第135回(2006年07月号掲載
平城外京六坊通り―14
奈良奉行の成立と川路聖護
その2
 江戸時代末期の奈良奉行川路聖謨が江戸に残した実母に、近況報告代りに送った日記(寧府紀事)は、お母様によって大切に保管されて、当時の奈良の様子を今日に伝えている。東京大学出版会発行、日本史籍業書「川路聖謨文書」の巻二から巻五までが寧府紀事である。A五判で一冊が約五百ページであるから、これだけでも二千ページ位ある。これは嘉永二年末までで、川路奉行は弘化三年(一八四六)三月から、嘉永四年(一八五一)五月まで、五年余り奈良奉行をつとめられたのだが、何故かこの業書の「川路聖謨文書」の奈良に於ける記述は巻五までで、巻六は嘉永四年五月からの「浪花日記」から始まっている。この本になっていない約一年半の間も、お母様への日記は書き続けられていた筈だから、これも併せれば、三千ページ位にはなるであろう大作だ。
 私も「マイ奈良の昔話」を十一年余り書いているが、この原稿も原稿用紙に書くと、カサがたかくなって保存に困るので、大学ノートに書いているのが九冊目になった。ボールペンで、ぎっしり6ページ〜7ページ書いた原稿が、同じA五判の「マイ奈良」で挿絵入りで4ページになる。
 ボールペンでさえこうだから、昔、毛筆で書かれていたら、字も大きく行間もノートよりは広くなると思うから、A五判三千ページ位といえば、手紙だけでも膨大な量であっただろう。それを母の無聊(ぶりょう)を慰めるために毎日丹念に書いて送り続けた奉行も偉ければ、それを大切に保存しておられた母の愛も素晴らしいものだ。奉行は手紙に、奈良漬や素麺、奈良扇子等四季折々の物を添えられたり、お母様からは江戸情趣あふれる品が届いたのではなかろうかと、東海道を母子愛の荷物をかついで走り抜けた飛脚の姿が目に浮かぶような気がする。と言うのは、主人が自動車の運転免許を取得して間もない昭和二十年代の後半から三十年代にかけては、遠乗りしたいという主人の思いと、旧東海道にあこがれていた私の願いが一致して、よく箱根や社用を兼ねて東京までドライブした。
 勿論高速道路など無い時代で、国道一号線を走るのだが、出来るだけ旧東海道に入って貰って、丸子の宿(まりこのしゅく)のとろろ汁を食べたり、箱根の奉公所跡で江戸時代の情緒をしのんだりしていたので、その頃見た景色と飛脚の走る姿が頭の内で重なりあう思いだ。(こうしたドライブの楽しさ、仕事がスムーズに運ぶ利便性、当時の一号線で見聞した悲惨な事故等を防ぐには、どうした心がけが必要なのだろうかと、より安全で快適なカーライフを多くの方達に楽しんでいただく事を願って一念発起して開校したのが、現在の奈良自動車学校なので、旧東海道のたたずまいは私にとっても大切な思い出だ。)

【川路奉行の見た奈良北部】
 弘化三年(一八四六)三月十九日、任地の奈良に到着した川路奉行は、春日大社や東大寺、興福寺、大乗院等の門跡寺院にご挨拶にうかがったり、されていたが、四月二十一日、いよいよ、奈良の北方巡見に出られたようだ。
「はじめに興力の宅に参る。興力七人之内、五人は御役宅前、二人は多門屋舗として多門山御林麓に住居、ここに同心も居る也。」とある。丁重に迎えられた興力屋敷の玄関には、馬具や、弓、鉄砲等が飾られている。原文のまま一部を書くと、「興力之宅に火之用心歟台所に壹間四方程の御影石の井筒へ鮨桶のこときかさりあるもみえき餘は押してしるべし。」とある。(字が現在使われていないものがあったり、句読点も濁点もなく、わかりづらいので、以後解釈違いもあるかも知れないが、省略して書かせて頂く。)「餘は押して知るべし」と言うのは、その豊かで行届いた暮しぶりを言っておられるのであろう。
