第131回(2006年03月号掲載
平城外京六坊通り―10
近鉄奈良駅北側の町々
【大宮通りから登大路】
 近鉄奈良駅の北側には、近代的なビルが建ち並ぶ大路 大宮通りが通っている。東の方へ行けば、奈良商工会議所、奈良地方裁判所、奈良県庁等公共の官公庁が建ち並び、西の方には主に商工ビルが建つ都会的な感じの通りだが、昭和四十年頃までは、繁華街なりに、少し様相が異なっていた。
 生駒トンネルを抜けて奈良市へ入って来た大軌(近鉄)電車は、油阪辺りで国鉄(JR)関西線と交差することになる。そこで、電車はその交差部分を高架にして互いに運行の支障のないようにし、油阪駅を設けていた。駅の切符売場や改札口は地上にあったが、プラットホームは階段をのぼって、高架線にそってもうけられていた。国鉄の線路を越えると、電車は緩やかな傾斜で地上に下り、そのまま地上を走って奈良駅へ入っていった。私が子供の頃、電車から、この油坂付近の家の屋根を見ていると、屋根瓦がなんだか茶色っぽいのに気がついた。当時、童話などで赤い屋根にあこがれていた私は、あの屋根は、そのうち赤い屋根になってゆくのかなと羨しくなって、大人にその話をすると「あれは線路から少しずつ鉄粉が飛び散って、それが錆びてあんな色になるのですよ。」と教えてくれたので、それなら私の家も線路際にあったらよかったのにな、と思ったことがある。
 昭和二十年代位までは、奈良駅の横では人力車がズラリと並んで客待をしていた。当時は自動車の通行も少なかったし、人力車は幅もあまりとらないので、道路に並んでいても邪魔にはならなかった。利用する側も、観光のお客さんは、車夫がガイドを兼ねて希望の名所旧蹟を案内してくれるし、地元の人間も一人で気軽に乗れるので、家へ帰るにもよく利用したものだった。
 奈良駅の道(今の大宮通りの前身)をへだてた北側には、「きくや本店」という大きな酒屋さんがあった。「きくや」という立書の看板の両側に「阿(あ)られ酒」「奈良漬」と彫られた古木の看板を掲げた間口の広い、長い歴史を想わす堂々とした老舗であった。
 菊屋さんから少し西へ行くと玄林堂という製墨の老舗があったりして、古き良き時代の面影を残す家が建ち並んでいた。ところが昭和三十年代後半から自動車が増え、道路が渋滞しはじめた。昭和四十五年(一九七〇)大阪万国博覧会が開催されるのにあたり、渋滞解消のため近鉄奈良駅を地下に移設することとなり、昭和四十三年二月三日、地下移設工事が着工され、それに伴って道路も拡張されることになった。奈良駅地下移設工事により旧油阪駅の辺りは地下へ入ってしまうので、油阪駅は廃止され、西へ約1キロの地に新大宮駅が出来た。
 万博の前年、地下乗入工事は無事完成し、一九六九年十二月九日から運転が開始された。駅が地下になったことによって、駅前広場や四車線道路の整備が進み、奈良の玄関口の趣を一新させた。駅付近や西の方も瓦葺の家がへって、高層建築や駐車場が増えて近代化した。駅から東の官公庁が建つ登大路も、道幅が拡張されるにつれて趣を変えて行く。
 もと興福寺の一乗院の宸殿を改築して転用されていた奈良地方裁判所は、唐招提寺に移築され、慶安三年の再建当時の姿に復元され、鑑真和上をお祀りする御影堂となり、東門も御影堂の正門となって、裁判所は近代的な建物に建替えられた。
 明治四年大和一国を管轄する奈良県(第一次奈良県)が成立したが、明治九年(一八七六)には堺県に合併され、更に明治十四年には大阪府に合併された。県民一丸となっての念願がかなって、明治二○年(一八八七)十一月四日、奈良県の再設置が認められ、興福寺の食堂跡(現在の興福寺国宝館の所)に建てられた洋風建物が県庁の仮庁舎にあてられた。喜びをこめて明治二十八年建てられ、昭和四十年に建て替えられるまで、七十年間県民に親しまれた県庁舎は、正面屋根に鴟尾(しび)をあげた和風の建物であったが、アメリカ式木骨構造をとり入れ、当時の建築の粋をつくした、一見大名屋敷を偲ばすような堂々とした建物であった。
 現在の近代的な県庁は、昭和四○年三月十八日に落成式が拳行された。四十三年には奈良県文化会館、四十九年には奈良商工会議所、五十三年には県中小企業会館も竣工して登大路付近の様相は一変し、古都らしい落付いた雰囲気から、近代的な明るい感じになった。往古を偲ばす風情に郷愁を抱く方もあるだろうが、それは社寺仏閣や自然の風景、町並等に期待し、新しい奈良の発展のシンボルとして素直に慶びたい。

