第137回(2006年09月号掲載
平城外京六坊通り―16
植桜楓之碑と川路奉行の生涯
 奈良に住む人達が「奈良奉行」と聞くと、すぐ川路聖謨奉行を思い浮かべるのは、興福寺・東大寺をはじめ、佐保山、高円山のほとりまで、桜や楓を植えて、風致の美化をはかって下さったからだろう。

【植桜楓之碑】(しょくおうふうのひ)
 興福寺の五十二段を上がると、左側に古めかしい立派な石の碑がたっている。
 奈良と桜の縁(えにし)は古く、平安時代の中頃、興福寺の僧が一条天皇の中宮彰子に八重桜を献じた時、中宮に仕える伊勢大輔(いせのたいふ)が、先輩の紫式部から取り入れ役を命じられ、有名な
 いにしえの 奈良の都の八重桜
  今日九重に にほいぬるかな
 という名歌を詠んで受け取ったと伝えられるから、古く奈良時代から桜にゆかりが深かったのだろう。
 明暦(一六五五〜一六五八)の頃には、伏見の令、水野候の宿願によって、春日山内、興福寺のあたりに桜を千本植え、奈良の千本桜と呼んで、花の盛りには遠近の人達が群れ集って花見をしたそうだ。
 寛政(一七八九〜一八○一)の頃にも興福寺の内外に多くの桜を植えて、その中の道を「花の中道」と名付けて、春日大明神の影向道となったという。それも年を経て枯れてしまったので、心ある人達が寄り集まって寄付をつのり、高貴の御方、南都両門主様、興福寺、東大寺、興福院はじめ、遠所あまたの人達が喜捨に応じた。興福寺、東大寺の境内、佐保山、高円山のほとりまで、千本の桜を植えて、千本桜の名を継ぎ、さらに楓をまじえて、手向山の神詠をあおぎ、奈良の弥栄を祈ったと伝えられる。
 このように、嘉永年間に奉行が発願者となって、興福寺、東大寺、春日大社から高円、佐保川のあたりまで、桜や楓が植えられ、皆が喜びあった。当時奈良奉行で、名奉行との誉れ高く、人々から慕われていた川路奉行の徳を後世に伝えたいとの願いから、奉行に「植樹の碑を建てたいから、碑文を書いて下さい。」と願い出て、その碑文を刻んで建てたのが「植桜楓之碑」である。この碑文は漢文でかかれているので、難しい上、古びて読みにくいので、奈良公園史に書かれた訳文を引用させていただく。
 寧楽の都となるや 古来より火災少なし。是を以て千年の久しきを閲(け)みして、巌然としてなお存するもの、枚挙に遑あらず。大和の国は天孫始闢の地なり。故に神ありて、或は之を佑護するか。且つ土沃え、民饒かに、風俗淳古にして、つねに良辰美景に至れば、則ち都人たるをさげて、興福・東大の二大刹に遊び、筵を敷き、席を設けて、嬉しみ遊び、娯しみを歓び、まことに撃壌の余風、太平の楽事なり。是の時に当り、遠遊探勝のする者も亦、千里よりして至る。故に二刹、嘉木奇花多し。而して宝暦中、桜の千株を植うる者あるも、侵就枯槁して、今則ち僅かに存するのみ。今季、都人相議し、旧観に復さんと欲し、すなわち桜楓数千株を、二刹の中に植う。以て高円・佐保の境に及ぶ。一乗・大乗の両門跡これを嘉し、賜うに桜楓数株を以てす。
 是に於て靡然として風を仰ぎて、之を倣らう者相継ぎ、遂に蔚然として林を成す矣。花時玉雪の艶、霜後酣紅の美、みな以て、遊人を娯しませて心目をよろこばすに足る。衆人喜び甚しく、まさに碑を建て、其の事を勒せんとして、記を余に請う。余謬って寵命を受け、此の地に尹(奈良奉行)として既に五季なり矣。幸いにして僚属の恪勤、風俗の醇厚に由りて、職事暇多し。優遊臥して、累歳を治むるに獄滞無し、囹圄時に空しくして、国中の竊盗もまた滅ずることを半ばに過ぐ。是に由り官賞して属吏に賜う。