第126回(2004年10月号掲載
「語り継がれた
大和ゆかりの女性たち」
と蓮糸曼陀羅考
 徳融寺さんの「おとなの寺子屋」で、吉田伊佐夫先生の「語り継がれた大和ゆかりの女性たち」と題するお話があった。吉田先生は、月刊大和路「ならら」に二年近く前から表題の女性たちについて連載しておられるが、その中から、なら町ゆかりの方達のお話をしてくださった。

【采女の話】
『猿沢池の月』と、奈良八景の一つにあげられる猿沢池の東岸に、帝の寵愛が薄れたのを嘆いた采女が、着ていた衣を脱いで、岸の柳にかけて入水した伝えられる衣掛け柳があります。
 奈良の都から葛城王(光明皇后の異父兄で後の左大臣、橘諸兄)が、東北巡察使として、陸奥国安積(むつのくにあさか)の里に行かれた時、美しくて賢い春姫という娘を連れて帰って、采女として宮中に仕えさせた。容姿端麗な春姫は帝のお目にとまり、寵愛を受けたが、しだいに帝の寵愛がうすれたのを嘆いた采女(春姫)が、仲秋の名月の夜、猿沢池の池畔の柳に脱いだ衣を掛けて入水自殺したと伝えられる。今も猿沢池の南東端に、何代目かの衣掛柳が哀話を物語っている。帝も采女をあわれと思い召し
「猿沢の池もつらしな わぎもこが
   玉藻かつかば 水ぞひまなし」
 とお詠みになって、池の北西に祠を建てて采女の霊を祀られたが、祭神の采女が、身を投げた池を見るにしのびないと、一夜のうちに後向きになったと伝えられ、神社は鳥居に背を向けてたっている。一方、采女の出身地である安積の里(福島県郡山市)の方では、采女(春姫)が故郷に言い交わした恋人があったので、柳に衣を掛けて入水したように装って、苦労して故郷にたどり着いたが、恋人は失意のあまり井戸に身を投げて死んでいたので、彼女も、その井戸で入水自殺したと伝えられている。いずれにしても哀れな話である。
 近くにある興福寺国宝館のなかでも人気の高い阿修羅像は、采女の一人がモデルだったのだろうという説があります。地方豪族の姉妹や娘で、容姿端麗な美人が各地から貢ぎ出されてきた采女たちには、宮廷の華やかな生活の中にも、遠く離れた故郷を思う悲しみや憂いが、阿修羅像の表情の中に偲ばれると先生はおっしゃる。

【お琴さんとベルツ博士】
 衣掛柳からほど近い五十二段の下にあった、古美術写真店、精華堂、工藤利三郎の養女お琴は、評判の美人であった。明治の半ば過ぎ、可憐な少女の巡礼が精華堂の前で鈴を振った。絵に描いたような可愛らしい巡礼に、子供のない工藤が声をかけけると、お琴は淡路島の生まれであるとわかった。
徳島出身の工藤は、故郷に近い淡路島出身の少女に情を移したのであろう。お琴は望まれて工藤の養女となった。お琴は成長するに従って、増々その麗質に磨きがかかって評判の小町娘となった。
 ドイツ人医師で東大で医学の指導にあたり、ドイツ医学を日本に伝えた功労者、ベルツ博士(一般にはベルツ水でも名を知られている。)が、明治三十七年、仏像写真を買うため精華堂を訪れた時、お琴に会って、有名な「ベルツ日記」に次のように記している。
 「奈良はどうも美人に好かれる土地らしい。二十になる写真師の一人娘は非常に美しく、自分もすでにその噂を聞いていた。」
 お琴はきゃしゃで、ほっそりとした姿が美しいだけに、腺病質的なところもあったらしく、博士は親に頼まれてお琴の診察をし、お琴はお礼に琴を弾いたり、奈良の案内をしたりしたそうだ。
 ベルツ博士や會津八一まで、舌を巻く程の美人であったお琴は、八十才まで生きたが、一生独身で、写真屋の娘で、いろいろと写真があった筈なのに、自分や養父の写真は一枚も残さず処分してしまって、今では面影を偲ぶことが出来ないのは残念だ。たぐい稀な麗質に恵まれながら、孤独で淋しく生涯を閉じたであろう佳人にどんな事情があったのだろう。

【高林寺の今中将姫 寿保尼による復活】
 高林寺は奈良時代、聖武天皇の御代に右大臣をつとめられた藤原豊成卿の屋敷跡に建てられた寺である。豊成卿の姫が有名な中将姫で、世の無常を悟り十七才で当麻寺に入って出家されるまで、修道に励まれた旧跡だ。出家して法如尼となられた中将姫は、蓮糸で当麻曼陀羅を織り上げ、念仏信仰をひろめ、御年二十九才で、二十五菩薩に導かれて阿弥陀如来の浄土に迎えられたと伝えられている。
