第134回(2006年06月号掲載
平城外京六坊通り―13
奈良奉行所の成立と川路聖謨
その1
 奈良女高師の付属小学校に在学中は、本校の講堂へ行くにも、女学校まで行くにしても、校舎の間を抜けたり運動場を斜めに通ったりして行くので、それほど遠いとは思っていなかった。
 しかし小学校の正門から外側の道を通って、本校の前を通過し、女学校の正門まで行くのはかなり遠い。まして、女学校の横を流れていた佐保川べりを通ってグルッと学校の外側を一周すると、くたびれてしまう程の道のりがある。こんな広い土地が、明治時代に学校の出来るまでは、田や畠だったのだろうか、それとも荒地だったのだろうかと、子供心に疑問を抱いていた。
 それが、奈良奉行所の跡地だったということを知ったのは、かなり大きくなってからのことであった。広大なはずだ、この敷地は、江戸時代大和一円を統治した奈良奉行所の跡だということだ。

【中世末から近世初期にかけての大和】
 戦国時代から安土桃山時代にかけて京・大阪に近い大和も、多聞城にあった松永久秀と三好三人衆との戦で、永禄十年(一五六七)には東大寺の大仏殿まで焼け落ちている。(翌年、正親町天皇から大仏殿再建の論旨が下されているが、実際に大仏殿再建の落慶法要が行われたのは、百年以上たった宝永六年(一七○九)のことであった。その間、奈良の人達は心のよりどころを失ったようなおもいであっただろう。)
 織田信長が天下を統一して安土桃山時代に入ってからも、大和では大和守護職となった筒井順慶が、信貴山城にあった松永久秀を攻めて陥落させ、久秀は自害している。織田信長が明智光秀の謀反で本能寺で自刃して再び天下が乱れるかに思われたが、豊臣秀吉によって天下が統一され、天正十三年(一五八五)秀吉の弟、豊臣秀長が郡山城主となって、種々対策を練り城下町の繁栄をはかった。
 しかし奈良では、動乱があればそれに乗じて立身出世をしたいと願う浪人達が横行していて、治安が悪かったようだ。慶長三年(一五九八)に秀吉が死ぬと、二年目の慶長五年に、「天下分け目」といわれる関ヶ原の戦がおき、勝利した徳川家康は「天下人」となり、同八年には江戸幕府を開いている。
 関ヶ原の戦の後の論功行賞によって、大和の領主構成に大きな変化が生じた。この混乱を治めるため、大久保長安配下の奉行衆が奈良の支配にあたった。

【奈良奉行所の設立】
 長安の逝去により、慶長十八年(一六一三)、大和の土豪で興福寺の被官でもあった中坊秀政が起用された。この時以来、「南都(奈良)奉行」の職名がおこり、奈良は徳川幕府の直轄地となり奈良奉行所が設置された。中坊秀政は当初は自宅を奉行屋敷としていたので現在も「坊屋敷」と呼ばれている町名が発生したが、暫くして現在の奈良女子大学のある所に奉行所を設置した。その敷地は東西・南北とも、ほぼ九十三間あり、坪数約八千六百九十五坪もあった。当時、江戸南北奉行所、大阪、堺等の奉行所が、三千坪〜五千坪であったというから、群を抜いた大きさだったようだ。秀政は就任後、春日神社若宮のおん祭りには、将軍の名代として、「松の下」に陣どって祭りを主催する等、手腕を発揮したという。秀政は幕府領の代官を兼任しながら、奈良町の支配に当ったが、興福寺の衆徒の出身であるが故に、興福寺との関係に於て、やり難い点もあったようである。
 秀政の跡を継いだ中坊時祐の願出によって慶安三年(一六五○)、与力六騎、同心三十人が配置されて奉行所の機能を整えていった。寛文四年(一六六四)中坊氏に代って、旗本の土屋利次が奈良奉行に着任するに当り、奈良代官が新設され、奉行所の機構が整備されて奈良奉行所は、大和一国の行政・裁判を取り扱う、地方行政機関として確立していった。
 奈良奉行所は、設立から約半世紀を経て、奈良町の支配と共に、興福寺、春日大社・東大寺・多武峯・吉野郡を除く、大和一国の寺社支配・大和の治安維持や所領間争議の裁決をするようになったという。当時大和には、大名や武士の領地、寺社領、金春家領や楽人領など、様々な領地が入りくんで存在していたので、奉行所に持ちこまれる争議も多く、奉行所周辺の半田町や魚屋町には、公事宿(くじやど/訴証したり裁判のために泊まる宿屋)が多い時は十六軒も出来たそうだ。

