第128回(2005年12月号掲載
平城外京六坊通り―7
もちいどのセンター街
 東向・三条通りと共に奈良県でも有数の商店街に餅飯殿町がある。でも、初めて奈良へ来られた方は、この町名はどう読むのだろうといぶかる方も少なくないだろう。私の子供の頃、大人達は「もちいどの」をなまって「もつとの」と呼んでいた。この頃では、「もちいどのセンター街」と、ひらがな表示されているので、誰もがもちいどのと、本来の名前で呼ぶようになった。
 この地は、古くは蕗畠郷(ふきはたごう)と呼ばれていたという。蕗が沢山自生していたからとも、そうした自然環境を活かして蕗を栽培して平城京にあった内裏や寺院等に納めていたからとも伝えられるから、昔は今と違ってひっそりとした所だったのだろう。
 私が子供の頃から童話の先生として親しみ、連れられてほうぼうへ童話や児童劇をしに行った山田熊夫先生のお話によると「藤原冬嗣卿が藤原北家の隆昌を祈って南円堂を創建された時、弘法大師が吉野の天川村の弁財天を興福寺に勧請して窪の弁財天と称した。この時この町にも弁財天を勧請したと伝えられる。」とのことであった。
 現在この窪の弁財天像は、国宝の三重塔内に安置されていると言う。弘法大師は、高野山を開く際にも、天川の弁財天に千日参篭をされたという伝承もある。
 餅飯殿という町名の由来にはいろいろの伝承があって、一つには、弘法大師勧請の窪の弁財天に、この地の人達が餅・飯などを献上したからと言われる。
 又、醍醐天皇の延喜年間(九○一〜九二三)に、醍醐寺の名僧、理源大師(聖宝)が大峯山に入峯の際、天川村の人々が先達として道案内された。その際随行して行ったこの町の人達が持参して行った餅飯を土地の人々に沢山差上げたので、その土地の人達が、「餅飯殿」と呼んだのが、地名になったとも伝えられる。
 又、やはり童話の先生であった乾健治先生著の「子供のための続・大和の伝説」には次のように書かれてある。
「奈良市餅飯殿町は、昔南都ふき畑町といいました。その頃理源大師というえらい坊さんがいました。ある年の夏、小坊さんをつれて大峯山に登りました。すると途中に大蛇(だいじゃ)がすんでいて、通る人々をなやましました。坊さんたちは、餅を沢山つくって山上のお寺へお供えしようと思って持っていました。大蛇が現れてその餅を飲もうとしました。小坊さん達は餅をやろうとしませんでした。すると小坊さん達を身ぐるみ飲もうと、おそろしく向かってきました。小坊さん達が飲まれようとしたので、それを見かねた理源大師は手に持っていたドッコ(独鈷、仏具の一つ)をもって大蛇の頭を打ち割られました。
 理源大師らが無事に山上まいりをすませて帰ろうとされると、帰る途中で女の大蛇が腹を立てて小坊さん達を追いかけてきました。奈良の押上町までついて来たかと思うと黒雲がおりて来て、大蛇の姿が見えなくなりました。そこで小坊さん達は門に入り、門の戸を閉めてしまいました。それで、そこを雲井坂といいます。また、不明(あけず)の門ともいいます。又、大蛇の霊をなぐさめるために女龍の宮を作ってやりました。このことによってふき畑町を餅飯殿町と呼びました。小坊さん達は無事に帰ることができましたので、春日講というのをつくって、お祈りしました。それから毎年六月四日に町中の人々が水屋川でみそぎをして、春日社へお参りして、翌五日に山上へ登ります。手掻(てがい)町、墨摺町というのは小坊さん達の衣を墨に染めるので、そこに七社の宮というのを作りました。」(原文通り)とある。
 いずれにしても、この町に住む人達が、昔から実直で信仰深い人々であったことを物語っている。それを実証するように、奈良町風土記には、「この町には、役小角や七弁財天をまつり、町内の人々は毎年八月に大峯登山をしている。」と書かれている。
