第138回(2006年10月号掲載
中街道―1
中街道の玄関口 大安寺町
 上街道を西へ五百メートル程行った所に、中街道が上街道と平行して南北に通っていた。
 上街道は、帯解・櫟本・丹波市(天理)・柳本・三輪・桜井などの宿場町を結び、さらに京街道・大阪街道にも通じていたので、古くは平安時代から貴族の長谷詣の道となっていた。近世になってからも伊勢詣や大峯参詣、上方見物の道路として、大和盆地の産物を運ぶ役割と共に、多分に観光道路的な様相を呈していたのに対し、中街道は、大安寺町、神殿(こどの)、永井、北之庄を経て、古代は井戸堂から香久山の東を通って橘寺に通じていた道であったと言われる。この道は大和平野の中央を南北に通じる重要な産業道路であった。
 現在の中街道は、昭和十五年、紀元二千六百年記念事業として、橿原神宮の拡張と、奈良と橿原を結ぶ国道の拡張整備が行われたので、今はこの国道二十四号線が中街道の役割を果たしている。「この道路に沿って一万本の桜を植え、桜のトンネルにしようとした。」と、郷土史家の山田熊雄先生は奈良町風土記で述べておられる。
 しかし、この道路の拡張整備工事は、二千六百年記念事業推進のため、昭和十五年よりかなり早くから出来上がっていたのではないかと思われる。というのは、昭和の初め頃、奈良女高師(現在の奈良女子大)付属小学校では、毎年、寒に入ると、寒中稽古として歩行練習が行われていた。各自の体調にあわせて、若草山の「麓廻り」「一重廻り」「三重廻り」から、どのコースを選んでも良いのだが、「走らないで早歩きすること。両足が地面から離れるのは『走る』で、『歩く』は片足が必ず地に着いていること。」との注意を受けていた。そして立春の日には、その総仕上げとして、国道二十四号線(中街道)を南下し、上街道を通って奈良に戻って来た。その左折する地点によって、四里コース、六里コース、十二里コースが設定され、どのコースを選んでもよかった。
 私は小学校五年生の時(昭和十二年)も、その翌年も十二里コースを歩いた。十二里コースは学校を出て、国道二十四号線を真っ直ぐ南に歩いて八木で左折(橿原市)して、桜井から上街道を通って、奈良市の肘塚まで帰って来ると、迎えの先生たちが熱いぜんざいをふるまってくださる。「子どもの足で十二里も歩こうとすれば、お弁当も座って食べると、疲れが出て、食後歩けなくなる。」と、誰言うとなく言い伝えになっていて、皆、お弁当はお握りにして、歩きながら食べるのが歩行練習の慣習になっていた。それだけに、この熱いおぜんざいの美味しさと、ヤレヤレという達成感は、今も忘れられない。
 話が横道にそれてしまったが、その頃、すでに国道二十四号線は、今のような状態に出来上がっていた(その後、拡幅されたかも知れないが)から、二千六百年奉祝事業に向けて、かなり早くから準備されていたのだろう。桜の若木も両側に植えられていて、この桜が大きく枝を張って花を咲かせたら、奈良から橿原まで、見事な花のトンネルを通っていけるだろうなと、桜の成長を楽しみにしていた。
 ところが、昭和十六年十二月八日、真珠湾の攻撃から大東亜戦争が始まり、やがて第二次世界大戦に発展するにともない、食料不足から、食料の増産と供出を強いられた農家の人たちは「桜の木が枝を張って、田畑に影を落とすと生産量が落ちる。」と言って、枝を払ったり、場所によっては切り倒されたりして、桜並木もまばらになってしまった。終戦後、経済発展にともない、自動車が増えて、交通が渋滞してくると、残っていた桜も切られたり、道路を拡張したりで、桜のトンネルは、夢のまた夢になってしまった。桜のトンネルを夢見た頃は、物は不自由だったけれど、心は優雅な時代だったのだと思う。

【中街道の奈良への玄関口であった大安寺町】
◆大安寺の変遷
 大安寺町(大安寺村)の名前の元ともなった大安寺の歴史は古い。聖徳太子が平群の熊凝(くまごり)に精舎を創建されたのを、欽明天皇の御代に、十市郡の百済川のほとりに移し、百済大寺となった。天武天皇の御代(六七三)に高市郡に移って高市(たけら)大寺と呼ばれていたが、六七七年、大官大寺と改称された。さらに、平城遷都にともない、霊亀二年(七一六)平城京の左京六条四坊に移転し「天下太平 万民安楽」の大と安をとって、大安寺と命名された。