【名奉行川路聖謨(かわじとしあきら)】
 江戸時代の初期に奈良奉行所が設置され、明治維新によって廃止されるまで、約二百六十年程の間には多くの名奉行がおられたのであろうが、今でも奈良の人達が奈良奉行というと先ず頭に浮かぶのは、幕末の頃奉行をつとめられた、川路聖謨であろう。
 川路奉行は、弘化三年(一八四六)三月から、嘉永四年(一八五一)五月まで、五年余りの赴任期間であったが、誠意を尽くして施政に当られたので人々に敬愛されておられたのと、植樹に力を入れ興福寺の五十二段を上がったところに、「植桜楓碑」が建っているからであろう。奈良の人達が川路奉行を忘れない理由の一つに、彼が在任中書き残した「寧府日記」が、奈良の当時の様子をしのばせてくれるよすがとなっているからでもあろう。
 川路聖謨は、江戸を離れたがらない実母だけを江戸に残し、妻子と養父母の四人を連れて奈良へ赴任することになった。人一倍孝心の篤い彼は、実母を慰めるために、仕事のこと、家族の様子、奈良の日常市井のこと等を、日記のように書き、手紙代わりに江戸へ送られて、「寧府日記」として保存されていたものが残っている。今となっては当時の奈良の様子を知る貴重な資料になっている。
 聖謨の一行は、三月四日、弓矢・鉄砲・長刀・二本棒等を備えた列を調えて品川から出発し、威風堂々と東海道を西へ向かって進んでいった。聖謨は駕籠の中に小机を置いて読書したり歌を詠んだり、ときには運動のために駕籠から降りて歩いたりしたそうだ。

 十八日に京都に入って京都町奉行を訪問し、共に所司代へ挨拶に訪れ、伏見奉行にも会った後、木津奈良坂を経て奈良へ入ったのは、十九日だったというから、江戸から奈良まで十五日間もかかっている。当時の泉川(木津川)には橋がなく渡舟で渡ったそうだ。
 その日の町の人々の出迎えの様子を「まるで南爪をつみたる如く頭を並べ、女共衣類を着替えて出迎えている。」と誌している。そして、奈良奉行所は古いけれど立派な建物で、五・六万石位の大名の屋敷のようであると、満足したようだ。
 それもその筈、この建物は慶長(一五九六〜一六一五)以前に建てられ、昔、徳川家康が奈良へ来た時に泊まったという由緒を持ち、その後奈良で度々おこった大火にも焼けず、大地震にも壊れず、二百五十年程の風雪に耐えてきた立派な建物だったのだ。だから家は古いが、どっしりしていて、建物は広大であった。表と裏にわかれていて、表は奉行所の庁舎、裏が住宅になっていた。奈良奉行所は、大御所 家康公が泊まられたことがあるというので格式の高い奉行所であったと聞いたことがある。

【聖謨の奈良での私生活】
 喜多野徳俊氏の「奈良閑話」に「奈良へ来た当初、鹿が珍しいので屋敷の庭へ入れると、前栽のものの葉を、みな喰われてしまった。『犬ならワンとでもなくのに、馬鹿の片割れは興ざめ』と腹を立てている。そして新しく前栽を買うと、一本二十八文と言う。家来の妻に頼めば十本で七十二文である。実に嫌いな思いであったと書添えている」と誌されている。
 青山先生のお話によると、江戸時代は身分によって奉行値段、家来の値段、庶民の値段があったということだから、この話も、もっともとうなずける。今では考えられないことだけれど、当時は身分の高いゆとりのある方からは沢山頂こうという考え方だったのだろうか。それとも奉行が気を悪くしているところをみると、大和だけの習慣だったのだろうか。奉行所の役宅の西側には立派な築山や泉水、小川のある庭園があった。築山に登ると、東には若草山、御蓋山、西には生駒の山々が眺められ、吉城川から入ってくる水は、泉水を常に清らかにして鯉を飼う楽しみもあった。江戸に残してきた実母のことを偲んで、『われとともに、来まさぬ母をおもいやりて、ながめやらるる庭の面かな』と詠んでいる。この庭は四季それぞれに、奈良の景観が楽しめ、養父が酒を酌めば、子は池水に遊ぶと言った、家族の良い憩の場所であったと誌されているから、遠国奉行としての奈良での生活は心安らぐものだったのだろう。

