第132回(2006年04月号掲載
平城外京六坊通り―11
奈良女子大記念館と池田小菊先生
【池田小菊先生】
 2005年4月29日から5月5日まで、奈良女子大学記念館において、志賀直哉に師事した女性教育者「池田小菊の奈良」と題する特別展示が一般公開されると聞いて驚いた。
 池田小菊先生は、私の姉が小学校の時、担任して頂いた先生なので、付属小学校におられたことも、作家として活躍しておられたことも、戦後、婦人会活動に邁進して女性の地位向上に寄与されたことも知っていた。奈良女子大学が、奈良女子高等師範学校(奈良女高師)として明治四十一年(1908)に開校されて以来百年近くの間には、立派な先生や有名な先生が沢山いらっしゃるのに、付属小学校を退任されてから八十年近くたってから、今は重要文化財として記念館になっている、本校の講堂で特別展示会が催されるというのには、一寸驚くと共に嬉しかった。展示会の資料を参考に、子どもの頃、可愛がって頂いた小菊先生の思い出を書いてみよう。
 年譜によると、先生の附小ご在任は思ったより短く、大正十年から昭和三年三月までと、約七年間程なのだが、姉は丁度担任して頂いて、そのクラスの卒業と同時に先生も退任し、志賀直哉先生の直弟子として、本格的に作家として精進されたことになる。
 私の母、ハナは、私の満一才の誕生日、姉が小学校で池田先生にお世話になっていた、大正十五年六月七日に突然亡くなった。その日は、朝から少し気分が悪いと言っていたそうだが、昼食には初誕生のお祝いの赤飯や料理を「美味しい。」と言って食べたが、しばらくして、「疲れたから一寸横になる。」と床にはいってて間もなく、眠るように永眠してしまったそうだ。私は赤ん坊で、人の死が何であるかもわからず、乳房を求め、ひたすら泣き叫ぶだけだったようだ。姉の驚愕と悲嘆は大きく、担任だった小菊先生は、心をこめて姉だけでなく、遺された家族をも慰め励まして下さったそうだ。
 今回この年譜を見て知ったことだが、先生も、大正十年一月に奈良女高師附小に赴任されたばかりの四月にはお兄さまを亡くされ、翌十一年の七月にはお父様が死去、大正十四年の十一月にはお母様が死亡なさったという、奈良へ来て四年間で三人もの大切な肉親を喪っておられた。それだけに、その慰め言葉もひとしお心に泌み入るものがあったのだろう。祖母は七十五才で死ぬまで、「池田先生、池田先生」と、お慕いしていた。
 その姉も昭和九年、女学校を卒業して間もなく、十九才で他界した。私も、産れてから九年間で母と祖父、姉と三人の肉親を喪ってしまった。
 母が死んだ時は、赤ん坊だったので母の記憶もなく、物心をついてからも、祖父母や父、姉がいたし、身のまわりには女中さんや守さん(子守)、遊び相手には坊さん(店の見習店員)がいて、見守っていてくれたので、母を知らない私は、皆が何故、私を哀れむのかわからなかったが、祖父と姉の死は心底よりこたえた。
 先生はそんな私を哀れんで、よく「遊びにいらっしゃい。」と声をかけて下さった。「池田小菊と奈良展」の資料には、私が池田先生のお宅へ伺ったり、附小や女学校へ通った頃の懐しい町の様子が述べられているので、一部引用させて頂く。昭和二十一年四月、奈良を愛する人々が「天平の会」を作り、昭和二十二年三月に雑誌「天平」を創刊。上司海雲・池田小菊・岩坂千尋・杉本健吉・入江泰吉などが主要なメンバーであった。(中略)志賀直哉・会津八一・吉井勇などは毎号寄稿した。表紙題字は会津八一、表紙絵・カットは杉本健吉、写真は入江泰吉等で、須田剋太の絵やカットも挿入された立派な雑誌であった。(そう言えば、杉本健吉先生、須田剋太先生も、元興寺の彼岸会や節分には、いつもおいでになっていて、よくお目にかかったものだ。本当に奈良がお好きだったのだろう。)
 「天平」第二号に発表した池田小菊「鶏」には鍋屋町の住まいが次のように書かれてある。
(私の家の近くにT字形の道角があって、そこに赤いポストが立っていた。私は人に自分の家の所在を教えるとき、いつもその赤いポストを目標に、そこを右に折れ、左側六軒目のところ、細長い露地の突き当りですと言った。)
