第133回(2006年05月号掲載
平城外京六坊通り―12
奈良女高師と附属女学校の
戦中と戦後
 奈良女子大の正門の前を通り過ぎてさらに北に進むと、付属高等女学校第一部の校門があった。わたしがこの附属女学校へ進学する前年の昭和十二年までは、ここは本科と呼ばれて五年制、付属小学校に隣接して四年制の実科高等女学校があった。それが、規則改正によって、本科が第一部、実科が第二部となった翌年の昭和十三年、改名したばかりの第一部へ入学した。

【校長先生と主事先生】
 私が幼稚園の時、校長先生は槙山栄次先生、小学校の時は稲葉彦六先生だったが、女学校へ入ったとき、日田権一先生に代わられた。偶然、幼稚園を卒業した年、小学校を卒業した年に、校長先生が辞任されて新しい先生をお迎えしたことになる。
 当時の校長先生は、今は記念館になっている本校の講堂に全校生徒が集る式日には、全ピカのモールで飾られた大礼服の胸に沢山の勲章をつけて前方のドアから姿を現されると、本校の学生から幼稚園児まで、シーンと静まりかえったものだった。こうした次第で、附属各校の生徒達が校長先生に直接お目にかかれるのは祝祭日か貴賓が来訪された時など、特別な時だけなので、多くても年に十回位のものだった。それで各学校には、主事先生がおられて、それぞれの学校を取りしきっておられた。(小学校と高等女学校二部は同じ主事先生が、兼任しておられた。)
 私が在校した頃の高等女学校一部の主事先生は真田幸憲先生だった。長身白晢の風貌と、イギリスへ留学しておられたという経歴から、一見外人っぽい感じがする英国風紳士だったが、実は信州上田城主で関ヶ原の戦や大阪冬の陣・夏の陣に豊臣方について徳川軍を悩ませた、真田幸村の直系のご子孫だということだ。平素は黒い服(黒ばかりではなかったかも知れないが、グレーや茶色系の服を着ておられた記憶は無い。)を着ておられたが、お風邪を召された時などは、黒紋付の羽織袴姿で学校へ来ておられた。黒羽二重の羽織の背には、真田家伝来の家紋、「真田の六文銭」が白く染め抜かれていた。
 洋服の時は、モダンで外人っぽく見えた主事先生が、羽織袴の時は、思慮深い古武士の風格がただよって、さすが真田家の後裔と思わせる貫禄があった。ご先祖が決死の覚悟で信義を貫かれたように、先生も必死に教育の理念を貫く決心をしておられたのであろう。
【私が在学していた頃の世相】
 しかし時代は、主事先生はじめ諸先生方が理想とされたであろう教育理念とは少しズレた方向に進んで行った。昭和十二年七月七日、私が小学校六年生の時、日華事変(日支事変と呼んでいた。)が勃発した。国民総動員運動が発足して、防火訓練が始まったり、純綿や純毛の製品が不足しはじめて、スフと呼ばれる人工繊維との混紡が出回ったりしたが、まだそれ程生活物資が不足する程でもなく、国民は南京占領などの戦勝ニュースに歓声をあげていた。その頃迄は、小学校も女学校も特に制服はなく自由な服装で登校してたが、私達が女学校に入学する時は、「登校はセーラー服が好ましいので、新しく作るのだったから、セーラー服を。」といった指示はあったが、白線を何本入れるようにとかいった細かい指示はなかった。昭和十三年四月、入学式には希望と喜びに頬を輝かせた生徒達が、セーラー服にネクタイ(白いサテンの三角布のようなもの)を蝶結びにして、もちろん靴(大体、通常は革靴、上履はズック靴)をはいて参列した。ところが、物資は日に日に欠亡して、次の年の入学生からは、ネクタイ無し、革は兵隊さんの靴に必要だからと言うので、通学は下駄、上履は草履になった。今から思うと随分変な格好だったと思うが、その時は「欲しがりません、勝つまでは」のスローガンが徹底していた。
 それに、その頃は、昭和十五年(西暦一九四○)には皇紀(神武天皇御即位の年を元日として)二六○○年に当たるというので、その奉祝事業に備えて準備が進み出していたので、その年になったら、何か良いことがおこりそうな明るい希望をもっていた。
 九月には、本校も附属高女も全員、橿原神宮神苑建設奉仕作業に参加した。ブルトーザー等無い時代なので、指示される通り、モッコに土を入れて運ぶのだが、遠くから作業をしている人達を見ると、まるで蟻の行列が物を運んでいるようで、自分が何のために、どこへ(将来何になる所へ)土を運んでいるのかも分からない状況だった。その後も何の為に今これをしているのかよくわからないまま蟻の一員のような奉仕に参加したが、今になって橿原神宮へお参りして荘厳な社殿や緑滴る神苑を見ると、この内のどこかに私達が運んだささやかな土もお役に立っているのだなと、良い時に産れあわせたことに感謝している。十月には全校あげて大がかりな防空演習も行われた。この年からは非常時だからと、冬もストーブを入れないことになった。
 二年生になったばかりの昭和十四年四月十五日には梨本宮妃殿下が来校された。五月一日の開校記念日には開校三十周年記念式典。十月一日には、紀元二千六百年記念として楠の木を橿原神宮へ献木するのに、奈良から牛車に積んだ大木と共に全校生徒が徒歩で参列した。
