第130回(2006年02月号掲載
平城外京六坊通り―9
東向通り
【東向の名前のいわれ】
 この間、ある団体で「奈良の昔話」をして。話の後質問を受けていると、「この会館の建っている所は、東向町と言いますが、何かいわれがあるのですか。」と聞かれた。
 「東向通りは今では奈良随一の繁華街ですが、昔は道の東側には興福寺の塔頭が建ち並んで、民家は道路の西側に東向にしか建てられなかったからだそうですよ。」と答えると、「ヘェー」っとびっくりされる程、今は賑やかな街だ。しかも、この東向通りが外京六坊大路であった頃には、東側には興福寺の伽藍が壮麗に建ち並び、西側は、その別院や菜園だったのだろう。
 藤原氏の氏寺として権勢を誇り、鎌倉時代、大和一円を支配していた興福寺の勢力は絶大なもので、かりそめにも伽藍の近くには民家などを建てることは出来なかったのだろう。この頃は商家の二階建さえ、堅く禁制されていたという。戦国時代の末頃になって、道の西側にポツポツ人家が建ちはじめ、永禄年間(一五五八〜一五七○)になってようやく東向の人家が建ち並ぶようになり、東向という地名がうまれたようだ。興福寺は、亨保二年(一七一七)の大火災で、多くに伽藍を焼失し、復興が遅れているうちに明治維新を迎える等。興福寺の勢力が衰微するにつれて、道の東側にも民家が建ち並ぶようになったということである。

【近鉄の前身大軌電車と東向】
 東向町がさらに大発展をとげたのは、大阪電気軌道、いわゆる大軌電車(現在の近鉄)の開通にあった。大阪電気軌道株式会社が明治四十三年(一九一○)に資本金300万円で設立され着工された。奈良―大阪間の最大の難所は生駒山であった。生駒山を越えるには、1.今の阪奈道路の位置に線路をひく案、2.インクライン式コース(ケーブルカーで上下する案)、3.生駒トンネルを掘る直線コースの三案があったが、最も難工事である生駒山にトンネルを掘る最短コースが選ばれた。鈴木好先生編の「奈良県の百年」によると「大軌の命運は生駒トンネルの成否にかかっていた。その開さく工事は大林組の手で明治四十四年(一九一一)七月に着工したが、工事は難航した。資本金の大半を使い果たしてなお完成しないばかりか、大正二年(一九一三)一月には岩盤が崩壊して153人が生き埋めになり、19人が死亡するという大惨事もおこった。」とある。住井すゑ著の「橋のない川」にこのトンネル事故の悲惨さが書かれてあったのを思いだす。
 かくして、長さ3380メートル、私鉄では当時日本最長、複線の大トンネルが着工から約三年後の大正三年四月十八日完成し、同年末、大阪の上本町六丁目から、奈良市高天町の仮停留所間の営業運転が始まった。片道31銭、所要時間55分であったそうだ。今だったら、電車が通ったり、駅が出来たりするのは、その土地にとって大歓迎だと思うのだけれど、驚いたことにこの鉄道建設は通過予定地の土地の反対のなかですすめられたという。先祖伝来の土地を手ばなしたくないと言う人もあっただろうが、それよりも、駅が出来れば風紀がみだれるという説が強かったようだ。「特に奈良市内乗り入れについては、客が日帰りするし、風紀も悪くなるという反対論が強く、終点を東向中町とすることは、市民大会や市会での反対決議を無視した折原知事の申請で決着が付けられた。」と「大和百年の歩み」にある。まさに隔世の感があるが、この知事の英断で、奈良は活気づき、奈良女子高等師範学校が誘致されたり、鉄道院(鉄道省)によって奈良ホテルが開設されるなど、観光都市化が促進され、県都としての面目を確立した。奈良駅のある東向町の発展は言わずもがなである。

【東向のお菓子屋さん】
 私が物心ついた頃(祖父は昭和八年に死んでいるので、まだ元気な時だから、昭和の初め頃だろう。)よく、「東向通りは奈良一番の商店街になったなあ。万勝堂さん、良い所に店を構えはったな。」等と、茶飲み仲間達と話しあっていた。万勝堂の今の御当主の曽祖父さんに当る、四代前の上村さんが現在の東向中町の土地を求めて店を開かれたのは、この大軌電車開通の前後だったようだ。
 祖父は植村さんの修業時代からの知り合いで、植村さん夫妻の仲人もさせて頂いたような間柄だったので、この土地を求めるにあたっての相談も受けたそうだ。万勝堂さんが白羽の矢を立てられた土地は、先に話したように「駅が出来れば風紀が悪くなる。」という説もあるし、そのくせ、電車開通のうわさが出る以前にくらべて、地価は数倍にハネ上がっているので、どうしようかと迷っておられたということだ。
 相談を受けた祖父は、「自分が良いと思ったことは自分を信じてやり通すのが良いのでしょう。」と後押ししたものの、うまくい行けば良いがと、心の底から祈っていたようだ。それから十年余り、町は日に日に変貌をとげて発展したのだろう、私が女高師(現奈良女子大)の附属幼稚園に通っていた昭和六年頃には、子供の目には、大阪の心斎橋と変わらないような賑やかな町に映った位だから、祖父も心の底からホッとしたのだろう。
