第127回(2005年11月号掲載
彼岸会の話と、
平城外京六坊通り―6
下御門町・光明院町
【お彼岸の話】
 秋彼岸のある日、奈良町のユニークな報道機関である「どっとFM」から「お彼岸の話」をするよう頼まれたので、改めて彼岸について考えた。彼岸は、二十四節気(太陽年を、太陽の黄径に従って二十四等分して、季節を表す語。立春・雨水・啓蟄・春分・清明・穀雨・立夏・小満・芒種・夏至・小暑・大暑・立秋・処暑・白露・秋分・寒露・霜降・立冬・小雪・大雪・冬至・小寒という中国伝来の語)のなかの、春分の日を中日として一週間が春彼岸、秋分を中日とした一週間が秋彼岸である。
「暑さ寒さも彼岸まで」と言われるように、冬から春へ、夏から秋へと文字通り季節の分かれ目にもあたる。秋分・春分の日は、太陽が真東から出て真西に沈み昼と夜の長さが、ほぼ等しいと言われる。
 仏教では、人間は、東方の浄瑠璃光世界の教主である薬師瑠璃光如来に見護られて、この世に誕生し、この世(此岸・しがん)で精一杯働き、修業して、やがて、西方にある阿弥陀如来がみそなわす浄土世界(彼岸)へ迎えられるという。彼岸すなわちかなたの岸は、煩悩や輪廻を乗り切った悟りの地で、迷いの世界である此岸から彼岸に達しられるよう六波羅蜜の修業をするときであると、お坊さんはおっしゃる。
 六波羅蜜とは、1.布施(財施・法施・真理を教えること無畏施・恐怖を徐き安心を与えること)2.持戒(戒律を守ること)3.忍辱(苦難に耐えること)4.精進(たゆまず仏道を実践すること)5.禅定(瞑想により精神を統一させること)6.智慧(真理を見きわめ、悟りを完成させる智慧を身につけること)等の修業をすることが、彼岸の本当の意味なのだろうが、我々在家の凡人は、西の空を華やかに染めて真西に沈む夕日を見て、亡き先祖がいるであろう阿弥陀如来がしろしめる浄土、やがて自分達も還って行く国に思いを馳せる。
 そしてお寺の彼岸会にお参りして法話を聞いたり、墓参りをする。私の家では毎年、元興寺で行われる彼岸会にお参りし、午后、十輪院にある先祖の墓に参る。今はお中日が休日なので、お中日に墓参りをする人が多いようだが、私が子供の頃は、「お彼岸の墓参りは、結願(最終の日)の日にはするものではない。『ご先祖様がお彼岸は一週間もあるのに最後の日にしか来られなかったのか。』と嘆かれる。」とよく言って、早めにお墓参りをしていた。仏壇にはおはぎをお祀りする。昔、国語の先生が、日本語には季節感があることを話されるのに、「日本人は、春の彼岸にお供えする牡丹餅を、秋の彼岸にはおはぎをと言うように、言葉も季節によって使い分けます。」と言われた。すると、私達生徒は一せいに、「先生、おはぎと牡丹餅は違います。」と大声をあげた。「どちらもあんこ餅でしょう。どう違うのですか。」と先生が聞かれたので、「牡丹餅は、蒸した餅米を搗いた、いわゆる餅にあんこをくるんだもの、おはぎは、もち米とうる米とをまぜて炊いたものを一寸粒が残る位につぶしたものを握って、小豆あんや黄粉等でくるんだものです。」と言うと、先生は、「へぇー、私は田舎で育ったので、同じものかと思っていたら、さすが奈良ですね。昔からのしきたりが残っているんですね。」とおっしゃった。私達は、この先生に親近感を覚え、それまでより、更に尊敬したものだった。後に自分が仏様に供えるおはぎを作るようになって、ふと、「私は田舎で育ったから。」と言われた言葉を思い出した。  
 お餅だと、一臼搗くだけでも三升位の餅米を搗かなければならない。餅米を蒸すせいろや、臼、きね等道具も用意しなければならない。昔は田舎だと、季節毎に餅搗きをされたので、手近に道具も出てたのであろうけれど、お正月しか餅を搗かない土地では大変だ。おはぎだと、すり鉢ででも半つぶし(こぼれ萩のようにご飯粒が少しに残る位につぶせとよく言われた。)に出来るので家庭でも手軽に作れるから、お盆やお彼岸にはおはぎを供えるようになったのかな、と思った。