 藤原南家の統領である豊成卿が亡くなられた時、この地に葬り(境内にある古墳)、周囲に松・柏等の常緑樹を林のように植えて一寺を建立し、藤原南家の常盤木のような弥栄を祈って「高林寺」と名付け、豊成公と中将姫をお祀りしたお寺だ。
 時代と共に高林寺にも変遷があり、豊成卿廟塔は不動だが、四百年程前の安土桃山時代には、元興寺塔頭の一院「高坊」となり、数寄者(連歌師・茶人・歌人・医者の竹田一族)等が、ここに住んで茶の湯等を楽しみ、奈良町に於ける文化人達のサロンのような存在になった。
 今から約二百年前の文化年間、高林寺は三度目の蘇(よみがえり)を実現した。
 大阪平野の藤井家に生まれた、後の寿保尼は幼い頃から仏心が篤く、二十歳の頃、実兄である奈良 法徳寺の学僧、良虎和尚のもとで剃髪、修行の後、日頃から思慕する中将姫ゆかりの高林寺に入られた。
 「学徳兼備戒持律に厳しく『今中将姫』と仰がれ、すぐれた弟子二十余名と共に、ここに律院(戒律の修行による寺)としての高林寺が創かれた。」と、豊成山 高林寺小史に記されている。寿保尼によって高林寺は、開創当時の三論・法相宗から、真言浄土兼行を経て、融通念仏宗となった。寿保尼を中興初代として、現在は十世 稲葉慶信尼が、住職を務めておられる。
(余談ではあるが、この慶信尼が晋山の折、慶信尼をはじめ、沢山のお坊様方、信徒総代、献茶・献香・献花奉仕ををされる方達が、威儀を正して、私の家から出発して、高林寺まで華麗なお渡り行列をして山門に入り、荘重な晋山式を挙行されたのは、忘れ難い思い出だ。
 九世の珠慶尼は、長年の風雨に耐えて傷んでいた本堂を大修理し、庫裏を再建し、高坊一族を顕彰する茶室「高坊」を永島福太郎博士の考証によって建立された。大般若経六百巻を納入して、毎年、転読法要を営まれたり、度々、法会を開いて人々の心を善導される等、今中将姫のような感がある。もちろん、現住職 慶信尼の協力があってのことで、師弟相和しての聖業である。)
 吉田先生も「珠慶尼は、今中将姫の現代版ですな。」と、褒めておられた。

【中将姫ゆかりの高林寺で、
蓮糸まんだらに思いをめぐらす珠慶尼】
 吉田先生の中将姫の話の時、高林寺の稲葉珠慶尼が、蓮糸にまつわる話をされた。
 高林寺は門前の石柱に「中将姫修道霊場 豊成卿古墳の地」とあるように、中将姫のお父様、聖武天皇の御代に右大臣を務められた藤原豊成卿の邸宅跡に建てられた。そのご住職をしておられた珠慶尼は、かねてから、当麻寺にある、中将姫が蓮の糸で織られたと伝えられる浄土曼陀羅は寓話であって、あんなに細い蓮糸が織りにかかる筈がないから絹糸だろうとか、中国で織られたものではないかとの説が出てくるのに、心を痛めておられた。
 泥土より生じて泥土に染まらず、清らかで美しい蓮は、仏様の蓮台(台座)にもなり、極楽浄土には、青・黄・赤・白の光を放つ蓮が咲く蓮池があって、現世で善い業をした善男善女は、その蓮から生まれる(蓮華化生)と無量寿経に説かれている程の聖植物なので、中将姫が織られたとする浄土曼陀羅には、全部でないまでも、必ず、蓮の糸が使われていると信じておられたからだ。信じながらも、その一方、蓮を切った時、細々と引くあの頼りなさそうな糸を、どうして使われたのだろうと、疑問に思っておられたようだ。
 話は少し外れるが、一九九三年に発行された「季刊 銀花」の第九十六号に、「祖先の霊を厚くもてなす人々」と題して、私の家の盂蘭盆会の行事や仕来たりを、写真入りで詳しく掲載してくださった。奈良町だったら、どこの家でもやっていることなのに、おこがましいと思ったが、毎月の月参りやお盆などにお参りに来てくださる、十輪院様や高林寺様などに、その本をお届けした。その本には、「蓮糸まんだら」と題して、須藤美和子さんの蓮糸刺繍の記事が載っていた。蓮の茎から引き出される蜘蛛の糸のような、か細い蓮糸の写真を見て、私はなんと「気の遠くなりそうな繊細な聖業をされる方もあるものだなあ」と、感心しただけだったが、中将姫をお祀りする高林寺の稲葉珠慶師は電気に打たれたように、ハッとされたそうだ。