 信仰深いといえば、この町には「大宿所」と呼ばれる所がある。もと興福寺の搭頭(たつちゅう)で、陽成天皇の御代(八八七〜八八五)に遍照僧正が建立されたという「遍照院」があった所で、春日祭礼の渡馬をつないだ所と伝えられる。
 江戸時代には、春日大社の御神領地から選ばれた大和武士(やまとざむらい)達が一ヶ月位前から、この大宿所に宿泊し、精進潔斉して、春日おん祭が無事に拳行されることをお祈り、準備を整えた事から、大宿所という名がうまれたという。
 今も、旧神領地の人達によって結成されている大和武士参謹講の方達が、十二月十五日、ここに参集し、春日大社の権宮司様による大宿所祭に奉仕される。屋内では、渡行の時使用される武具や衣装等が陳列され、庭内には、雉子や山島、兎、塩鮭等、春日若宮祟敬者から奉納された御供が懸け連れられる。昔は鳥類が多く、兎も尾のない鳥(仏教伝来以来、四ツ足ものを食べることが禁じられていたが、兎は尾の無い鳥と呼び、食べることを許されていた。数えるのも、一匹・二匹ではなく、一羽・二羽と数えられていた。)と呼ばれていたので、これ等を懸鳥(かけどり)と今も言われているが、この頃は鳥類が少なくなって塩鮭が殆どになっている。
 懸け鳥に今年は鮭が多かりき
 という俳句を作ったのは平成四年のことである。この年あたりから、おん祭のお下がりには毎年塩鮭を頂戴するようになった。
 境内では「御湯立(みゆだて)神事も行われる。御湯立は巫女(みこ)さんが、大釜で煮立ったお湯を笹の枝で周囲にふりそそぎ、鈴をならしておはらいをする行事で、このしぶきを受けると、一年間無病息災で暮せるとか、妊婦は安産すると言われ、御湯立に集る人も多い。商店街の人達による「のっぺ汁」のふるまいもあり、大宿所は一日中大変な賑わいを見せる。
 大宿所祭湯立湯立の請願かな
 熊笹をもちて御湯撒く湯立巫女
 神の花御湯もて清めおん祭
 大宿所のっぺ炊きだし炊きだして
 大宿所祭の伝承童歌
 遍昭行こ万衆行こうよおん祭
 青首を垂れて縣鳥吊される
 大宿所祭にお参りした時の拙句である。おん祭の童歌とは、「遍昭(せんじょ)行こう 万衆(まんじょ)行こう遍昭の道には何がある 尾のある鳥と尾のない鳥(兎)と遍昭行こう万衆行こう。」
 遍昭院へ行こうよ、皆で行こう、遍昭院への道には鳥や兎の縣島もならんでいるよ。さあ遍昭院へ行こう皆で行こう。といった意味で、遍昭院と呼ばれていた時代にも縣鳥が並び、大宿所祭が行われていたことをしのばせる。
 おん祭が近くなると、毎日、この童謡がもちいどのセンター街に流され、通行人は、もう年の暮れに近いのだなと感慨を覚える。
 橋本町と光明院町の一部を含むもちいどのセンター街は、昭和三十年県下で初めてアーケードが設けられ、同四十四年には通路がカラー舗装になる等、今でも奈良では屈指の商店街であるが、私が東向北町にあった幼稚園へ通うのに毎日通っていた餅飯殿は繁華街であると同時に、夢の町の感じだった。同じ繁華街でも東向通りは近代的なせいか、陳列が子供の目線より高いので、大人の街という感じなのに対し、餅飯殿は老舗が軒をつらねているせいで軒が低目なのか、子供の目にもよく映るように商品が並べられていた。
 当時子供の間で流行していた、おくれ毛止めに花や蝶を付けたピン等を覗きこんだり、何か面白そうな物はないかと玩具屋さんを覗いたりしながら歩いたものだ。
 昔は「ぼんさん」と呼ばれて住込みで働いてくれていた若い社員達の中で、定年後も私達の運転手をしてくれている者が言うには、「私の若い頃は餅飯殿や東向へ配達に行くのは、開店前の早朝位しかカサの高い砂糖や飴を運ぶ事が出来ませんでしたが、盆や正月に里帰りする前に、土産物や着て帰る服等を買いに行く時は、文字通りヨソ行きの感じで嬉しかったものです。」とのことである。私達が知っている範囲でも納涼大会や歳末大売出しや季節毎の催事等があったが、昔はもっと華やかだったようだ。