 一九四八年に制定された「国民の祝日に関する法律」では、春分の日は、「自然をたたえ、生物をいつくしむ日」。秋分の日は、「先祖をうやまい、亡くなった人々をしのぶ日」とされているそうだ。
 西に沈む太陽を見て、弥陀の西方浄土を観じ、日本の祖霊崇拝と結びついて、先祖供養や墓参りをする習慣となった彼岸は日本独自のものらしいが、私がかつてマヤ文明にあこがれて、メキシコのユカタン半島にある。チェチェン・イッアーのククルカンのピラミッドを訪れたのは丁度春分の日であった。
 それまで廻ったマヤの遺跡は人も少なく、ひっそりしていたのに、このピラミッドの前の広場はたいへんな人出で、出店が出ていたり、臨時に組まれた舞台の上では民族衣装の人達が歌ったり踊ったりしている。しかし人々は舞台を見るより半年に一度、春分の日と秋分の日に舞い降りるという。マヤ族の人達が尊敬するククルカン(羽毛の蛇)を拝するのに、見やすい場所に敷物を敷いたり、場所とりに必死だ。午后四時頃になると、アトラクションをしていた舞台では踏子達は退場して羽毛の蛇の説明に代る。
 太陽が西に傾くにつれて、石段のギザギザの影と、石段の登り口にある蛇の頭の彫刻がピタリと一致すると、一斉に歓声があがりシャッターが切られる。(マヤ人は礼拝し、シャッターを切っているのは観光客達だろう。)千年以上も前に、春分の日と、秋分の日に、自分達が信仰するククルカンが舞い降りてくるように見える位置と方向を正確に計算して建設したトルテカ・マヤの人達に敬意を表した。お彼岸という行事はなくても、真東から日が昇り真西に日が沈む春分・秋分の日は、なにか人々の心に畏敬の念をおこさせるものがあるのだろう。
 秋彼岸語るローカルラジオにて
 牡丹餅と違うおはぎや秋彼岸
 
此の間元興寺の彼岸会にお参りすると、最近木材の研究家から聞いて、住職さんもびっくりされたという話をして下さった。
 元興寺極楽坊の本堂の内陣の四隅には円柱があり、円柱と円柱の間には二本の角間柱が等間隔に立っている。私は今まで、極楽坊は智光様や禮光様が住んでおられた僧坊だったのを、禮光様が亡くなられてから、智光様が夢で極楽浄土へ行って禮光様に会われて悟りを開かれ、夢で見た極楽の様子を描いた極楽曼陀羅をおまつりするために、僧坊を改装して内陣を造るために、丸柱の間に角間柱を立てられたので、丸柱の方が立派な柱なのだろうと思っていた。
 ところが、住職さんが言われるには、「この角柱は四方柾といってどの面を見ても真直ぐ柾目が通っています。このような柱をとろうと思うと、この柱の十六倍もの直径のある大木からしかとれないそうです。つまり大木の中心の十六分の一でこの柱が出来ている貴重なものだと言うことです。丸柱は大きな木を四分の一にして、それを丸く削って作られたので、角柱はあの立派な丸柱より、材木を贅沢に使って作られているのです。又、講堂の南側の丸柱で東から三番目の柱の中ほどに、うなぎがうねっているようなふくらみが見つかりました。これは、三千年位前に大嵐でもまれた木が、それから千五百年位たって、立派な大木に育って、柱になった時、昔のねじれが表面に出てきたのだそうです。」と言うことであった。
 講堂へ行って、南側の廊下に面したその柱を見ると、成る程、中ほどに絞ったようなふくらみが、三千年位前の受難を物語っている。そう言えば、数十年前、伊勢湾台風だったか、強い台風があって、うちの柳生の山の木が谷ぞいに沢山倒れた。谷の側は、岩の上の土が浅いので、根おきして倒れているので、折れてはいないのだが、材木屋さんは、台風で倒れた木は、見たところ傷はなくても、風でもまれているので、良い材木にはならないと言っておられたのを思い出した。しかし嵐に耐えて立っていた木は、長い年月をかけてその痛みを包み込み、立派に成長したものだなと感心した。これは人生にも言えるのではないだろうか。お彼岸らしい良い勉強をさせて頂いたと思う。