【東向北町】
 大宮通りを渡って東向北町に入る。昔、この町の南に敬田門、北の花芝町との間に花芝之脇門があり、町の東側は慈尊院、一乗院宮のお屋敷だったそうだ。近鉄奈良駅に近いのと、この町の北方に奈良女子高等師範学校(以下女高師と略称)が設立されたのに加えて、法蓮町が閑静でインテリジェンスのある住宅地として急速に発展し、人通りも多く、商店街として賑わっている。
 私が通っていた女高師附属幼稚園はこの町の東側にあった。私が入園したのは昭和六年四月。幼稚園への入口は勾配のゆるいコンクリートの坂になっていて、その両側に並ぶ桜の大木は満開で、花の雲のように美しかったのを覚えている。この幼稚園は奈良女高師の学生さんの教育実習のために、当初は女高師の構内に建てられる予定だったが、その後奈良市と協議の結果、東向北町にあった元奈良市立第三小学校朝日分教場の建物を寄付し、その敷地は、右建物を附属幼稚園舎として使用する限り無償で女高師に貸与することになったそうだ。(奈良女子大学六十年史より。)
 明治四十五年(一九一二)十一月一日、保育を開始した時は園児72名だったようだが、私が入園した時は確か6組あって、1組・2組は2年保育の2年目、3組・4組は1年保育、5組・6組は2年保育の1年目だったように思うから、1組25人としても150人位いたのだろう。私の子供達が入園する頃には3年保育が増え、8組位まであったと思う。押すな押すなの希望者の中から、簡単なテストと、くじ引で選定された。私も2年保育はくじ引で落ちて、1年保育でどうにかくじにひっかかったので3組に入れたので、入園式の時の桜の印象もひときわだった。担任は小平先生で、農野先生、飯田先生等、7、8人の教生先生がおられた。どの組もこの位の人数の先生がついておられるので、保育が行き届いていたから希望者が多かったのだろう。
 私の隣の席は、志賀直吉ちゃんという子だった。法蓮町や高畑町など近所から比較的沢山来ている子達は親しそうに騒いでいるのだが、顔見知りの少ない私は、お隣とでも親しくならなくてはと、思い切って「あなとのお家、何のお商売してるの。」と声をかけてみた。
 当時奈良町の私の家の近所は商家ばかりだったし、幼稚園までの道も、餅飯殿や東向等、商家が並んでいる所だったので、幼い私は、大人は商売しているものだと思っていたのだ。ところが直吉ちゃんは「商売はしていない」と答える。「じゃあお父さんは何をしておられるの?」と聞くと、「毎日何か書いている。」と言う。妙な家もあるものだなと思って、家へ帰ってその話をすると、「志賀直哉先生の坊ちゃんだろう。」と皆に笑われた。どうやら文豪志賀直哉先生のことを知らなかったのは私だけだったようだ。今になって思えば、志賀先生の高畑サロンに集られていた、有名な画家の浜田葆光氏のお嬢さんの良枝さん等も同じクラスにいらっしゃったのだから、入園したてでもお友達のグループがあったのは当然だった。が、私はその時自分が引っ込み思案だからだと思った。そしてもし失敗しても、子供だからと許されるだろうから、できるだけ積極的に話しかけようと思ったようだ。(なにしろ6才の子供だから理論的に物を考えた訳ではないが、こんな心境だったと思う。)そのうち幼稚園にも馴れ、お正月の式の時は全園児を代表して、直吉ちゃんと二人で園長先生の前へすすみ「園長先生おめでとうございます。皆さんおめでとうございます」と、挨拶したのも、忘れ難い思いでだ。奈良女高師附属幼稚園は、昭和二十七年奈良女子大附属幼稚園となり、五十年余り、約七千人の幼児を育てた懐しい園舎も老朽化したので、昭和四十二年(一九六七)三月、学園前の現在地に新築移転した。

【花芝町】
 東向北町の北隣は花芝町である。山田熊夫先生の奈良町風土記に「(山階寺流記)のなかの宝字記に(西菓園一坊在三条、六坊在園地一坊)とあるように、ここに花園のあったことがうかがわれる」とある。猿沢池の辺りは興福寺の南花園で、猿沢池は興福寺の放生池であると同時に防火用水でもあり、花園の灌漑にも使われたと聞いたことがある。それでは北花園はどこにあったのだろうと思ったが、この辺が北花園だったのかも知れない。この町には花園用の井戸が今でも残っているということだ。

【宿院町と坊屋敷町】