 私と、小学校も女学校も一緒だった玉井照子さんという友人があった。目のパッチリした美人で、お母様もいつも和服をきっちり召した上品な方だった。多聞町の立派な武家屋敷風の邸宅で趣味豊かに優雅に暮しておられた。この間、県立図書情報館で奈良奉行所のことを聞いていたら、「奈良奉行所に関する玉井家の資料は、うちでお預かりしているのですよ。」とおっしゃっていたから、よほど重要なお仕事をしておられたのだろう。
 奉行はそれから、「明教館」という講学所に立寄った後、多門城跡へ行っておられる。「これは松永弾正が城跡にて、井戸等今なを存せり。只松風のみ聞ゆる也」と誌し、註に老興力の言葉として、「松永弾正城石がきつくるに、奈良町中の石塔を取上げてつくりたり。其頃までは、奈良のものの墓所に必地藏観音等彫刻して墓しるしとせしかば、夫をば捨てて、其墓石を用ひしまゝ石佛は今も多く捨ててあり。知らぬものは千体佛などといふなれ共まことは前のこと也。弾性の城破却の石垣は御役所の所々の礎牢屋敷の礎になりたり。よって両所ともに佛めきたる石多き也。」とある。(これでも多少句読点や濁点をつけたのだが、原文は全くそれが無い上、文字も昔の文字や当て字と思われるものがあって読みづらい。)
 ここを下りて眉間寺に参る。「本堂の舞台からは、奈良の町並奉行所・笠置・金剛・三笠山等よく見え、この寺、眺望山の古名ありというも、さもあるべし。」と感嘆している。「宝物も良いものが沢山あって聖武帝東大寺落成の時のかけ物や、聖武帝より賜ひし七条の袈裟、光明皇后より賜りしといふ藕糸(ぐうし)の袈裟あり。」とある。
 藕糸とは蓮の糸のことで、中将姫が尼と女人に化身して出現された観世音菩薩と阿弥陀如来のご指導によって織り上げられたと伝えられる蓮糸曼陀羅も絹糸だろうと言われ、「藕糸」は、広辞林にも「蓮の茎又は根茎にある繊維で蓮の糸」とあるが、あんな細い弱々しい糸で布が織れる筈がないから細い上質の絹糸だろうと言われていた。
 ところが、中将姫のお弟子さんであった藤原魚名の娘が、姫の没後、姫と父君の藤原豊成卿の菩提を護るため創建された高林寺の稲葉珠慶尼のもとへ、「京都の法衣店から藕糸織の袈裟のパンフレットが届いた。」と早速見せに来てくださった。ミャンマーの奥地にあるインレー湖畔の村では昔から藕糸の織物が作られているので、それで作成した袈裟のご案内だった。
 それに先だって季刊銀花の一九九三年冬号に掲載された「蓮糸まんだら」という記事を見た珠慶尼が、実際に蓮の茎からご自分で糸をとって、その糸で刺繍をしておられる名古屋の須藤美和子さんという方がいらっしゃることを知り、驚喜して連絡をとり、蓮の糸がとりもつ縁で須藤さんも高林寺の法会には度々参詣され、中将姫の御宝前に、須藤さんが全糸で刺繍され、蓮糸刺繍の花びらを二十一枚散らせたお軸を奉納された。それから十三年間もたった今では、蓮糸ばかりで刺した般若心経の大作も完成させられ、私達ともすっかり親しくなって、来る七月一日には奈良町の「徳融寺」で開かれる「大人の寺小屋」で実際に蓮の茎から糸を採る実演をして藕糸のお話をして下さると言うので楽しみにしている。
