第129回(2006年01月号掲載
平城外京六坊通り―8
橋本町
 なつかしい店と南都銀行
橋本町の町名の由来
 むかし、この町の南の方に、猿沢池の方から率川が流れてきていた。昭和の初め頃に暗渠になり、今はその上が遊歩道になっているが、まだ川が地表を流れていた頃、通りとの交差点に、石の橋がかかっていたので町名になったという。此の間、松森さんが送って下さつた摩詞不思議ラリーマップには次のような伝説が書かれてあった。(この石橋を渡る人々は、口々に妙な噂をしたという。一人でそこを通り過ぎようとすると、後から声がして呼び止められる。「…して、…して。」が振り向いてもだれもいない。気のせいかと思い、再び歩き出すが、やはり声はする。よく耳を澄ますと、その声は川の方から聞こえてくる。だが見渡しても人影はない。しかし川に奇妙な人がいるのを見たという人もいた。夜が更けると、手元の明かりのみで、遠くは暗くてなにも見えない。しかしその時ばかりは川の上に浮いている人の姿がはっきり見えたという。その目撃は若い女性だったり、年を召したおじいさんだったり、また子供だったりと様々だが、決まって恨めしそうに、じっとこちらを見ていたそうだ。
 さて、その遊歩道を設ける工事が行われた時のこと、川の淵を固めていた石を崩したところ、なんとその中には多くの墓石が混じっていた。近所の人達は驚き「ああそういうことだったのか。」と、今までの奇怪な噂に納得したという。その墓石は無縁仏としてお寺に運ばれ、丁重に供養された。)
 昔は急いで石垣を築いたり、水路の修理をしたりする時は石が間にあわなくて、石のお地藤さんや墓石を使っていて、奇妙なことがおこったという話がよくあるようだ。
 又、この町は奈良市の中央で、奈良からの交通起点となっていたという。県下の里程は、ここを基点として測量されたそうだ。
なつかしい思い出の店
 橋本町の一部を含む「もちいどのセンター街」のアーケードを抜けて北へ突当った所に、今はミシンや毛糸、布や手芸用品等を明るく展示した「糸手毬(いとてまり)」という店がある。ここに、昔は「木原」という大きな本屋さんがあった。
 赤ん坊の時に母に死なれた私は、かなり過保護に育てられたとみえて、あまり外へは遊びに出ず、物心ついた頃から、祖母や女中さん達に、絵本や童話を読んで貰って育ったので無類の本好きだった。
幼稚園へ入る前、2・3才頃から、講談社の幼年倶楽部をとって貰っていたが、発行日になると、配達されるのが待ちきれなくて、店のぼんさん(見習店員)にたのんで、何度も「幼年倶楽部まだですか。」と電話をして貰った。その都度「積んで出ておりますので、もうすぐ届くと思います。」という返事だった。自転車に何軒かぶんを積んで廻っているのだろうけれど、その僅かな時間が待ちきれなくて、いつも面倒をかけていた。
 小学校三年生の時、姉が死んで、一人ぼっちになった私を父が哀れんで、せめて好きな本を好きなだけ読めるようにと思ったのだろう。「この子が行ったら掛売りで渡してやってくれ。月末にはまとめて払うから。」と頼んでくれた。それからは、学校の帰り道にある木原さんへ立ち寄っては、気に入った本があると、帳場に坐っている小母さんのところへ、「これつけておいて下さい。」と、記帳してもらって、持って帰っていた。何冊、掛けで買おうが、父は何も言わなかったが、昔気質(むかしかたぎ)な祖母は、「こんな好き放題に買わせていて良いのですか。」と苦言を呈していたようだが、父はとりあわなかった。でも、小学校の高学年頃には、本装丁の本はかさが高くて置き場所にも困るし、岩波文庫だとかさが低い上、同じ値段で何冊も買えて楽しみが多いと気づいて、もっぱら読みたい作家の文庫本を探していた。子供って好きなようにさせておいても、自然に子供なりの知恵を出すものだなと思う。今から思えば、嬰児の頃母を亡くし、又、幼児期に姉を失った私が、勝手に遊びまわるより、好きな本を充分与えておけば、真っ直ぐ家へ帰ってきて読みふけっているから安心だという、愛の施本であったのだろうと感謝している。