 天平十九年に大安寺の造営がほぼ完成した時は、南北五町 東西三町の広大な寺域を持つ大伽藍で、東西二基の七重の塔が聳えていたという。この寺の造営にあたった道慈師は、大宝二年(七○二)、遣唐使粟田真人に従って唐に渡り、長安の西明寺に留学した。帰国後、西明寺を模して造営されたというから、当時、最先端を行く国際寺だったのだろう。その頃、僧、沙弥あわせて八百八十七名いたと伝えられる。後の弘法大師、空海もこの寺で剃髪、得度して修業され、天長六年(八二九)には、この寺の別当もつとめられた。若き日の最澄も、この寺で修業され、唐より帰国して後、天台宗を弘められ、伝教大師となられた。
 真言宗と天台宗の始祖が若き修業されたこの寺では、年中行事として、伝教大師忌をつとめ、弘法大師を祀る大師堂があって、この土地の人たちは、この寺のことを「お大師さん」と呼んでいる。
 奈良時代、最後の天皇で、桓武天皇のお父様である光仁天皇が、不遇であった白壁王時代、皇位継承の争いに巻き込まれるのを避けて、しばしば大安寺を訪れては、境内の竹を伐って林間で酒を暖めて召し上がったそうだ。竹と酒が醸し出す薬効の為か、無病息災を保たれ、六十二才で運が開けて皇位に就かれたと伝えられる。光仁天皇は在位十一年で、数え年七十三才で亡くなっておられるが、当時としては、驚く程の長寿だったのだろう。
 大安寺では、光仁天皇の故事にならって、一月二十三日の光仁会と、六月二十三日の笹酒まつりには、青竹で清酒を暖めて飲めば癌にかからないとの伝承から、参詣者に笹酒がふるまわれるので、この頃は「ガン封じの寺」とも呼ばれている。
 栄光の寺、大安寺も、しばしばの災害にあい、その都度、修復をされたが、次第に寺運が衰え、室町時代、大地震によって堂塔が倒壊、応仁の乱以降は、一層さびれてしまった。私たちが学校へ行っている頃は「南都七大寺のうち、大安寺と元興寺は無くなってしまった。」と、習った位だった。
 しかし、堂は痛んだり焼けたりしても、仏像は人々の信仰のおかげで護られ、大安寺は河野清晃師の筆舌に尽し難い甚大なお働き、近隣の村々の方や信者さんたちのご努力で、今日のようによみがえった。「奈良町風土記」によると、清晃師のご活躍は勿論であるが、奥様のご協力も大きな力になったということだ。
 奥様はその片腕となって、ご住職を励ます一方、精進料理の創案や、ロウケツ染めの講習会を催して村人たちとの親交をはかる等、涙ぐましい努力をされたようだ。清晃師は平成十二年、九十六才で亡くなられたが、奥様は今も大奥様として衆人の敬愛を集めておられる。当代のご住職の奥様は音楽学校のご出身というのに、音楽よりもよりもご住職を助けて、地道な活動をしておられる。
 大安寺は河野家ご一家の並々ならぬお働きで、元興寺は辻村家の並々ならぬ活躍で、今日のように見事な復興を成し遂げたのは尊く有難いことである。

◆杉山古墳
 平安時代の広大な大安寺の敷地の東北の隅に、奈良時代より古い、古墳時代中期(五世紀後半)に築かれたと思われる立派な前方後円墳が取り込まれていた。誰を葬ったか墓かは分からないが、大安寺の境内の隅にあったところから「隅山」と呼ばれているうちに「杉山」になったのだろうと言われている。
 大安寺によく行くのだが、この古墳へは行ったことがなかったので、これを書くにあたって行ってみた。おそらく荒れているのだろうと思った予想に反して、鉄柵の門が設けられていて、門前には「史跡 大安寺境内 杉山古墳」と彫った石の碑が建っている。
 緑の小山のような古墳までは、門から広い参道のような道があるので、古墳の周りには環濠があるのだろうと思って近づくと、環濠を埋め立てたのだろう、運動場のような広場が古墳の前方に拡がっている。広場の片隅に小屋が建っていて、市の教育委員会の説明文が掲げられていた。