 上村さんと、萬々堂三代目の河野睦則さんとは、菓子作りの修業時代の兄弟弟子で、本当の兄弟のように仲が良く、どちらも義理堅い親切な方で、私の家の冠婚葬祭には必ず顔を出して下さっていたので、幼い私は親戚の小父さん小母さんだと思っていた。祖父が病におかされて食事がすすまないと聞くと、両家から毎日のように「以前家に遊びに来られた時、これがスキだとおっしゃっていたから。」とか、「蒸気で炊いたご飯が美味しい」と言っておられたからと、炊きたてのご飯やお菜を届けて下さった。病床の祖父はそれを見るだけでも随分心が癒されたことだろうと、祖父ッ子で祖父が大好きだッた私は、今も感謝している。祖父が死んでからでも葬式は勿論、中陰(四十九日)の七日七日のはご詠歌をあげに来て下さるし、長い間盆正月にはお墓参りをして下さって、「万々堂」「万勝堂」と書いた花立てにお花を供えて下さっていた。
 砂糖傳四代目を受け継いだ私共は、この方達から、商売というものは、商品を売り買いするだけでなく、心を添えて商(あきない)をさせて頂くものだということを学び、五代目、六代目を受け継ぐ子や孫に言い伝えている。話がお菓子屋さんへ行ったので、この町内のお菓子屋さんをたずねることにする。
 万勝堂さんの筋向かい辺りに湖月さんがある。湖月さんは昔から上品な和菓子と和風喫茶の店で奈良女高師の学生さんや女のお客さんが多かったようだ。ところが、この店のお嬢さんが美人で「ミス奈良」に選ばれてから若い男性が門前市をなしたといううわさを聞いたことがある。その頃、私はまだ子供だったので、このミス奈良さんは知らなかったが、女学校の一年上にその妹さんがおられた。目の大きい綺麗な方だったから、きっと美人の家系なのだろ。私も時々美味しいお汁粉などを食べに連れていって貰っていたが、そのうち戦争で甘い物は食べられなくなってしまった。終戦になって砂糖が自由販売になった頃、奈良の人のみならず、観光客もアッと驚いたのは、あの大きな「三笠」だった。戦前から「三笠」という饅頭はあったが、せいぜい直径七センチ〜十センチ位までのもので、切り分けて食べるのではなく、一人分の大きさだった。ところが、六っか八っに切り分けなければならない位大きくて、吟味された漉し餡がたっぷり入った三笠はたちまち好評を得て、観光客の方が、「帰りに買おうと思っていたら売り切れては困るから、奈良へ着いて直ぐ買ったので荷物になって。」とこぼされる程、有名になった。
 湖月さんから少し南へいくと、和菓子と、奥で甘党喫茶や美味しいそばを食べさせておられる「ふる里」さんがある。ふる里さんも三笠をやっておられるが、湖月さんのよりはひとまわり小さめで、粒餡を使っておられる。粒餡の好きな方はここへ買いに来られているようだ。初代は学校の先生をしておられた方だが、その実直で親しみやすい人柄が受けて商売の道にしっかり根を下された。二代目さんも若いころは先生をしておられたようだが、親を助けて店をまもり、今は三代目さんと協力して商いを繁栄させておられる。
 東向通りをもう少し南へ行くと、西側に「千代乃舎本家竹村」さんがある。古いお店で、火打焼と青丹よしが有名だった。勿論季節のお菓子も作られているので、私が習っていたお茶の先生のお菓子は竹村さんから入っていたようだ。能の尉と姥を思わす上品な老夫婦がおられて、息子さん夫婦とおられると、まるで歌舞伎役者の一家のような感じだった。うちの店の者が砂糖を配達に行くと「奥の深いお家で、あんな良い場所で、奥を遊ばしておくの、勿体ないですな。」とよく言っていたが、数年前建て替えて奥への通路をつくり、最新式のマンション「セントラルハイツ千代」を店の奥に建てておられる。
 東向通りは奈良でも目抜の商店街なので、奈良大丸さん、奈良漬やお食事所の山崎屋さん、レストランや喫茶店等、有名店が枚挙にいとまない位だが、最後に、今はない思い出の店を書きたい。
【十銭・二十銭ストアーの出現】
 昭和六・七年頃だったか、現在の近鉄奈良駅の向かいに高島屋の店が出来た。高島屋といっても普通のデパートではなく、一階に売っているものはどれも一品十銭、二階の商品はみんな二十銭という、今まで見たことも聞いたこともない十銭二十銭ストアーだった。(といっても私は六才か七才の頃だから、大人たちは知っていたのかも知れないが。)店へ入ると、店員さん達は一応接客マナーの教習を受けているとみえて、「いらっしゃいませ。」と愛想良く迎えてくれる。そして十銭という子供でも楽に使える金額で、塗絵でもクレヨンでもままごと道具やマスコット人形等、いろいろ並んでいる。
 そのうち、女中さんやぼんさん達が行って「十銭二十銭で何でもあるで!」と騒ぎ立てるので、話の種にと奥さん達も覗きに行く。そして「安い安い」と、さして必要のないものまで買って帰るので、一時押すな押すなの大繁昌だった。
 そのうち、あちこちに小型の十銭ストアーや中には駄菓子屋の延長のような五銭ストアーも出現した。この頃町に、大型小型の百円ストアーが出来、99円の店等が出現するのを見ていると、その頃の記憶がよみがえってくる。バブル経済破壊から不景気に落ち込んだ日本経済の突破口になる兆しだと良いのだけれど。