 木原さんの西隣りは寿司常さん。今は一階がブティックで二階が寿司常本店になっているが、昔は一階はお寿司で二階では洋食もやっていた。洋食といってもコース料理ではなく、チキンライスやトンカツといった一般的な一品料理だった。子供の頃体が弱くて、食物の好き嫌いの多かった私が、おかずが気に入らないというと、この寿司常や近くにあった松のバーヘ電話をして、ビーフステーキやオムライス、鶏肉の唐揚げ等を持ってきて貰った。今だったら一皿や二皿の料理を持ってきてほしいなど、気がひけて言えないのだけれども、当時は気軽にたとえお寿司一人前でも配達して下さったものだ。古き良き時代の話である。
地域金融の担い手 南都銀行
 南北の道をはさんで西側には、南都銀行本店の堂々たる建物がある。奈良県の経済の中心であり、原動力でもある南都銀行は、昭和六十年発行の「南都銀行五十年史によると、昭和九年六月一日、奈良県下の六十八銀行、吉野銀行、八木銀行、御所銀行の四銀行が合併して設立された」という。そう言えば、私の家の近くにあった南都銀行元興寺支店(今は紀寺町に移って紀寺支店になっている。)も、私が幼いころは「六八鋸行」と呼んでいた。合併四行の中でも最も古い歴史を持つ六十八銀行は、明治十二年一月十一日、第六十八国立銀行として誕生した。
 日本が近代国家として欧米諸国に追いつくため、殖産興業の推進をはかったが、その中心となったのが金融制度で、明治五年国立銀行条例が公布されて、その設立順に第一、第二と名付けられ、国立銀行の数は一時は百五十三行に達した。
 国立銀行条例の改正により、明治三十年十二月二十一日より、株式会社六十八銀行となったという。日清戦争が終わった明治二十八年以降、産業の興隆や国立銀行の普通銀行への転換、政府が銀行の普及に力を入れたこと等によって、銀行設立のブームがおこって、地方有力者が競って銀行を設立するといった風潮になったそうだ。奈良県でも明治三十四年のピーク時には県下に二十七もの銀行が出来たが、その後の金融恐慌や不況、又政府が銀行設立制限や合併奨励策を推進したことにより、銀行の数は次第に減少していったという。南都銀行の前身となった四銀行でも、それまでに他行と合併していなかったのは御所銀行一行のみで、六十八銀行は八行、吉野銀行は七行、八木銀行は四行を合併していたそうだ。
 南都銀行の母体でもある六十八銀行の本店は当初から現在の南都銀行本店の場所にあったと思っていたが、そうではなく、幾度かの変遷があったようだ。これも大和の近世から近代への歴史の一部を垣間見る思いがする。

【郡山と六十八銀行】
 大和郡山には室町時代に、在地領主(薬園荘の荘官であったろうといわれる)により郡山城が築かれ、天正年間の一五八〇年、織田信長によって、筒井順慶に与えられた。順慶は城の大増築をしたが、五年後の一五八五年には筒井氏に代わって豊臣秀吉の弟、豊臣秀長が入城、大和、紀伊、和泉三国の城郭を整備、城下町郡山を拡張した。南都銀行五十年史によると、秀長は城下の繁栄をはかるため、大和国中(くんなか、平坦部)での一切の商売は郡山城下以外では出来ないという商業厳禁策をとったという。その後、この商業厳禁策は緩和されたが、江戸時代の郡山は依然として大和の商業の中心地として栄えた。江戸幕府のもとでは幾度か藩主の交替があったが、亨保九年(一七二四)以降は柳沢氏の郡山藩十五万石の城下町として明治に至った。
 明治四年七月の廃藩置県により、郡山藩は郡山県となり、一時は郡山城に県庁がおかれ、郡山城最後の城主であった柳沢保申氏は郡山県知事となられた。郡山城主として百四十年余り縦承された柳沢家の六代目の城主であった柳沢保申氏は、旧藩士の生活や郡山の盛衰について
常に心を痛めておられた。明治九年の国立銀行条例の一大改正に基き、近代的な金融業を興し、産業を開発することが重要であると考え、士族救済の方策ともなることを説き、旧藩士達に、銀行設立を提唱されたと伝えられる。この提唱を受けて、旧藩士の主だった人八名、土地の素封家二名が発起人となって、大蔵卿大隈重信公に国立銀行設立願を出し、開業免状を貰って、明治十二年一月十一日第六十八国立銀行は「堺県下大和国添下郡、郡山柳町一丁目二十一番地で開業した。