 こうしたことから、珠慶尼も私も、「昔から藕糸織りと伝えられるものは、必ずしも細い上質の絹糸で織り上げられたものばかりとは言い切れないのではないか。例えば五十〜六十年前、私達が子供の頃蓮根を食べると、蓮の細い糸が唇にひっかかったりしたものだったけれど、この頃の蓮根は改良されているのか歯切れがよく、繊維が歯にひっかかりしないようになった。半世紀位でもこれだけ変わるのだから、千年以上も前だったら、もっと蓮の糸もしっかりしていたかも知れない。だから藕糸織というのは、全部が蓮の糸でないまでも、泥に生れて泥にそまらず清らかな花を咲かす蓮のように、五濁の世にも正しい信仰をもって、清らかに光り輝く人生をおくれ、との願いをこめて、蓮の糸も使われているのではないかと思います。」と聞かれたら答えている。いずれにしても藕糸織というのは貴重なものである。
 奉行の目を驚かすような宝物をいろいろ保管し、眺望が素晴らしかったという眉間寺も今は無く、眺望山と呼ばれた寺跡も、聖武天皇陵の真上にあるので、今は登れない。川路奉行は、このあと聖武天皇陵に詣でて後、般若寺町の布晒場へ行っておられる。ここには大きな釜が五つあって、その大釜の一つに布を九十反ずつ入れ、藁灰でとったあく汁を入れて煮たのち、裏を流れている佐保川で晒す。布を大きな臼に入れて柄の槌で打ち、川水で洗って干している。(今では見られなくなった光景だ。)
 それから般若寺にお参りされている。昔は七堂伽藍があったというが、今は荒れ果てて、聖武天皇御建立のものは石の十三重塔ばかりなり。宝物としては、慶長(一五九六〜一六一五)の末頃この十三重塔から発見されたという佛舎利、管公御自筆の縁起、大塔官が隠れて難をのがれたという大般若経筒、神功皇后三韓征伐の折の弓矢等があった。
 空海寺に参って、それより三倉え参る。ここは見置計也。(とあるのは外から見ただけという意味だろうか。)「是は天下に聞へたる正倉院勅封倉也。戸前三ツある故に三ツくらという也」と但書がある。そして、「此倉知足院の門前芝間にあり、番人もあらず年をふるうちに盗人にも逢わず、蘭奢待を始めとして聖武帝御愛玩のものことごとく存せしに實に不思議也。」異朝(外国)
の天子の陵をあばきて宝物を奪ひ、死たる皇女の枯屍を犯すなど引競ては、實に神国也」と感嘆している。
 奈良の北方の見どころを詳細に報告したあと、少しくだけた感じでお母さんに語りかけている。奈良は郭公のいたって少なき所にて、夏中一度聞くこともおぼつかないので、好事家は三里ほど山よりへ聞きに行きます。
ふるさとは
 はやなくらめと ほととぎす
  奈良にはまだき おとづれもせず
わたつみの 魚より奈良には
 めづらしき
  山ほとときす いつか聞らむ
 これにてはまじめ過て、母上の御笑にもならじと、
江戸よりは 酒も豆腐もよけれども
 三里行かねば なきほととぎす
 と締めくくっている。「奈良は海から遠いせいか、魚は古くて高価だ」と不満げだった奉行も、酒と豆腐はお気に召したようだ。

【奈良南方の巡見】
 翌四月二十二日、奉行は、奈良南方の視察に出ておられる。
 橋本町という所にある奈良晒の丈、巾等をあらためる惣年寄の会所へ行く。
 ここにて、廣狭長短の改印をおす也。(ほたあや其外珍しきさらし よほど《沢山という意味だろうか》あり。江戸にてはみぬ也)
とあるから、奈良晒はよほど優れたものがいろいろ有ったのだろう。
 此の近邊奈良町中にてよき所なるべし。道具や菓子や肴や旅籠屋等によきみせ多くみゆる也。