 亡き叔母がよく言っていたのに次のような話がある。
 私の母が家へ嫁入りしてきたのは大正時代の初めだった。大阪と奈良を結ぶ大阪電気軌道kk(近畿日本鉄道の前身)が開通したのは大正四年のことだから、その頃の餅飯殿は奈良県随一の繁華街だったのだろう。従って時季に応じていろいろなイベントがおこなわれたようだ。
 当時は「お家はん」とか「ごしんぞさん」と呼ばれるようないわゆる奥さん達は、全く家の奥にいて、呉服屋さんや雑貨屋さん小間物屋さん等は、得意先の好みを見はからって大きな箱に詰めたものを背負って得意廻りをするセールスマンのような人をかかえていて、適当に廻って来られるし、食物や小物は女中さんや丁稚さんが買いに行くので、殆ど買い物に出ることがなかったということだ。ある時、嫁入りして間もない母のところへ、大和高田から妹(叔母)が遊びに来た。その時、餅飯殿商店街では、大売出しをしていて、その呼びものとして元林院の芸妓さん達が仮装して買物客にまじって歩いてるので、それを見つけて(商店会の事務所かどこかわからないが)指定の場所へ連れて行って確認されると、早い者から順番に賞品が貰えるというので、鳴りもの入りの大評判だった。
 数え年十九才で嫁入りしてきた母は妹にせがまれるまま、まだあまり行ったことがなかった餅飯殿へ行ったようだ。案の定、大変な賑わいで、人ごみにもまれながら歩いていると、突然「見つけた。」と大きな声がして、どこにとキョロキョロしていると、自分達がつかまって周囲が大騒ぎになったそうだ。もちろん「違います、違います。」と言ってのがれようとしたが、つかまえた人は放さない。周りの人達も面白半分にはやし立てるが、嫁入りしてきてから、あまり外出していないので、顔見知りの人もその場にはいない。沢山の人達に押されるように指定の場所まで連れて行かれてやっと違うということが実証されて、ホッとしたと言うことだ。
 今だと考えられないようなたわいのない話だが、母が末っ子の私を産んで満一年目の誕生日に数え年三十才で死んで、私は実母の顔も知らないので、叔母は私に母の思出を語る時、よくこの話をした。「芸妓さんが変装して」と言うと、どんな変わった姿をしていたのだろうと思うが、当時は、束髪や洋髪を結う人もあっただろうが、主に日本髪を結っていたようだ。
 日本髪には、未婚、既婚、職業等によって髪型が異なっていて、(私もよく知らないので間違っているかも知れないが)娘時代は「桃割(ももわれ)花嫁さんは文金高島田、結婚すると丸髷(まるまげ)それも新婚の頃は大丸髷、年をとるに従って、前髪や 鬢.(びん・両脇の毛)や髷(まげ)髱(たぼ・関西では、つとと呼んだ後髪)のふくらみを少なくして小じんまりと結い上げる。芸妓さん達は、島田でも根を低くしたつぶし島田や銀杏返しに結っていたように思う。
 だから、変装と言っても、あえて奇をてらわなくても、丸まげに結って、あまり粋ではない素人風の着付けをすれば、却って目立たない立派な変装になる訳だ、だから、嫁入りしてきたばかりであまり顔見知りの人がいない母が間違えられたのだろうと、その話を聞く度に、困惑した姉妹の姿と、餅飯殿町の活気に溢れた賑わいを思い浮かべてほほえましい思いがしたものだ。
 現在も、もちいどのセンター街にはギャラリーを備えた陶器屋さん、美味しい和菓子屋さんや蒲鉾屋さん、シックな美術品や気の利いた小物を並べたお店等、永年の常連さんに支持されている老舗が多い。もちろん、お洒落なブティックや近代的なスポーツ用品店もあり、週末にはショッピングを楽しむ若い人の姿も目に付く。幅広い年齢層の方にとって、今でも魅力的な親しみやすい商店街である。