第136回(2006年08月号掲載
平城外京六坊通り―15
川路聖謨奈良奉行 その3
 奉行が見た奈良の人の生活
 交通や情報網が密になり、外国のニュースでも瞬時にして伝えられる現代でも、転勤などで急に移住すると、生活習慣や食物などの違いに、多少まどわれることもあるだろう。まして、移動は徒歩か、せいぜい馬や船。しかも大名や、幕府直轄地では奉行や代官が、それぞれ一国をとりしきっていて、情報交流の少なかった江戸時代、奈良奉行となった川路聖護にとって、奈良は不思議な国であったようだ。

【奈良の火事】
 川路奉行が奈良に赴任して二ヶ月目の弘化三年五月九日の午後、京終町で出火との注進があると、同心が太鼓の間の櫓に登って太鼓を打つ。与力からお役所詰の人達まで、皆、火事羽織を着て、北のはてより南のはてまで二十町もの距離を駆けつけた。小さな家が半分ほど焼けただけで、江戸だったらこんな騒ぎにならないボヤ程度の火事だったのに、長い間太鼓を打ち続けて、たいそうなことであったと記されている。これほど火の用心に心がけたからこそ、奈良の多くの文化財が焼けずに、今日迄保たれたのだなと思う。

【当時の奈良の食物】
 江戸よりも、酒や豆腐は美味しいと褒めた奉行だが、魚が古くあまり良いのが手に入らないのには、少々うんざりしたようだ。まして夏になると種類が少なかったらしく、七月の日記では「たまたま生にてくるものは、たこばかり。其餘はふなの土くさきばかり也。江戸にて毎日魚類を食べていた訳でもないのだから、奈良に来ては、なお更のことではあるが、無いと思うと余計魚のことを好ましく思う也」として
 寺の多き 奈良のさととて
  なまぐさの
   たまたまあるは たこの入道
 と、狂歌のようなものを付け加えておられる。
 奉行は、お盆の施餓鬼として、役所で働いている人達や、牢に入れられている人達にまで、素麺をたっぷりふるまっておられる。七月十六日の日記に、「良き素麺を買い、菜、椎茸を入れたるにゅうめんを作り、かつお節を多く入れて、汁をば大釜に煮て、牢内にはこびたり」とあり、囚人一人に椀三杯以上づつ山盛りになるほど配って、まだ少々余ったそうだ。当時、素麺はなかなかのご馳走だったようだから、役人さん方も、囚人も、奉行の情を喜んだことだろう。
 八月三日(旧暦だから、現在だったら九月の初旬になるのだろう。)の日記に、「きのう、初松魚(はつがつお)也とて飛ぶが如くにして持来たり。江戸にて四月に、ほととぎすの初音とともにめづるが如きてい也。至って小也。みれば松魚にあらず。めじかというものゝ、一尺ばかりにて、よしやめじか(宗太鰹)にもせよ、ひなより出し女が、木枯らしに逢いしごとく、頬のあたり、すももいろになりて、その臭気堪えがたかる也。さすが、すきの某も、その臭気におそれて手を出しかねたり。絶倒。」と記されている。
 「女房を質においてでも初がつお」と言われる位、初がつおを待ちかまえて賞味する江戸で暮らしていた川路奉行。奈良へ来て、鰹がなかなか手に入らないとこぼしていた奉行を喜ばせたいと、一刻でも早く届くように、息せききって全速力で走って届けに来たのだろう。
 しかし、現在我々が考えると、鰹という魚は、春から夏にかけて、南の方から、沖縄、九州、四国、本州の南岸沿いを黒潮に乗って移動する。従って、初鰹と言えば、九州では二月頃、三月には四国、南紀の辺りを四月頃通過して、五〜六月頃には伊東や房総沖に達する。江戸では「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」とうたわれる位、初鰹は珍重されるが、関西ではもう少し早く、桜鯛の時期なので、季節の味として桜鯛の方を好んだから、あまり、初鰹を称賛しなかったのだろう。
 鰹は、その後三陸沖まで移動してから、秋にかけて南下しはじめる。だから関西方面では、脂ののった秋の鰹を「戻り鰹」と呼んで賞味するのだが、旧暦八月といえば今の九月だから、初鰹というより戻り鰹のシーズンだ。めじかと呼ばれた宗太鰹は、「血鰹と同じような回遊魚ではあるが、鰹が鰹節や生節になるのに較べて合肉が多く刺身には不向きで、削り節の材料になる」と辞書にある位だから、初鰹を期待していた奉行にとつては、期待外れもよいとこだったと思われる。
 しかも、そのめじか(宗太鰹)は、まるで田舎から出て来たばかりの女が木枯らしに遭ったように頬のあたりがすもも色になっていて(腐りかけている様子)、その臭気は堪え難い位で、さすが鰹好きの奉行も手が出なかったという。他の日記にも、奈良ではウジさえわいていなければ、鮮魚として食に供すとして、魚には不満なようだったが、酒は安くてうまいとほめておられる。
 また、八月二十二日の日記には「今日、二百三十二文の松茸を見しに、大ざるに山盛なり。よって惣菜にする。江戸のいもの取扱也。是ばかり江戸より下直なるべし。さつま芋の代わりに、ほうらく蒸にいたし、午後の茶にそえなどする。松茸は茸の最上なれども、多くてなるればかくの如し」と書かれている。奈良では、江戸では信じられない位、松茸が安く手に入る。江戸でさつま芋を買うのと同じ位の値段なので、松茸を焙煎蒸にして食べたという、松茸が少なくなった今日の奈良では考えられないことである。
 嘉永二年九月一日の寧府記事(日記)にも、「此ほど松茸出て至ってよし。とりたての小成ものを切らずに土びんに入れて蒸すと、露多くいずる也。それへ酒、醤油をさして、また、一蒸しして取り出して、青柚をかけて食ぶる也。よき松茸は純白にて味絶妙也。」と記されている。川路奉行一家は、江戸恋しく思いながらも、次第に奈良の良さも認めるようになってゆかれたようだ。
 松茸だけではなく、奉行の奥様のおさとさんも、奈良の大根が、さつまいものように、一寸煮過ぎると煮くずれする位よく煮えるので、大根が好きだった江戸のお母様に思いを馳せて、次のようにおっしゃていたそうだ。
「江戸にて母上の大根を好ませ給えば、柔らかにとおもいて煮れども煮れども柔ならず。はてはいかに、いかにとこころみにさしたる箸のあとのみ星のごとくになりて困りしが、かくも故なく煮ゆる大根を、わが家の前栽につくりて母上に奉りたらばいかならむ。」(江戸の大根はいくら煮てもなかなか柔らかくならないので、「もう煮えたかしら」と何度も箸をつきさすので、箸のあとが星空のようになって困ったけれど、奈良の大根はなんてよく煮えるのでしょう。この大根の種を持ち帰って、江戸の家の庭でつくって母上に召し上がって頂いたら、きっとお喜びになることでしょう。)
 奈良は海から遠いので、古い魚か川魚しか手に入らないけれど、野菜や松茸はお気に召したようだ。