 そこより中院町の極楽院へ参る。この寺市中にあれども聖(元文では正になっている)徳太子の頃建立ありしままにて、智光法師、禮光法師の禅室昔のままに存し居る也(中略)掌中曼茶羅、五重塔、其外佛像等、小野篁、空海等の作というもの多くあり、記すにいとまあらず。それより、元興寺に参る。(則法興寺とあるから、なかなかくわしい。)ここの塔、其外共千二百年余りのもの也。塔修復にて九輪あろしあり。さび色、青磁の如くにて、千年余風雨に逢いたれば、銅も所々蝕して剥げ、刀ならばシンかね等というが如きもの見ゆる塔は、雨落十一間四面という也。高き石段の上にあり、石段を省き、二十四丈ありという。眞木長さ四十間、廻り一丈六尺あり、神代の木也という。漸に三重まて昇りみたり、奈良の市中眼下にみゆる。総檜つくり也。これ、(元興寺は)南都七大寺の一なれども、今はみな破壊して、塔と八雷神面等少々残せしのみなり。
 元興寺の五重塔について、寧府記事を、くわしく転記したのは、この塔については、「興福寺の現存している五重の塔よりも丈が高かった。」と聞いているだけで詳細はわからず、そのくせ、私の家は、安政元年から元興寺町の現在地で店を開いているのだが、「元興寺の塔が焼けた時は、火の粉が雨のように降って恐ろしかった。」と初代が言っていたと祖母から聞いたことがあったので、どんな塔だったのだろうと興味を持っていたからだ。奉行が弘化三年(一八四四)に三階まで登って奈良町を見晴らした塔は、それから僅か十三年後の安政六年(一八後九)に焼け落ちている。そう思うと、はるか昔、映画か芝居の世界にでもおられたような感じだったお奉行様も、ひどく身近に感じてくる。
 もう一つ興味深いのは、極楽院も古刹だということがわかっており、元興寺も、もと法興寺ということがわかっているのに、極楽院がもと元興寺の一坊だったということがわからなかった、ということだ。
 それから百年位たった、私共が学校へ言っている時も、元興寺は安政六年、塔の焼失と共になくなってしまったと習っていたのだから。それが、昭和二十年前後になって、極楽院という荒寺は元興寺の僧坊だったのではないかと言われだし、めんみつな調査の結果、それに間違いないことが判明し、建物は見事に修復された。膨大な資料も発見され、元興寺として世界遺産に登録され、古都奈良の文化財となっているのは誠に結構なことだと思う。
 玄e僧正の首塚といわれる頭塚へ行き、十輪院町の十輪院へも参っておられる。本尊の石龕仏中引導石のこともくわしく誌されている。
 木辻町は、二階建などみえ、かなりの遊女町なり。椿井町の松井菊五郎宅にて製墨所をみる。古梅園の本宅也。
 ここでは、油煙や松煙をとる塗こめの室の様子や、制作の過程が詳しく誌されている。なかでも「…清国に申遺して、彼国にて彫刻せし墨の形あり。墨造る姿は落雁をつくるのに似ている。その職人の姿は、とりたての熊のようで、光るのは目ばかりなり。」まっ黒になって黙々と働いておられたのだろう。霊元法王の仰せで作られたという大墨や、楠公の甲冑を模した墨緋おどし等、珍しい墨のコレクションを見せて頂かれたようだ。さすが老舗だなと思う。
 漢国神社へ参って、東照宮(徳川家康)様ご奉納の御具足を拝観、念仏寺と開化天皇の御陵に参拝する。
 それから「牢屋敷へ言って、拷問所を見る。近頃まで用いられたという水責の道具は、草そうしに書かれたもののようだ。昔、人を釜茹にしたという大釜は、年経て底はくちてなくなっている。いかなる残忍なことか、松永弾正の頃の餘臭であろう。」と誌されている。
 橋本町、中院町、十輪院町、等々、現在使われている町名と同じなのは、さすが由緒ある奈良の町名だと思う。それにしても、自動車も無い時代に、一日でよくこれ程廻れたものだと感心する程、順序良く巡見しておられる。かなり省略して要点だけ書いて、これ程の文字数があるのに、よくこの位くわしく正確にお母様に書き送られたものだと感嘆するばかりだ。メモでもとっておられたのだろうか。どちらにしても後世に名の残る方だけあって偉い人だったのだなと思う。