郡山県になったり、堺県になったり、その後大阪府になったりした明治初期の人心の動揺がしのばれる。」
 明治十三年六月からは奈良東城戸町に出張所を設け、官公金出納業務を開始したが、出張所ではなにかと不便が多かった。明治九年に奈良県が廃止されて以来、奈良県再開運動が繰り広げられていたのが、やっと実現して県庁が奈良に設立されたのを機に、大蔵省に申請して、明治二十一年一月十二日、奈良角振町七番地に奈良支店を開設した。
【奈良支店の新築と南都銀行への移行】
 角振町に設立された支店は業務の拡大と共に手ぜまとなり、この支店から東へ約100米の奈良市橋本町十六番地(現在、南都銀行本店のある場所)に新築されることになった。
 設計監理は東京在住の工学博士で建築士の長野宇平治氏、工事は大林組が担当された。大正十三年五月十三日地鎮祭が行われ、十五年四月、約二年間の工期と、関係費用を併せて五十二万三千円の巨費(当時の貨幣価値からすると莫大なものである。)を投じて、三階建て(一部四階)地下一階の店舗が完成した。関東大震災の翌年の着工だけに、堅固な鉄筋コンクリート造りで、外壁は岡山産花崗岩を張り、延坪二四〇〇平方米(七五三坪余)の堂々たる建物である。
 外装は壮麗なギリシャ風建築で、吹き抜けの営業室の二階の高さの部分にはヨーロッパ風の手すりのついた回廊があって、学校から見学に行った時は、この回廊から営業室を見せて頂いたことがある。南側正面にはギリシャ神殿を思わすような、イオニア式円柱が並んでいる。この円柱の石材彫塑模型は、東京美術学校教授の水谷鉄也氏によって製作されたという。その後何度も増改築が行われているが、三条通り側から見た外観は殆ど変わらず、どっしりしたおもむきを残しているのは嬉しい。
 昭和三年七月の六十八銀行の株主総会で、本店を奈良市へ移転することが決議され、新装なった奈良支店を新本店に、旧本店は、郡山支店として同年八月六日移転が完了した。かくして、先に誌した通り、四行が合併して、昭和九年五月一日南都銀行が設立されて、旧六十八銀行の本店は南都銀行の本店となった。六十八銀行創立から、南都銀行になるまで五十五年、南都銀行誕生から今日まで七十一年。この百二十六年の間には、日清、日露の戦争、欧州大戦、満州事変、太平洋戦争とそれにともなう経済変動、空前の好景気や大恐慌など、景気の循環を繰り返しながらも、堅実な経営で私達を支え指導して下さつているのは有難いことだ。
 若くして商売を受け継ぎ、商売のイロハもわからなかった主人に、算盤のおきかたから簿記まで指導して下さった。二代目頭取赤阪頼磨様が、ある時地相の話をしていると、「この南都銀行本店の地は、地相も位置も絶好の土地なんだ。だけど、その好条件にみあうだけの努力をしなければ良い成果は得られない。人間は着実な努力が肝心だよ。それに、庭の飛び石でも、一つづつ渡ると失敗はしないが、石と石の間、又、石段の段と段の間が狭いからといって二つも三つもとんで渡ったり、登ろうとすると、尻もちをついたり怪我をしたりする。何でも、一つづつ丁寧に世渡りしてゆきなさいよ。例えばうちの銀行ぐらいになると直ぐ東京へ支店を出したがる。(赤飯頭取は昭和四十年に亡くなっておられるので、その頃はまだ大阪支店も出来ていなかった。)しかし、うちは一歩一歩、地元を固めている。うちの銀行が、大阪や東京へ支店を出した時は、充分、内部が充実した時だと思って下さい。」とおっしやった。
 それから十年ばかりたって、昭和四十六年には大阪支店、昭和五十六年には東京支店も出来て支店の数も126店(県内92ヶ店、県外34ヶ店)となり、ネットワークを充実して地域の経済活動に貢献しておられる。歴代の役員様、行員様方のご努力に敬意を表し、一層のご繁栄を祈る次第である。