 女高師付属小学校へ行くには花芝町から左に折れて宿院町を経て坊屋敷にある小学校に至る。宿院町は、昔、春日祭りの勅使の宿坊となったところからこの町名が生まれたとも、興福寺の西金堂の仏像の多くを作成した宿院定政という仏師が住んでいたので、宿院と呼ぶようになったとも伝えられている。
 坊屋敷町は、慶長八年(一六0三)中坊飛騨守左将監秀政が、奈良奉行に任じられ、ここに住んだので、人々が中坊屋敷と呼ぶようになったと伝えられる。女高師付属小学校はこの坊屋敷町にあった。校門の横には守衛官室があって、何人かの守衛さんが交替で座っておられた。この頃、小学校で事件があると、あんなように守衛さんがおられたら大丈夫だったろうにな、と思う。奈良女高師全校には、大正九年、時の皇后陛下から下賜された御歌に曲をつけた校歌があるが、付属小学校ではこの校歌とは別に朝礼や、何かの折りに歌う、「伸びて行く」という歌があった。
  山のわらび、ぐんぐん伸びる
  春の日をあびて ひとりで伸びる
  たんぼの麦の芽 ぐんぐん伸びる
  雪の中をわけて ひとりで伸びる
 
この歌に象徴されるように、学校全体に自由の気がみなぎっていた。鈴木良先生編「奈良県の百年」に書かれている文化の新しい動きの内から「伸びて行く」の部分を要約すると、次のようになる。
 大正九年奈良女高師附属小学校で試みられた『合科学習』は折から自由教育運動の高まりのなかで、全国の小学校教育に多くの影響をあたえた。
 女高師附属実科女学校及び付属小学校の主事を兼任した木下竹次先生は、学習すなわち生活であり、機械的な科目別学習をやめて、生活全体を学ぼうとする総合学習を主張され、主に低学年で実践された。この学習論は「奈良の学習」として大きな反響を呼び、これを採用する学校は全国で一二二校にのぼった。大正九年から授業公開が行われると参観者は、大正一○年には6532人、十一年には二万人あまりにおよんだ。大正十年には、月刊児童雑誌「伸びて行く」が東京目黒書店より発行され、同附属小学校の教育をひろく全国に普及することになった。教師向けの研究機関紙「学習研究」も発刊され、こうした学習法や教育実践が大きな関心を呼び、高く評価されると、文部省側は強い批判の姿勢を示した。「新教育は採用すべきではない。奈良県では生徒と教師とを平等に見ているからいけない云々」と真向から批難し、木下先生もこの文部省の批判によって「学習法」の研究が後退してはならないことを強調したが、「伸びて行く」は七年あまりで休刊し「学習研究」も昭和十六年三月には教育雑誌の統制によっておのずから終りをつげた。木下竹次主事先生は、その前年、昭和十五年の十二月に二十一年間勤務した奈良女高師を辞任した。
 私が附小を卒業したのは、昭和十三年だから、ちょうどその自由な教育を受けていたことになる。「伸びて行く」は、出版社からは休刊になったようだが、校内では発行されていて、生徒達の作文や詩が載ったり、奇抜な発想が発表されたりするので、皆楽しみにしていた。
 昭和十二年に日中戦争が始って、思想や教育の国家統制が厳しくなる時期に、こうした伸び伸びとした教育を受けることが出来たのは有難いことだったと思う。また、こんな時代でも、奈良方式と呼ばれる教育法に関心を持たれている先生も多かったとみえて、私達の在学中にも参観の先生方が沢山来られたいた。参観の先生達に廊下ででも会ったら必ず道を譲ってお辞儀をしたり、又授業中に10人、15人も参観の先生が教室に入って見ておられても、平素とまったく変わらない態度で授業を受ける習慣がついていた。この学校は宮様や有名人の御来賓の多い学校だったが、ことに印象に残っているのは、昭和十二年六月二十七日、皇太后陛下が行啓されて、陛下が皇后陛下の時下賜された御歌が校歌になっているのを、講堂で皆で歌い、陛下からお言葉を頂いたこと、また、同年五月十一日、社会事業家であるヘレン・ケラー博士がアン・サリバン先生と共に来校されたことだ。ケラー博士は、赤ちゃんの時、病気で盲・聾・唖の三重障害になりながら、家庭教師のアン・サリバンの献身的な努力と本人の不屈の自立精神で障害を克服し、福祉事業を推進する女流著述家として活躍され、講堂で聞かせていただいたお話が、殊に感銘深かった。
 この小学校が昭和四○年、末娘の千寿子が在学中に学園前の現在の場所に移転した。当時PTAの副会長をしていた私は、何度も会合に呼び出されたのも、今となってはなつかしい思い出だ。