 また、昭和十年代から二十年代初めの鍋屋町界隈については、「天平」創刊号の上司海雲師の「観音さま」の冒頭に、(鍋屋町に住んで居られる小説家の池田小菊さんのところへ、復員の挨拶に行くと、「御苦労さま、年をとってからでえらかったでしょう。貴方がとられたので、姪(一枝さん)と二月堂(観音)様もきこえませぬと、こぼしていたのよ。でも南鮮でよかったわね。」と喜んで下さったのでした。というのは、鍋屋町には、幾分池田さんの宣伝も手傳ってか、古本屋さんの林さん、油屋の稲村さんと、妙に二月堂さんの信者が多く、それがみな不思議に病気が癒ったり、即日帰郷になったり、子供さんがうまく学校へ入れたり、学徒動員がのがれたりしているのに、かんじん本家の二月堂さんにお仕えしている私が即日解除にならず、朝鮮まで連れてゆかれたからでした。)とある。(下の地図は、ご近所の方達と、当時を回想して描かれたものである。)
 池田先生のお宅のある鍋屋町は、当時商店の並ぶ賑やかな町であったが、先生の家の前には短い路地があって奥まっているだけに、閑静な感じで蔦などからませて、子供の目には、ハイカラな、インテリっぽい趣にうつった。
 お家では姪の一枝さん(年譜によると、養女として入籍しておられたようだ。)が痒い所に手が届くように、先生のお世話をしておられて、訪ねて行った私達も親切にもてなして下さった。学校の帰りなど寄ると、「宿題があるのやろ。見てあげるから出してごらん。」と親切に指導して下さったこともある。
 母も姉も失って、わからないところをアドバイスしてくれる人もない私を哀れんで下さったのだろう。時には「志賀先生のお宅で貰ってきたんだよ。一緒に食べよう。」と、メロンやケーキを食べながら楽しく話したこともある。
 私がよくお邪魔していた頃は、先生が、作家としての活動をしておられる時期だった。「夜寝ている時に、フッと構想や表現が思い浮かぶことがあるのでいつも枕元にノートとペンを置いて書きとめるようにしている。」とおっしゃっていたのが、今でも耳に残っていて、私も常にメモとペンを身近に置いて、思いついたことを書きとめるようにしている。
 戦後は私も家事や子育てに追われて、先生をお訪ねすることも間遠になったが、婦人活動家として奈良市婦人会の会長をしたり、奈良県婦人協議会を結成して初代会長に就任して活躍され、婦人の意識改革や、地位向上につとめたり、婦人会館の建設を推進される等の活躍ぶりを新聞で拝見して、かげながら拍手をおくったものだった。池田小菊先生は、教育家、作家、婦人科活動家の多様な活躍を器用にこなした方だと、今も敬愛の念を込めて尊敬している。

【奈良女子大記念館】
 前図の通り、鍋屋町通りを左へ折れて少し行くと、奈良女高師の正門に出る。この正門から見る記念館(旧本館)と左右の建物、芝生や木々の緑のバランスは素晴らしい。
 幼稚園に入園して間もない頃、先生に連れられて、この正門の前まで来た。先生は、「ここは皆さんが通っている幼稚園のお父さんお母さんのような学校で、奈良女子高等師範学校と言います。長いむつかしい名前なので、これからは、本校と呼びます。皆さんのお世話をしたり遊んだりして下さっている教生先生方は、この本校から来られておりますので、お名前のわからない先生(各クラスに七・八人づついらっしゃるので)は、「本校の先生」と呼んで下さい。」とおっしゃった。
 奈良市内でも特に古い面影を残す上街道添いの奈良町で育った私は、大軌(近鉄)電車の駅より北は幼稚園までしか行ったことがなく、それより北にある本校の建物をはじめて見て、外国の風景を見たような感じがして驚いたのを覚えている。
 奈良女子大学六十年史によると、「校舎の建築は、明治四十一年(1908)二月二十九日、まず、本館(二階建・階上講堂・階下事務室)が着工され、ついで同年四月一日、本館を正面にして左に一号館、右に四号館のそれぞれ二階建の教室、本館の裏側に二号館・三号館の平屋建ての教室の建築が始った。これらの建築はいずれも明治四十二年十月二十五日に出来上がった。第一回入学式を明治四十二年四月二十九日に挙行し、その翌々日五月一日から授業が、まだ槌音の響く未完成の校舎ではじめられた」とある。この頃の入学者選抜方式は今と違って、先ず入学選抜規則と募集人員を各地方長官に通知し、各地方長官が推薦した人のなかから選抜し、更にその選抜された人達について、体格検査と口頭試問を行って入学者を決定したそうである。