而して都人もまた以て其の楽しみを楽しむを得。況んや今此の挙あるや、唯に都人の楽しみを得るのみならずして、四方の来遊者もまた相ともに其の楽しみを享(う)く。此れ余の欣懌してやむあたわざるところなり。然れども歳月の久しき、桜や楓の枯槁の憂い無きあたわず。後人の若し能く之を補わば、即ち今日遊観の楽しき、以て百世を閲みして替えざるべし。此れ又、余の後人に望む所なり。故に辞さずして之を記し、以てこの碑に勒す。一乗法王為に其の額に題す。余の文の◆剪陋(せんろう)は観るに足らず。然れども法王の親翰、則ち桜楓をして光華を増さしむるに足らん矣。
 嘉永三年 歳次 庚戌 三月
寧樂尹 従五位下 左衛門尉 源朝臣 聖謨撰並書
 訳文といえども難しい。これを漢文で書くなんて、現代人にとっては驚嘆に価する学力だ。それには彼の生い立ちが寄与している。

【川路奉行の生い立ちと生涯】
 聖謨は、享和元年(一八○一)四月二十五日、豊後(大分県)日田の代官所の下級吏員 内藤吉兵衛の長男として、代官所構内の小屋のような家で産まれた。幼名を弥吉といった。父の吉兵衛は、もっと働きがいのある仕事を求めて、弥吉が八才の時、一家は江戸へ出て、下谷の長屋に住むことになった。その翌年、次男松吉が産まれた。(この松吉が後年の信濃守・井上清直であるから、生まれつきの身分によって職階が、おのずから決まっていたような封建社会に、兄弟揃って破格の出世をしたのは、頭脳明晰はもちろんであろうが、随分努力して勉学に励まれ、地道な努力をされたのだろう。)
 江戸へ出ても格別の伝手も蓄えもなく、一家はその日の生活にも困る状態であったが、父吉兵衛は百方奔走し、懸命の努力を重ねて、やっと徒士(かち)の職に就くことが出来た。徒士とは騎乗が許されない、もっぱら歩行の下級侍ではあるが、将軍の家臣であり、人物次第では、登用の途も開けていた。後の、弥吉・松吉の出世も、父がこの職に就いたならこそのことであろう。
 吉兵衛一家は下谷の長屋を引き払って、牛込の徒組屋敷(かちぐみやしき)に転居した。しかし吉兵衛はもう自分のこれ以上の出世はあきらめていた。その代わり、利発で胆力もあり、温厚で親の言いつけをよく守る二人の息子の将来に期待をかけて、力の許す限り、弥吉と松吉の教育に精魂をこめた。
 その頃、四谷に川路三左衛門という幕臣がいた。小普請組の非役で、役が無いので暇にまかせて囲碁や魚釣りを楽しんでいた。たまたま吉兵衛と知り合いになって、親しく付合うようになって、二人の子供達のことも知ることになった。そんなある日、川路は吉兵衛に「自分はもう年だが、悲しいことに子供がいない。出来ることなら弥吉を養子にして家を継がせたい。家禄は少ないが、衣食するには足りる。君にはあと二人も男の子がいるではないか。」と申し出た。
 吉兵衛は、最初その話を断ったが、あまり川路がしばしば懇望するので、それが弥吉の身のためではないかと考えるようになった。なにしろ川路家は自家より格も高い。自分の跡継ぎは松吉もいることだしと考えて、弥吉にも話した上で承諾した。こうして、川路家と弥吉との養子縁組みは、文化九年(一八一二)弥吉が数え十二歳の時、幕府の許可を得て成立した。この実父の判断が、弥吉の将来の躍進の基になった。
 文化十年、弥吉は元服式をして、名を聖謨とあらためた。同年三月、養父三左衛門は家督を聖謨に譲って隠居したので、聖謨は養父に代わって小普請組入りをした。
