第125回(2005年09月号掲載
戦時下の暮しと
文化財保護
【空襲と疎開】
 昭和二十年(一九四五)早春頃からは、東京、大阪など、大都市の空襲が始まり、本土決戦の危険性もささやかれていた。奈良には、歩兵三十八連隊があるとはいうものの、あまり軍需工場もないから、空襲などやってこないと思っていた。しかし、前年の秋には天理市朝和に近畿航空隊大和基地が出来るし、大阪空襲の折りには焼け焦げた紙や布が生駒山を越えて飛んできたりしたので、奈良の住民の身辺にも危機感が拡がってきた。大阪で罹災した人達や、危険を避けて疎開してくる人達で、奈良の空家はたちまちふさがり、空き部屋のありそうな家へは、伝手(つて)を求めて部屋を借りに来られた。私の家でも、住み込みで働いていた店の者や女中達が招集を受けて入隊したり、徴用されて軍需工場へ行ったりしたので、空いた部屋へ、罹災した遠縁の人が七〜八人引っ越してこられた。その方達の話を聞くと「生活必需品が何もかも焼けてしまったら大変だ。」と不安になって、私達も衣類や道具等、最小限のものを、田舎の親戚に預かってもらうことになった。ガソリンは民需にまわって来ないので、トラック等は使えないから、大八車に積んで運んで貰った。初夏頃には私達も山添村へ疎開した。その当時でさえ、百年位昔に分家した人の曾孫にあたる私達を、親切にもてなしてくれた親戚や近所の人達のあたたかなもてなしを、今でも感謝している。
 疎開は人や物だけでなかった。人の住んでいる部屋から離れた所に建っている空家や納屋などは、焼夷弾が落ちても気が付かないうちに、ご近所に燃え広がる恐れがあるので、あまり必要のないものは取り壊すようにとのお達しがあった。鰻の寝床のように奥へ長い私の家の奥には、小さな家庭菜園をはさんで、かなり大きな建物が建っていた。安政元年、奈良町に店を開いていた我が家の初代が、明治四十年頃、敷地の一番奥に隠居室を建てて、母屋(おもや)の離れ座敷との間にある空地で花でも作って、のんびり暮そうと思って、山育ちの人らしく、材木を吟味して好みの部屋を建てさせていたようだ。しかし、八分通り出来上がって、まだ障子や襖等の建具も入らないうちに病気になって、夫婦相次いで死んでしまったので、その後は仕上げられないまま、私が物心ついた頃には、物置になってしまっていた。こんな所へ焼夷弾が落ちたら、母屋に住む人間が気付かない内に、地続きのご近所に燃え広がってご迷惑をかけては申し訳ないので、人に頼んで壊してもらうことになった。埃だらけの汚い納屋だと思って壊しかけた人達が、意外に良い材木が使われているのにびっくりして「勿体なくないですか。」と言われたが、万一、空襲にあった時のことを考えると、そんなことを言っておられない。壊し終わって廃材が積み上げられた頃、終戦になった。
 戦争が終わったからといって、物不足がたちまち解決する訳ではなく、燃料が無いので、家の風呂は焚けず、風呂屋さんは隔日位でしか営業なさらないので、営業日は芋の子を洗うような大混雑だった。私の家では、裏の家を壊した廃材があったおかげで、毎日風呂を焚くことが出来て、高林寺のおじゅっさん一家や近所の方が入りに来られて、たあいのない話に花を咲かせたり、楽しい時間を過ごすことが出来た。折角、隠居部屋を建てかけておられたご先祖様には申し訳ないが、おかげで燃料が充分出回るまで、毎日お風呂に入ることが出来た。これも先祖のご慈愛だったのだろうと感謝している。

【国宝や文化財の疎開】
 日本人の心の故里 大和路の風景や、仏様の誓願を形に表した崇高な仏像の秀麗なお姿を、全国に写真で紹介された入江泰吉先生が、著書「大和路遍歴」に次のように記しておられる。
「東大寺の三月堂を拝観しようとして、石段を登りつめ、一息いれながら何気なく二月堂の裏参道辺に目をやると、異様な行列がそろそろとこちらに向かって進んでくるのであった。よく見ると、うす汚れた青色の詰襟服にゲートルを巻いた一行は、四つの担架を担いでいて、その担架には白布でくるまれた人間らしい姿が横たわっていた。一瞬息をのんだが、近づいてくるのを見ると、人間の姿よりはるかに大きく、やっと、それは三月堂の仏像だと、気づいた。四天王が、疎開先の山城のさる山寺から帰ってきたのであった。担いでいるのは囚人達であった。(『奈良県の百年』では、奈良市内山間部の円成寺と正暦寺に預けられたことになっている。)