「明治四十三年四月八日の教官会議で、授業開始の日の、五月一日を開校記念日とすることが定められた。」という。
 私達が学校へ行っていた頃も、五月一日は開校記念日の式日で先生方のお話の後、
一・あしたさやかに 照りわたる
  光に匂う 藤の花
  さくや春日の 森の辺に
  学の庭の 開かれし
  思出の日と 若草の
  みどりいやます 今日の日よ
二 夕べしづかに 吹く風の
  かおれる佐保の 川ぞいに
  なびく柳の 木下かげ
  学びの泉 わきそめし
  思い出の日と 行く水の
  音もさやけき 今日の日よ
 と開校記念日の歌をうたって、あと授業はお休み。

 翌五月二日は聖武天皇祭で、学校のすぐ近くの法蓮町にある聖武天皇の御陵、佐保山南陵にお参りするだけ。当時、天長節(天皇誕生日)は四月二十九日だったので、飛石連休のようで、楽しみにしていた。今だったら、五月三日は憲法記念日とか、子供の日とか、土曜日も休みとか、もっと休日が多いのだが、その頃、開校記念日や聖武天皇祭で、午后家でブラブラしていると、近所の他の学校へ行っている子から「あんた、今日サボったの。」なんて言われたものだった。
 私が「外国へいってみたい」と子供の頃目を見張った建物の概要については、大学が発行されているパンフレットに次のように誌されている。
「この建物は木造、総2階建である。屋根の中央に頂塔(ランタン)を設けたり、正面では軒先の中央部を三角形に一段上げ、また屋根に明り取り窓を6個所に設けるなど、屋根の形に変化をもたせている。外観はハーフティンバーというヨーロッパ北部に見られる、木部を外に表す壁構造のデザインである。(私も後年スコットランドへ行った時、これによく似た感じの建物を見たことがある。)(中略)2階全体は講堂になっていて、講堂の前後にホールがある。講堂には当初からの椅子が今も残る。(中略)屋根を支える構造は木造トラスで約16mの長さに渡って中間に柱なしで、屋根を支えている。講堂中央部では天井を折り上げ、天井の高い大きな空間をつくり、シャンデリアを吊り下げている。この建物の魅力は、外観と2階講堂である。外観は単調になりやすい屋根に変化を与えたり、壁もべったりする感じを咲けるため、木部をデザインして見せる。講堂では広い一面的な天井にならないように、中央部を一段上げて、広さに見合った高さを確保して、堂々した講堂にしている。」
 これを読んで、子供の頃、外国みたいだなと感じたのも、あながち妄想でもなかったのだなと思う。
 この講堂では、皇后陛下の行啓をお迎えしたり、ヘレン・ケラー女史の講演を聞いたり、梨本宮妃殿下や加陽宮殿下、東伏見宮妃殿下、李王御夫妻など、多くの皇族や名士をお迎えして、私達までお話を承ることが出来た。
 昭和十六年だったか、当時の外相、松岡洋右氏が、日独伊、三国同盟・日ソ中立条約を締結して帰国された直後(橿原神宮へ奉告に行かれた帰りに立寄られたのだろうか)来校されて、この講堂で身振り手振りを交え、皆が納得する程、面白おかしく、その時話をして下さった。この調子だと、戦争は拡大しないで納まるのかと安心したのに、その年の十二月八日太平洋戦争が勃発し、終戦後松岡氏は、戦犯として裁判中に病死されたが、その様子をテレビで見る度に、あの時の得意そうな様子が目に浮かんで、お気の毒にと胸が痛んだものだ。
 忘れられないのは、女学校を卒業する時、この講堂の奥の室で、一列に並んで一人づつ、この学校の校歌になっている皇太后陛下が皇后様の時、この学校に御下賜になった御歌の、陛下ご直筆の色紙を目近に見せて頂いたことだ。
 この百年近い輝かしい歴史をもつ旧本館が、記念館として大切に保存されていることは有難いことだ。旧本館のみではなく守衛室も、それにともなって正門も重要文化財に指定されているそうだから、私が子供の頃感銘を受けた姿は永く残ることだろう。