 聖謨は、十七歳の時、幕府勘定所の筆算吟味(ひっさんぎんみ 吏員登用のために行う、筆跡並びに珠算の試験)を受けて合格した。翌、文政元年(一八一八)には、支配勘定出役に採用された。支配勘定とは、勘定奉行管下の初級職で、出役というのは、小普請組ながら、当分、財務職に出仕するという意味である。聖謨はこうして徳川官僚としての第一歩を踏み出した。
 文政四年、彼は支配勘定の本役を命じられ、勘定所留役助に抜擢されたので、出役の名も、小普請組の身分も消えた。(勘定所とは、江戸幕府最高の裁判所であり、留役とは元来の書留役で書記職の名称だが、だんだん奉行が留役に予審のような仕事をさせるようになったので、いつしか留役も裁判官と認められるようになった。助とは文字通り留役の補助役である。)
 こうした息子のとんとん拍子の出世を心から喜んでいた実父の内藤吉兵衛は、その翌年、聖謨が二十二歳の時、熱病にかかって死んだ。これより先、内藤家二男の松吉は、兄に続いて、持組与力の井上新右衛門の養子となり、養父が病死したので、家督を継いでいたので、内藤家を相続したのは三男の重吉であった。
 聖謨は、その後も役人の段階を一つづつ着実に上がっていくうちに、天保六年(一八三五)仙石事件が起こった。但馬国(兵庫県)出石藩で起こったお家騒動である。
 出石五万八千石の藩主政美の死後、嗣子が無いのに乗じて、家老仙石左京が主家横領を企てて、反対派を弾圧し、騒動になったという事件である。(広辞苑による)。この事件を裁いたのは脇阪寺社奉行であるが、川路聖謨が予審を担当した。
 なにしろ大名家の事件であるし、内容もしごく入り組んでいたが、彼はまさに快刀乱麻を断つ勢いでこれを解決し、左京は逆臣として処刑され、藩の知行を半知とした。この事件は左京の陰謀によるお家騒動として、芝居や漫談などで物語化して演じられた。(一説によると、出石藩の財政窮乏は十九世紀に入って深刻化し、その立直しをめぐって、財政改革をとなえる左京派と守旧派との主導権争いであったとも言われている。)
 なにわともあれ、聖謨は仙石事件解決の功によって、幕府から「一件吟味取扱、骨折候に付、拝領物仰せつけられる。」として、白縮緬五疋を家斉将軍の特旨によって与えられている。同時に上司である脇阪寺社奉行も、将軍の印籠を授けられて、大いに面目をほどこしたと言う。
 この頃から聖謨の交友範囲が益々拡がっていった。水戸藩士で儒者として有名な藤田東湖。伊東韮山の代官で優れた砲術家であった江川英龍、著名な画家であり儒学にも蘭学にも長じた渡辺崋山。蝦夷(北海道)や樺太を探検し、海峡(後の間宮海峡)を横断して満州に入り、黒龍江下流を探検したという間宮林造。老中で、小田原城主でもあった大久保忠直(ただざね)等々、枚挙にいとまがない。こうした交友による豊かな知識が、後に対ロシア全権大使としてプチャーチンと交渉に当たったりする時の基礎知識となったのだろう。
 聖謨は天保十一年(一八四○)佐渡奉行に栄進し、将軍及び前将軍に謁見を許されて、旨を受ける誉与に浴した。佐渡奉行の任期は一年なので、翌、天保十二年に江戸に帰った聖謨は、小普請奉行に任じられ、その年の十二月には、幕府の執奏により、従五位下を叙し、左衛門尉に任じられた。
 天保十二年というのは「天保改革」の大号令が発せられた年で、奢侈品の禁制から始まった改革は、次第に日常生活にまでひろがり、金銀具の所有や売買、賭場、富くじ、女髪結、娘義太夫、歌舞伎、能、寄席にまで及び、歌舞伎では江戸三座の移転、市川団十郎の追放、尾上菊五郎の処罰等がおこって、市民は怒り、市場は沈滞していった。
