚たちが若い女の子をたちをからかうことから言われたものだという。のどかでおおらかな時代だったのだなあと思う。
【椿井町】
 奈良の旧市内には、椿井、樽井、閼伽井など、井のつく町名が多い。閼伽井は聖徳天皇が眼病にかかられた時、この井戸の水で洗眼されると快癒されたと伝えられ、樽井は、弘法大師が橋本町に井戸を掘られたが、水量が足らないので新たに井戸を掘り、足りない分をおぎなったので、足井(たるい・樽井)となったとも、南円堂の神水がこの井戸に垂下するので、垂井(たるい)と呼ばれるようになり、町名になったとも伝えられる。
 椿井も「奈良坊目拙解」に「椿井名水辻東町家裏にあり、井深一丈余、霊水四時渇れず。」とあるから、いずれも霊水だったのだろう。この椿井も、椿寺の閼伽井として弘法大師が掘られたという言伝えもあるようだ。
 昔から「大和豊作米食わず」という諺がある。最近はダムを造ったり、大和平野には沢山のため池が作られたりしていて、水不足もないようだが、昔は大和は水が少なくて、大和が充分水が足りて豊作な年は、他の土地では水害で米が採れないという意味だったようだ。だから、偉いお坊さんたちが指導して、井戸やため池を造ってくださると、欣喜雀躍して語り伝え、町名にまでなったのだろう。
 徳川家康は慶長七年(一六○二)町制の機関として、総年寄制(町奉行に付属して、御触の令達、町役人の監督に当たった町人)を設けた。その時、南都の総年寄六人を、この町に住まわせたと伝えられるから、その頃から格式の高い町だったのだろう。
◆古梅園
 この町に製墨業界きっての老舗「古梅園」がある。古梅園の始祖 松井道珍氏は、天正五年(一五七七)、大和の国 十市から奈良に移住して、製墨業を始められたそうだ。その頃は、日本に於ける製墨技術もあまり発達していなかったので「延喜図書寮造墨式」「李家製墨法」「空海二諦坊油煙墨法」などを読んで研究を重ね、良質の墨の製法を開発されたそうである。
 松井家の庭に見事な梅の木があって、来訪した文人墨客が、その古木をほめたたえられたので、三世の堂寿氏はこれを家号として、古梅園という商号と商品名とされた。
 代々墨の改良につとめ、研究を本にしたり研鑽を重ねられたが、なかでも六世の元泰氏(玄々齋)は、幕府の許可を得て長崎に行き、清国の墨家たちと交流して、両国の製墨法の技術交流を行なったり、清国の工人の彫った墨型を入手したり、また、古梅園で作った松煙と油煙を帰国する清人に託し、徴州の官工に唐の膠材を使って墨を製造してもらい、翌年来日する時、持って来て貰ったり、日本の墨の技術向上に涙ぐましい努力をされたようだ。
 こうして六世から七世の頃(一七三○〜一七八○年)の努力によって、清国からの製墨技術の導入、内外の文化人との交流、多くの墨譜や墨史の編纂、江戸、大阪、京への出店、新市場の開拓などによって、古梅園の名声は確固たるものになったようである。
 こうして確立された古梅園のブランドによって、家業は安泰な状況を続け、十一世の元淳氏の時、明治維新を迎えた。
 明治十八年に内閣制度ができて、宮内省が創設されと、古梅園は宮内省御用達に指定された。
 明治三十一年(一八九八)に奈良に市制がしかれると、元淳氏は名誉市長に選ばれた。十二世の貞太郎氏も名誉市長と貴族院議員を歴任しておられる。私の子供の頃も、名誉市長としての松井貞太郎氏の姿を新聞の写真でよく見たものだ。
 江戸時代は清国の墨の技術を学んでいたが、明治の終わり頃には墨の先進国になっていた。中国、朝鮮、欧米にまで輸出し、日英博覧会で高位入賞されたそうである。
 この(古梅園)の項に関しては、三島康雄先生の「奈良の老舗物語」を参考にさせて頂いたが、その中に「古梅園は明治十八年に宮内庁御用達に指定されたが、皇族が奈良県に行幸啓になると墨を買い上げられることが多かった…。」として、判明している何例かを挙げておられるが、その一つ、「昭和十二年(一九三七)六月二十六日に、皇太后陛下の奈良行幸の際、特にお名指しのあったのは、墨の古梅園と筆のあかしや商店で、紅花墨一○挺、同小一挺、金紅花墨一○挺を買い上げられた。」とあるのを見て、その時、皇太后陛下は、奈良女高師へも行啓されたので、付属小学校に在学していた私も、講堂に入れて頂いてお話を承ったり、運動場で生徒たちがリレーをするのを御覧になっているのを拝見したりしていたので、あの時、墨や筆をご注文になさっていたのだなと、微笑ましく、なつかしく皇太后陛下のお姿を想い浮かべた。
 歴代の松井家の方たちは古い伝統を大切にされると共に、常に新しい技術を取り入れて繁栄しておられる。その一つとして、昭和三十三年、奈良自動車学校を創立した時、第一期生として入学して、優秀な成績で、当時としては、まだ珍しかった自動車の運転免許書を取得されたのが、古梅園十四世の松井元祥氏ご夫妻だった。元祥氏は亡くなられたが、恒夫人はお元気に運転技術を駆使して、十五世を授けて家業に社会事業に貢献しておられる。
 奈良が誇る老舗の益々のご発展をお祈りする次第である。