【奈良の人の習慣】
 「奈良にては、四月八日より、八朔(八月一日)までは、市中のもの上下一同におしなべて、ひる寝をするなり。全たく、夜と同じ。盗賊の店のものとらぬも不思議也。」
 奈良に来て驚いたのは、一年のうち初夏から初秋までの四ヶ月、一年の約三分の一の間、町中の人が昼寝をして、まるで夜中のように寝静まってしまうことだ。昼過ぎに買い物に行っても店の人皆が寝ていて、無理に叩き起こしても、商品を買って貰っているのに、ふくれっ面をする始末で、江戸から来た人達にとっては、不思議であると同時に、不愉快だったようだ。
 奉行があまりにも意欲的で元気なのに感心した奈良の人が、家来に「お奉行様はどのくらい昼寝されるのですか?」と尋ねたところ「いいえ、お奉行様は体調が悪い時以外は、昼寝はなさいませんよ」と答えると、奈良の人は信じられない様子で、何度も聞き返した後、「昼寝をなさらないとは。お奉行様が秀れておられるのは申すまでもないが、なかでも昼寝をしないということは、私共には及びもつかないことです。」と言って感嘆したと言うことだ。
 昼寝の習慣は、私が子供だった昭和の初め頃までは残っていた。しかし、店番がいなくなる程、皆が一斉に昼寝をする訳ではなく、大人達は交替に昼寝をしていた。しかし、丁稚さんとかぼんさんと呼ばれる十五才前後の見習店員達は、けむたい番頭さん達が昼寝をしている間「鬼のいぬ間の洗濯」とばかり、キャッチボールをしたり、スモウをとったりして、遊び興じていた。お昼寝タイムの後は、井戸で冷した西瓜が皆にふるまわれたものだった。
 朝早くから掃除をしたり、配達をしたり、夕食の後は、年長者の指導で、算盤や習字の稽古をするぼんさん達にとって、お昼寝タイムは得難いリラックスタイムだったのだろう。
【奉行所が町民達に開放される日】
 奉行所内には、お稲荷様が祀られてあって、その祭の日には、庶民が自由に出入りして稲荷祭を楽しむことが出来た。
 弘化二年十一月二十一日の寧府記事に「今日はいなり祭に付、朝より子供市中より参り、太鼓をたたき、組屋敷内に、あめ菓子の商人数人出る。所々よりいなり参詣の者あり。いなりへ奉納のはやし狂言は、馬場の中ほどへ幕をはり、楽屋其他出来て……(中略)……集まりたる子供に蜜柑を投与する也。価、二分にて八籠あり。赤飯に魚のいりたる煮しめを加えたるを五百包、是又参詣の子供につかわす也。奉納のはやし等いたす者には、酒五升に肴二重遣わす…。」
 と、その賑わいぶりが記されている。娯楽の少ない時代、庶民はこの催しを待ちかねる程、楽しみにしていたことだろう。