 あの夢のようにはかなく美しい糸を使って、実際に刺繍をされている方があるのだったら、当麻曼陀羅にも蓮糸が使われていたのではないかと、暗闇に光明を見いだしたような思いだったのだろう。さっそく「銀花」の編集部へ問い合わされたが「本人の承認がないと。」となかなか教えて頂けなかったそうだが、何度もの折衝の結果、お会い出来た須藤さんは、気さくな方で、蓮糸が取り持つ縁で遭遇した珠慶尼とは、すぐ意気投合されて、その後、高林寺の法要には、わざわざ名古屋からお参りに来られるようになった。私もよくお目にかかるが、温かいおだやかな方で、どこにそんなひたむきな情熱を秘めておられるのだろうと思うのだが、その根気と粘りは素晴らしい。
 須藤さんは、珠慶尼との出合を喜ばれて、紺地に般若心経を金糸で刺繍し、さらに蓮糸で刺した蓮の花びらを二十一枚散らした掛軸を、高林寺の法如尼(中将姫の法名)の御宝前に奉納された。
 採りたての蓮の茎をポキンと折って、左右に引っ張ると、細い細い繊維がスウーッと伸びる。それを縒り合わせると、キラキラと透明だった繊維が、次第に生成り色の柔かでしっとりとした光沢のある糸に変わっていくと須藤さんはおっしゃる。自動車のトランク一杯に積み込んで持って帰った蓮の茎からも、糸はほんの少ししか採れないという。
奉納されたお軸に散らした蓮の花びらが、本物のように、ほんのりと紅色をしているのは、コチニールというサボテンにつく虫を染料にしたものを、筆に糊と共に含ませて、そっと花びらの先におくと、色がすーっと滲み込んで、こんな美しい花びらになるそうだ。
 須藤さんは、その後も精進を重ね、情熱を注いで、数年がかりで、紺地に蓮糸ばかりで刺繍した般若心経を、平成十四年に完成させられた。般若心経一文字づつの下には、蓮の花が一輪づつ蓮台として刺されていて、まさに一字づつが仏様である。これはとりもなおさず菩薩行であり、法如尼が仏様の助けによって、蓮糸曼陀羅を織られたように、菩薩様が須藤さんに手を添えて、刺し上げられたのではないかと思われる程のものである。
 これによって、曼陀羅にも、なんらかの形で蓮糸が使われているだろうと自信を持たれた珠慶尼に、最近、また、朗報がとび込んできた。
 井筒法衣店という法衣屋さんから送られてきた栞に、幻の織物、藕絲織(ぐうしおり 蓮糸で織られた布)の袈裟が出来たということだ。そのパンフレットには、次のように書かれてある。
「仏教において蓮華は、その清浄さによる創造的な生命観を象徴し、図像的にも重要な位置を占めています。その蓮から紡ぎ出された極少量の糸で織りあげる伝説の織物『藕絲織』は、今日では望むこともできない絶望的な衣材として知られてきましたが、ミャンマーのインレイ湖畔の村では、藕絲織は仏教を賞嘆するための特別な布帛として、現在でも受け継がれています。」
 さらに「多くの水草を繁茂させるインレイ湖はミャンマーのほぼ中央、シャン州の高原に細長く横たわる淡水湖である。五月から十月の雨期には藕絲織の材料となる蓮茎が数多く採取される。茎より繊維を引き出すのは、藕絲織の作業工程中、最も劇的な瞬間である。」と書かれている。
 藕絲織の見本の布切れは、須藤さんが使っておられる繊細な蓮糸のみで織り上げたとは思えない位、分厚くしっかりした織物なので、茎の皮も一緒に糸に混ぜたのではないかしら等と、勝手な憶測もしたが、珠慶さんと私が同時に口にしたのは、「そう言えば、私達が子供の頃食べていた蓮根は、もっと糸を引いたね。」という言葉であった。
 今は改良されたのか、蓮根も歯切れよく、サックリしているが、昔は、噛んで引っ張ると、糸を引いて、切れた糸が唇にひっかかったりしたものだった。それも、六〜七十年前の話だから、千二百年以上も昔の、しかも蓮根じゃなくて茎だったら、もっと丈夫な糸が採れたかも知れない。そう言えば、五十年近く前、元興寺中興の祖の泰円和尚と初めてタイへ行った時、空港から都心に向かう道の両側の側溝には、見事に紅白の蓮の花が咲いていた。さすがに仏教王国だなと感心して「蓮の花の手入れは市でしていらっしゃるのですか。国でされているのですか。」と聞くと、ガイドさんは「あれはひとり生えですよ。」と答えた。
「蓮根は食べないんですか。」と聞くと「あれは誰が掘っても勝手ですけど、あんなの堅くて食べる人はありませんよ。」と言った。
 タイも中国人がかなりおられるし、中国料理には蓮根も使うのだけれど、やはり野生の蓮の根は堅いのかなと思ったことがあるのを思いだした。蓮根が堅いと言えば、茎の繊維もしっかりしているのではないだろうか等と、想像は拡がって話が盛り上がった。
 珠慶師の話は、聴衆に感動と、美しく清らかな夢を与えて大好評のうちに終わった。