 うす暗い三月堂礼堂の床に、白布にくるまれたまま寝かされた四体の御仏の姿はいたましかった。戦禍は、仏の世界にも及んでいたのである。堂内の詰所で、さきの行列に付き添っていた監視員と、堂守との話を聞くともなく聞いているうちに、私は愕然とした。
『アメリカ軍が、京都や奈良を爆撃しなかったのは、そこにある仏教関係の古美術が欲しかったからで、おそらくこの仏さまたちも持ち帰るに違いないだろう。無条件降伏ということらしいから、仕方あるまい。』(中略)実に意外な話であり、信じられないと思いながらも、事実であるかも知れないという思いの方が強まっていった。そうだとすれば大変なことである。私にとって、心のよりどころとする大切なものであるばかりではなく、わが民族にとっても貴重な文化遺産である。
 私は動転しながらも、その時ふと『そうだ、自分はカメラマンではないか。せめて写真に記録しておこう。いや、すべきである。』と意を決したのである。」
 こうして一念発起された先生は、大阪在住時から愛用しておられた撮影機材に加えて、仏像彫刻のように鮮鋭で繊細な、きわめてすぐれた造形性を、克明に表明できる大型カメラや照明器具を求めて、大阪の闇市を探し回り、機材のもの足らない分は腕とセンスでカバーして、撮影を始められたようだ。 おかげで私達は、最も荘厳で美しい角度から撮られた仏像のお姿や、開発の波にさらされない大和路の風景を懐かしく手近に見ることが出来るのは有難いことだ。
 これを読んで、ハッとして恥ずかしく思ったのは、戦争末期の頃は、自分達の家族や身近な人達の、イザという場合の避難や疎開のことで精一杯で、大切な文化財を、どう護っておられるかということまで、思いが至らなかったことだった。
 改めて「奈良市史」や山川出版社発行の「奈良県の百年」等を読んでみると、正倉院と帝室奈良博物館の宝物を、空襲の際に保管する防空地下壕を作るとか、奈良市法蓮町にあった旧関西線のトンネルに防湿装置をほどこして保管しようとか、色々の案があったようだ。おまけに東京博物館からも館蔵品中の最優秀作品三百点が奈良へ保管を依頼されてきた。帝室 奈良博物館の地下倉庫は東京から送られてきた宝物で、半分詰まってしまったので、各寺院から預かっていた文化財はお寺に返還されたそうだ。
 東大寺、興福寺、薬師寺などの国宝が、帯解の円照寺、大柳生の円成寺、五ヶ谷の正暦寺、大宇陀の大蔵寺に疎開されたようだ。法隆寺の仏像は柳生の佃家の蔵に預けられたというから、随分立派な土蔵だったのだろう。法華寺では、空襲警報の度ごとに、尼僧さん達が、ご本尊を担架で防空壕に運ぶ準備をしておられたようだ。
「昭和十七年から社寺の金属回収が開始されて、三月には法隆寺西円堂の青銅大香炉六十余貫が、十一月には大仏殿の銅幡四個(三百貫)が供出された。県ではいそいで、臨時に調査員を依嘱して、重要美術品を残そうとしたが、この間に鋳つぶされたものも多かったという。
 また昭和十八年三月より、各社寺境内の松・桧・樫などが、造船用材として切り出されたり、樹脂の採取が命じられた。大仏殿参道の松や、奈良公園の松も、伐採の危険にさらされたのである。」と「奈良県の百年」に記されている。
 その頃は、切り倒されていなくても、松根油を採るために、幹に斜めに深く何本も傷をつけられた松の姿がいたいたしかった。
 戦争中、私達は物が不自由だとか、主人や家族が戦場に狩り出されて心配だとか、自分のまわりの苦労ばかり考えていたが、諸人の心のよりどころである、社寺を護る神官や僧侶の方々、古い歴史を持つ国宝や重要文化財を保管する方達のご苦労も、大変なことだったのだなと改めて思った。二度と戦争などに巻き込まれることのないように、恒久の平和を祈るものである。