【下御門町】
 今年の八月は終戦から六十年の記念の年だったので、戦争の思い出話になったり、少し寄り道をしたが、京終から北へ向かっていた旧六坊通りに戻る。
 下御門町は、元興寺の西北大門があった所西南大門を高御門と呼び、西北大門を下御門というのは、その地形の高低からついた呼び名であろう。下御門町の南角の東側には、むかし大きな呉服問屋があった。今は、その風格のある建物をいかして、「江戸川」というクラシックなお食事処になっている。蔵などもつかって奈良町らしい風情を出しているので観光客にも人気がある。
 その筋向かい辺りに、「楽」というカレーハウスがある。「楽」を経営しておられる的場庸子さんは、このマイ奈良に毎月「キッチンガーデン」をかいておられる。料理から家事萬端に素晴らしいセンスと知識の持主である。その的場さんが、十年程前、友人とインドへ行かれた時、体調を崩されたそうだ。旅行中なので辛抱してスリランカへ着いた時は、かなり弱っておられたようだ。勝手のわからない国で病気にかかって心細く思っていると、日本通の坊さんがいると聞いて訪ねられたのが、マヒンダ社会福祉センター理事長のシロガマ・ヴィマラ師のところであった。ヴィマラは、一九七二年大乗仏教を学ぶため、元興寺の先々代住職辻村泰圓師を頼って来日、辻村家の世話で高野山大学を卒業、四度加行を成満・受戒・伝法潅頂を受け、大僧都の位を授けられて(今は大僧正)帰国、ランムトゥガラ大寺院の住職であると同時に、各種の社会福祉や教育にたずさわっている。こんな経歴の持ち主なので、的場さんが奈良から来たと言うと、元興寺は知ってるか、増尾を知っているか、とかいろいろ話しがはずんだが、寺には女の人を泊めることは出来ないので、信徒総代のリサナヤカ家へ連れて行って懇々と彼女の世話を頼んでくれたそうだ。リサナヤカさん一家は親切にもてなして下さったので、的場さんもすっかり体調を回復し、元気に帰国されて、私の家へも挨拶に来て下さった。人情に篤く義理固い的場さんはそれからもスリランカの人達と交誼を深め、リサナヤカさんのお嬢さん達が日本で勉強するため奈良へ来られると、自宅に泊まらせて面倒を見ておられた。そうしたご縁で、もともと器用な的場さんは、すっかり本場カレーのコツを身につけられ、カレーハウスを営んでおられる。
 下御門商店街は、古いお店や新しく改装された店が立ち並んで人通りも多く賑やかに繁盛している。かつてこの町に深井という深さ八米もあるという井戸があった。水質が良いので、昔は近所の人達が代り番こに水をくみに来る程皆に大切にされた井戸だったらしいが、水道の普及にともなって、井戸は埋められ、井戸枠になっていた石は、元興寺極楽坊の弁財天の社のそばに移されて保存されている。以前は、猿田彦命を祀る榎本神社が会所で祀られていた。その後、深井の上に祀られていたが、深井が埋められたのでお菓子の老舗の鶴谷徳満さんの先代、高橋福治郎氏に預られた。信教の篤い高橋家で丁重にお祀りされていたが、今は「なかよし」の中村さんが預かられてお祀りされているそうだ。

【光明院町】
 ここには昔、興福寺の別院、光明院が建っていたので、この町名になったという。光明院は、室町時代の末頃の天文元年(一五三二)の土一揆で焼けて、その後、民家になっていったようだ。今は町内の東西の通りに面しては、お医者さんや信用金庫・税理士事務所などが並ぶ静かで明るい町だが、南北の通りは、下御門商店街・もちいどのセンター街に、はさまっているので、どこで町名が変わるのかわからない程、一体化して活気に満ちている。