「平成五年(一九九三)発掘調査により、古墳の前方部の両斜面から瓦を焼いた六基の瓦窯跡が発見された。この窯跡から出土した瓦などから、奈良時代から平安時代にかけて、大安寺に使われた瓦を焼いた窯と考えられ、大安寺の瓦がこの杉山古墳を利用して造られたことがわかる。」旨記されている。発掘の折には埴輪が並んでいて、家形の埴輪も出土したそうである。
 古墳の青草の中にも踏み分け径のようなものがあるので、合掌して埋葬者に敬意を表してから登ってみた。環濠跡を埋め立てたような広場は、古墳の裏側には無く、古墳の近くまで家が建ち並んでいる。
 感慨にふけりながら古墳の青草の上を歩いていると、色鮮やかな秋の蝶がどこからともなく飛んできて、まつわるように私のまわりを翔びまわった。なんだか、ここに葬られている貴人のお使いのような気がした。
 古墳はこの外にも、もと大安寺村であった柏木団地の西側にも、六世紀頃といわれる竪穴式古墳もあるそうで、この地には奈良時代以前の昔から人々が住み、かなりの豪族もいたことが偲ばれる。

◆大安寺村から大安寺町へ
 大安寺町は、大阪府から奈良に通じる大阪街道、奈良県南部から通じる中街道の奈良の入口に当たるので、長い旅路を歩いて来た人たちは、ここで名物の大安寺餅など食べて一休みして奈良に入ったそうだ。明治の中頃までは、ここに人力車の帳場もあり、宿場町的な賑わいも見せていたということだが、明治二十五年に国鉄関西線が、大阪、奈良間に開通して、大阪方面からの人たちは、この列車を利用するようになって、大安寺村は純農村に戻ったようだ。
 明治二十二年、町村制度の実施で、従来興福寺領であった大安寺村・八条村・杏(からもも)村・柏木村の四つの村が合併して大安寺村になった。昭和二十六年に奈良市と合併して、大字名であった大安寺・八条、杏・柏木は、そのまま町名となった。(例えば、奈良県添上郡大安寺村大字柏木と言っていたのが、奈良市柏木町となった訳だ。)
 昭和十五年に国道二十四号線が拡張整備されていたと言っても、戦争中はたいした変化は見せなかったが、終戦後は、沿道に自動車や交通関係の会社や工場が建ち並び、様相が一変した。
 私が子どもだった昭和の初期は、大人が数人集まると「法蓮良うなりましたなあ。次々綺麗な家が建って。」と法蓮町の発展が話題にのぼっていた。法蓮町は、やはり明治二十二年の市町村制実施の時、法蓮村・法華寺村・半田開村が合併して佐保村となり、大正十二年に佐保村は奈良市に合併された。大正十三年には、奈良県立奈良中学校が設立され、以来、法蓮町は奈良における文教の中心となり、文化住宅が建ち並ぶ、高級住宅地となった。私が学校へ通っていた頃は、奈良女高師の先生たちや友人宅はほとんど法蓮町にあったものだ。
 終戦後しばらくは、大安寺の発展と共に地価の高騰が話題にのぼった。奈良における地価の値上がりの草分けのような感じだった。
 奈良市がこの方面を工場地帯として都市計画を建てていたので、工場化に拍車がかかり、工場や会社が建ち並ぶにつれて住宅も必要になり、かつては灌漑用池であった長池も埋め立てられて住宅地にとなり、大型スーパーマーケットや高層住宅が建ち並ぶ近代都市へと変貌していった。
 しかし、昔からの家並みが並ぶ町の中心部分は、古い情緒を残すしっとりとした趣のある良い町で、もと大安寺の伽藍の一つである護摩堂のあった辺りは、護摩堂町と地名に残っていたり、心安らぐ町である。
 大安寺町と東九条町、八条町の氏神、大安寺八幡社が東九条町にある。大安寺の鎮守神として大同年間(八○六〜八○九)に豊前国(現在の大分県)の宇佐から勧請した神社なので、東九条町にあるが、大安寺八幡社と呼ばれている。この神社の秋祭は、三町合同の郷社時代の様式を伝えた華やかなものだという。
 宇佐から八幡様を勧請する時、宇佐からお供をして来られたのが仲氏で、その子孫が、現在の中野家・武野家・市川家だ。神様の一行を出迎えたのが坂井氏で、その子孫が酒井家、大西家なので、今も大安寺町には、大西さん、酒井さん、中野さん、武野さん、市川さんという苗字のお家が多い。