 十一月には、賀陽宮恒憲王と、北白川宮永久王が来校されている。賀陽宮様は九月にも来校されているのは、二六○○年記念にこちらへ来られたのでお立寄りになったんだろうか、又は英仏対独の宣戦布告が九月にあってなんとなくキナ臭くなったからだろうか。十二月一日の興亜奉公日には元明天皇陵などの参道修理や清掃奉仕に行っている。昭和十五年六月十九日には橿原神宮に秩父宮殿下を迎え紀元二六○○年奉祝銃後奉公祈誓大会が開かれ十一月十日には二六○○年の奉祝式が挙行された。
 この頃からは勤労奉仕も増えて、刺草になやまされながら春日大社の境内の草ひきをしたり、「爪の間に緑青が入ると毒だから気をつけなさいよ。」と、注意を受けながら釣灯籠を磨いたりしたものだ。又、奈良の連隊や陸軍病院へ、蚊帳や白衣の修理に行ったこともある。農繁期には農家へ田植えや稲刈りのお手伝いに行ったが馴れない人間が田畑に入ると却って足手まといだっただろうと思うのだが、村の人達は親切に芋を蒸したりして労をねぎらってくださった。
 昭和十六年には、東伏宮妃五月三十一日は李王と同妃が御来臨になった。外相の松岡洋石氏も来校して、日ソ中立条約の成立を得意げに話して下さったので、もうこれ以上戦争は拡大しないのかとホッとしていたら、十二月八日太平洋戦争が勃発し、翌九日宣戦布告がなされたので、訓辞を受けた後全員で春日大社に参拝した。
 昭和十七年になると、衣料が増々不足してくるが、新入生の制服用として布の配給があったのだろうか、裁縫の教材として新入生の制服を五年生が縫うことになった。制服も、セーラー服でなく、白いブラウスと紺のスカートに代わっていた。学校が代えたのではなく、多分材料がそれしか無かったのだろう。器用な人は上手に縫い上げておられたが、不器用な私が縫った衿の凹凸したようなのに当たった人は気の毒だったと今でも思っている。この頃になると、祝園にあった兵器工廠へも勤労奉仕に行くようになった。
 英語は敵国語だというので、入試科目から外されたので受験組は英語を選択せず、家庭組の人だけは希望によって英語の授業が受けられるという妙なことになった。従って音楽会で歌うハレルヤコーラスも、ハレルヤの代わりに、めでたや、めでたや、と歌うことになった。
 こんな時代の中にも、この学校には自主を主んじる自由な雰囲気が残っていた。例えば、小学校でも女学校でも学芸会に当たる発表会で演じる劇でも、歌でも、生徒達が計画して、先生に報告して決定した。劇の時は脚本もバックの図も小道具も皆で手分けして作成した。歌だと既成の歌の場合、自分たちで考えた解説を語るナレーターをつけたり、自分たちで作詞作曲した歌を皆で歌ったこともあった。
 女学校でも一週間に一度位、朝礼の時三十分程度時間をとって、自分たちが考えていることを話したり、遠足や旅行で見たこと感じたことを劇にして発表する機会を与えて頂いていた。一寸した劇をするにしても、作文、画、工作、話し方、表現力等いろいろの勉強が出来て、これこそ活きた総合学習だったと思う。
 修学旅行は自粛しようという時代だったが、宮城前広場の清掃奉仕という名目で許可された。モンペ持参でまず清掃奉仕を終日行い、明治神宮や靖国神社参拝、横須賀で軍船三笠を見学、鎌倉の大仏、鶴ケ岡八幡宮にお参りする等、なんとか修学旅行が出来たけれど、次の年からは多分行けなかったと思う。
 昭和十八年三月二十五日、私達は卒業し、二日後の二十七日には、真田主事先生が辞任された。この頃から戦争が増々激化し、集団勤労奉仕の作業も激増したということだ。
 そうしたさなか、昭和十九年四月一日、附属高等女学校、一部と二部は合併した。
【戦後の奈良女子高等師範学校】
 昭和二十年八月十五日の終戦からは、鶴舞海軍工廠等へ出動していた生徒さん達が帰還して、郷里へ帰ったり混乱を極めていたようだが、翌二十一年一月には女子大創立委員会が設置されて、女子大への歩みが始ったようだ。
 昭和二十四年には正式に奈良女子大学が発足し七月には女子大の第一回入学式が挙行され、昭和二十五年三月には女高師最後の卒業式が行われている。
 一方、高等女学校の方は、昭和十九年に附属中学校が発足し、昭和二十三年には附属高等学校が発足、昭和二十五年にはそれまで女子ばかりであった中高が男女共学になってる。終戦から五年間ほどの間に、学校の形態はすっかり変わったが、自由な精神で物事を探求する研学精神は変わっていないと思う。又、更に昭和三十三年六月一日、附属中学と高校は紀寺町に移転した。余談ではあるが、その六日後の六月七日に私共が経営する奈良自動車学校が開校した。同じ位の時期に、移転や開校でバタバタと多忙を極めていたのだなと思うと、微笑ましい思いがする。
 奈良女子大学はその後、学部を増やし、大学院を設立して付小や付中高の移転跡地に新校舎等を増築して、益々の発展をしておられるのは誠にお目出度いことだ。
 精神的に豊かな社会を創造する指導者を養成する学園として、倍旧のご清祥をお祈りする次第である。