【貧民の救済と因習打破】
 聖謨は就任以来、未決囚の渋滞を解消するよう、鋭意さばきを促進していった。そのうちに、奈良では再犯者の数が異常に多いことに気がついた。原因を調べると、刑に服して放免されても、食べるすべがなく、飢えに迫られて罪を犯す場合が多かった。当時、江戸では不十分ながらも貧民救済の手段が設けられていたが、奈良にはそんな制度が全く無かったのである。
「奈良に天災ありても、江戸の町会所のごとき御救はならず人足寄場(江戸時代免因を集めて労務者として使った制度)というもなれば、入牢者百人の内、四・五十人は再犯なりし。異常なり。出牢して一文もなければ、餓死するより仕方なし。餓死を甘んじて、節を動かさぬは賢人君子のことなり。無頼の無宿を無銭にて追払うことゆえ、又も盗みをせよかしと狩り立てるがごとくで、「嘆息の至なり」と憂いている。
 これによって聖謨は貧民救済の施設を発案して、自らも百両の基金を寄付し、土地の金持達からも募金を募って、その利子を困窮者にわけ与えることにした。しかし、これを表沙汰にするのは、「私恩を売るようで不本意」として、あくまで匿名にしたというのが、いかにも謙遜で、彼らしいと、江上照彦氏は著書に誌されている。奈良では鹿は神鹿として大切にされているが、角が伸びてくると気性が荒くなって人にも被害を与えるようになってくる。そこで寛文十一年(一六七一)、時の奈良奉行が、幕府の許可を得て角切りをはじめた。
 聖謨が奉行をしている時代の角切りの際、町の若者達が暴れ廻る大鹿を取り押さえようとして、あやまって鹿を殺してしまった。この頃でも、神鹿を殺した者は、引き廻しの上獄門という旧法が生きていたようだが、聖謨は「角切りは、もともと不自然な行為である。これを認める以上、あやまって殺しても、厳罰を科すのは不当である。」として無罪の判決を下し、因習を打破した。

【奈良の旧蹟とお奉行さん】
 川路奉行は歴史や古美術にも造詣が深かったようで、日記にもいろいろ書き残しておられる。奈良へ赴任されると、早速、春日大社・東大寺・興福寺等にお参りして宝物等を拝観されたようだ。「若し、かかる物をよく視るとなれば、実に一年を費すとも足らさるべし」と感嘆しておられる。奈良奉行のしきたりに従って、嘉永元年(一八四六)桜の花の咲き初める三月十三日、吉野方面巡視の旅に出た。一行百人余りというから、たいそうな行列だったのだろう。五日間の旅の内、最初の日一番感銘を受けたのが長谷寺だったようだ。「ここには観音が安置されている。堂塔多く建てつらねて、まさに絶景と称すべき眺めだ。余が見しうち、第一の景勝地の寺なり。」とあり、珍しい宝物の多いことにも感激している。
 三月十四日、早朝に初瀬を発って多武峰に行き、大庄屋の家で小休止する。前もってあまり負担をかけないよう連絡してあったのに、御馳走攻めに閉口する。「これも先例といえばいなむによしなし。」多武峰から吉野川を渡り、十町ほど行くと、吉野にかかって、俗に一目千本というところに至る。程よい所に毛せんを敷いて眺めると、「花のために魂魄を奪われて、一言のことなし。この辺りは八町七曲り、左右みな花にて、只々驚くの外なきなり」と誌されている。その夜は宝城寺という後醍醐天皇ゆかりの寺に泊る。
 三月十五日 吉水院に至ったが、ここは後醍醐帝のかつての行在所。種々の恩遺品を拝して落涙する。その御陵も拝し、楠正成の毛墳(けづか/髪を埋めた所)を弔う。
 三月十六日 壺阪山の南、法華寺から聖徳太子建立の橘寺へまわり、神武・懿徳(いとく)両帝の御陵を拝して、その荒廃を嘆く。夕ぐれ雨のなかを今井町に到着して一泊。
 三月十七日 奈良へ帰った。五日間にわたる感慨深い歴史散策であった。百人に余る移動だからかなりの強行軍だったのだろう。聖謨は、この他にも垂仁天皇や、大和のもろもろの天皇の御陵に参拝して、その荒廃を嘆いて、
行かよふ 小みちもあらで夏草を
  はらひもあへず 袖ぬらすかな
と詠んでいる。当時としては珍しい尊皇のお奉行さんだったのだろう。又吉野で感激した千本桜が、後日、桜や楓を植えて植桜楓の碑を建てるに至ったのであろうか。