【古雅な趣味を楽しむ古都の人達】
 二十一日の日記の続きに、次の様な文がある。「奈良の土地の者は、八百屋、豆腐屋までも謡、つづみという訳故に、男女老小の別なく、皆さる楽を面白く思い居る也。風俗というものは不思議なもの也。」
 関東の庶民には、能は恐いものと思われていたらしい。それというのは、「能は畜生の皮を打ち叩きて(鼓のこと)、鬼神や幽霊のまねをするもので、見ている者は足は折れるようで、あくびの涙が玉が散るように落ちる。」と、あまり好きではなかったようだ。
 もちろん、江戸は将軍様のお膝元の大都会だから、知識人も沢山おられるし、大名旗本や上級武士、富豪の間では必須の教養であり、愛好されていただろうが、全くの庶民が仕事の合間に謡の稽古をするような古都の風習は珍しかったようだ。
 ところが奈良では、私の子供の頃でも、家へ先生に来て頂いて、父や祖父、番頭が謡を習っていた。当時お祝いの席などで「お芽出たい小謡でも。」とすすめられた場合、主人の代理で出席した番頭が「私は不調法で謡は知りません。」と言うのは、主人の恥だと思っていたし、番頭も、ゆくゆくのれん分けをして貰って店を持った時、謡の一つも知らなくては、という気があったのだろう。子供達も仕舞を習っていて、祖父の還暦の祝いの場で、姉は羽衣、私は熊野(ゆや)を舞ったのを覚えている。謡を一節うたって盃を次にまわし、次の人も続きを一節やって、次にまわすといった宴会もあったらしいから、謡は必須の教養だったようだ。
 奈良は金春流のお家元がおられるので金春流が多い。姉が子供の時、(私が生れる前だから大正の中頃)室で近所の子供と遊んでいると「金春様がみえておられるから静かになさい。」と言われたので、姉はそっと座敷を覗きに行ったそうだ。そして祖母に「金春様って普通の人間のようだね。」と言ったそうだ。いぶかしく思った祖母が問い正すと、こんぱるをこんぴらと聞いて、金毘羅大明神だと思ったというのが、我が家の語り草になっていた。
 お茶も、お茶室での難しい作法までは知らなくても、友達と気軽にお茶を点てあったり、自服で楽しんだりしていたようだ。川路奉行も「門番が茶の湯をするなど、つけあがりしこと也。十人よりては、四、五人は歌をよむ也。」と記しておられる。
門番でも点茶をたしなむと感心するというより、生意気だと感じておられたようだ。
 昔、「奈良の商家では、謡・茶の湯・活花は男のたしなみで、多少にかかわらず誰でも習ったものだ。」と祖母から聞いて、女のたしなみではなくて、男のたしなみだったのかとびっくりしたことがある。しかし、太平洋戦争で男の人達は戦場にかり出され、生活物資も不足するようになってから、男のたしなみが、女性の趣味になってしまった。
 更に奉行は、上方では俄雨にあうと、傘をさし、下駄を履いて駕籠をかつぐ駕籠かきがいると聞いて驚いておられる。なにしろ関東で駕籠かきといえば、冬でも裸同然、雪をあざむく褌(ふんどし)一枚で客を運ぶ吉原駕籠の勇み肌を思い浮かべ「風俗のことなること、かくの如し」と、述べておられる。
 悠長な上方の駕籠屋の話を聞いて、なにかにつけていなせな江戸の風物を懐かしんでおられたのだろう。

【財産があっても謙虚な地主さん】
 嘉永二年三月十三日、奉行所出入りの「下掃除」(下肥くみと言われている、田畑の肥料にするため、汲み取り式のトイレの糞尿を汲みに来てくれるお百姓さん)が、「山に植えた桃が花盛りですから是非おいで下さい。お茶くらいしか出せませんが。」と言うので、奉行の次男の市三郎さんが家来の純平と二人で行くことになった。お茶くらいしか出せないという言葉を真に受けて、鮨を少々持参した二人は、その山に着いて驚いた。
 その山に行ってみると、毛氈を敷いた立派な休憩所が建てられていて、立派な弁当もちゃんと用意されていた。しかもその器が凄い。七つ組の金蒔絵で、菓子盆まで金がちりばめられていた。しかも、この山は別荘を建てるために買い求め、桃を植えたと言うことだ。唯々驚愕して帰った市三郎さんが奉行に報告すると、「それ程の財力がありながら、本人のみならず、息子達も糞桶かつぎで汲み取りに来るとは。」とこの地の農民が勤勉で無駄の無い経営をしているのに感心し、合理的な先進性を認識し、評価したのであった。