 そんな世相の中で、聖謨は天保十四年十月、普請奉行を命じられ、一応、順調に出世街道を歩んでいたようだ。天保改革の嵐もおさまり、阿部正弘が老中首座に就任した翌年の弘化三年(一八四六)、聖謨は奈良奉行に転出を命じられた。奈良奉行は普請奉行より席次が下がるので、左遷のように見えるが、聖謨は天保改革を推進した水野大老に信任されて要職に就いていたのを、水野失脚後、それが仇になって聖謨に厳しい追及が及ぶのを避けるための阿部老中の配慮だったのだろうといわれている。
 格が下がると言うものの、聖謨にとって、奈良奉行職にあった五年間は、前に記したとおり、心温まる楽しいものであったと思われる。嘉永四年五月、奈良奉行を離任した後、大阪町奉行を拝命したが、在任十ヶ月足らずで江戸に呼び返されて、公事方勘定奉行を拝命した。此の頃、外国艦船の日本への来航が頻発して、世情も騒然となってきたので、沿海防御の方法を研究する委員も兼ねることになった。鎖国によって太平の夢をむさぼっていた日本にとって、外国からの通商交渉や開港の要請は大事件であり、視野の広い聖謨のような人物は、なにかにつけて重要だったのだろう。
 嘉永六年七月、「日露の善隣友好が望ましいこと。(通商も含むのだろう)ついては、この際両国の境界を確定したい。」との協定のため、ロシア皇帝の使節として、プチャーチンが艦隊を組んで長崎にやってきた。人選の結果、聖謨が選ばれ、老中相当の資格を授けられ、首席全権として長崎に向かった。長崎では何度も会談が行われたが、話は平行線のまま終り、プチャーチン一行は一旦引き上げた。
 安政元年(一八五四)プチャーチンの艦隊、下田港に入港。十二月二十一日、下田の長乗寺で、日露和親条約が締結、調印された。前回折合わなかった北方領土については「今より後、日本国と魯西亜(ロシア)との境、エトロフ島とウルップ島の間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北の方クリル(千島)諸島は魯西亜に属す。カラフト島に至りては日本国と魯西亜国との間に於て界を分たず、是までの仕来り通たるべし。」と定め、又、「日本政府、魯西亜船の為に、箱根、下田、長崎の三港を開く。」と定められた。
 聖謨は、「せめて北緯五十度以南の領有まで持って行きたいのはやまやまだったが、当時の日本には一隻の軍艦もなく、一隊の銃兵もなし。たとえ忠勇の我国人にせよ、只に刀槍、又は火縄の古銃をもて、如何んぞ、ピョートル大帝以来、兵を練り、艦を造り、北欧に雄飛する露国と干戈(かんか)に決することを得へけんや。」と日記に記されている。若し無理を通せば、ロシアに攻め込まれていたかも知れないのに、この場合、聖謨の自国を省みる理性が危機を救ったのだろう。安政の大獄で退隠し、文久年間に外国奉行を勤めたが、間もなく辞職、中風で半身不随になった。
 明治元年三月十四日、江戸城が官軍に引き渡されたと聞いた聖謨は、しきりに涙を流していたが、翌十五日、古式にのっとって腹を切った上に、拳銃で喉を射ぬいて自殺した。時に六十八歳。落日の徳川幕府に殉じた彼らしい最後であった。日本に於けるピストル自殺の第一号だったという。(参考資料 江上照彦著 「川路聖謨」)
 鍵田忠三郎氏が市長の時、植桜楓之碑の近くの般若の芝で、川路聖謨奉行の百回忌法要が執り行われた。法要に参加された高林寺の前住職稲葉珠慶さんによると、川路奉行のご子孫が、横浜から五〜六人来ておられたそうだ。奈良の恩人でもある川路奉行の百回忌を忘れずつとめられた忠三郎市長も立派だった、と思う。