第124回(2005年08月号掲載
終戦の日は永遠の平和への
出発の日―貧しいながらも
助け合った、戦時下の暮し
 今年は、明治三十七・八年戦争とも呼ばれる日露戦争が、明治三十八年(一九○五)八月十日より、アメリカのポーツマスで開かれた講和会議が、難航の末決着し、九月五日に日露講和条約(ポーツマス条約)が締結され、平和を取り戻してから百年。日中戦争が拡大し、やがてアメリカやイギリスまで巻き込んだ太平洋戦争となり、昭和二十年(一九四五)八月十五日、戦争が詔勅の玉音放送によって終結し、幕を閉じてから六十年という記念すべき年である。
 六十年といえば、十干十二支が同一になる、いわゆる還暦であるから、終戦の年も、乙酉(きのととり)年だったのだなぁと、感慨深いものがある。
 私が子供の頃、お年寄り達が、日清戦争(明治二十七・八年)や、日露戦争の話をしておられると、「なんと古い、カビの生えたような話を……」と思っていたが、今から思うと、終戦の年に生まれた赤ちゃんでも還暦を迎えられるのだから、戦時の苦労や不自由さを知る人が少なくなって行く折り柄、記憶をたどって書き記し、平和に感謝して、二度と不幸な戦争に巻き込まれないよう、決意を固めたいものだと思う。といっても、「広島や長崎のように原爆を受けたり、空襲を受けた都市と違って、おかげで空襲をまぬがれた奈良に住んでいて、なにが戦争の苦労なの。」とお叱りを受けそうだが、それは、それなりの苦労としてお許し頂きたい。
 この前、音声館で、当時の館長 荒井敦子先生が、集まった人達に「三月十三日は何の日だったか知ってますか。」と聞かれた。おそらく春日祭(申祭ともいう。)のお話をされるのだろうと思って「春日祭です。」と答えようとすると、私の後の席の方が「大阪大空襲の日です。」と言われた。その方の話によると、三月十日に東京が大空襲を受け、その三日後の十三日に大阪が空襲された。その方は、引越しした先でも焼かれ、また、引っ越しした先でも空襲で焼かれ、三度も被災されたそうだ。
 そういえば、終戦の年の早春の頃、朝起きると、庭先の松や槙の木に半分焼けた新聞や紙がひっかかっていて、苔の上には燃殻のような物がいっぱい落ちているので、びっくりしたことがあった。まだ、肌寒い頃だったから、きっと近所で焚火でもしたのだろうと思っていた。それから公園に行くと、驚いたことに、芝生一面に焼け焦げた書類のようなものや、諸々の焼け焦げが散らばっていて、沢山の人が呆然とした面持ちで立っておられた。「この紙くずはどうしたのですか。」と聞くと「大阪が大空襲で炎上し、その火災で生じた風に乗って燃えかすが飛んできたのだ。」という。大阪は、当時の電車だと小一時間もかかる遠い所、まして途中には生駒山系のかなり高い山があるのに、それを飛び超えて、この膨大な量の紙くずが飛んで来たということに先ずびっくりした。この想像を絶する猛火のなかを逃げまどい、亡くなられたり、怪我をされたであろう人達のことを思って慄然とした。また、無事に逃げられた方達も、戦時下の物不足の折に焼け出されたら、あとの生活が大変だろうと、暗たんとした気持になったことを思い出す。
 かくして、話が本来の春日祭に戻るのに、かなり時間を要したが、改めて戦時下のことを思い出すキッカケになった。
 日中戦争は、昭和六年(一九三一)九月十八日、奉天(今の瀋陽)北方の柳条湖での鉄道爆破事件によって始まった。この鉄道というのは、一九○五年のポーツマス条約により、清国の承認も得て、ロシアから移譲された権益に基づいて設立された日本の半官半民の会社である南満州鉄道会社、いわゆる満鉄が経営するものであった。これを契機として、我が国と中国の間の武力衝突は中国東北部全域に拡大した。翌、昭和七年には、清朝の最後の皇帝、宣統帝であった、愛新覚羅溥儀(あいしんかくらふぎ)氏を皇帝として満州国が設立された。新聞も雑誌も奉祝記事を書き立てるし、ラジオも一斉に建国の慶びを報道された。私は子供だったから「少女倶楽部」などの慶賀のカラー写真を見て、素直に喜んでいた。一九一二年の辛亥革命によって清朝が倒され、中華民国となったために廃帝となった宣統帝が、中国の東北部だけで小さくなったとは言うものの、皇帝として返り咲かれたのだから、大人たちもきっと、結構なことだと思っていたのではないだろうか。国土の狭い日本から、国土が広大で人手の足りない満州国に行って、明るい新天地を築こうと希望に燃えていたのかも知れない。
 私が小学生の頃だったか、満州国の皇帝が日本を訪れられた時、奈良へも来られて、大人も子供も三条通に並んで、日本と満州国の小旗を振って送迎し、夜は奈良ホテルの周囲で提灯行列をして歓迎したことを覚えている。
 国際事情をよく知らされていなかった一般国民は素直に喜んでいたが、中国の人達にとっては、国土を侵害されたという不満がつのっていたのであろう。
 遂に昭和十二年(一九三七)夜、盧溝橋(北京の南郊)事件が起こった。この事件を発端として、七月末には日本軍は華北で総攻撃を開始、八月には戦火が上海までおよび、十二月には首都南京を攻略して占領し、それで戦争は終結するかと思われた。しかし、中国は首都を重慶に移して抗戦したので、戦争は長期化することになった。
 一方、国内では、あいつぐ戦勝の報道に湧き、ことに南京陥落のニュースには、旗行列や提灯行列が出る騒ぎだったが、その反面「赤紙」と呼ばれる召集令状が来て、働き盛りの一家の大黒柱が戦場に狩り出されたり、生活物資が不足する等、戦争の暗い影が生活にしのび寄って来た。
 昭和十三年(一九三八)四月には「国家総動員法」が発令されて、政府が、資金、資材、労務、賃金、施設など、一切の経済活動を統制・動員出来るようにした。
 経済統制が強化されて、輸入物資はすべて軍需と輸出用に振り向けられ、民需用綿製品は姿を消した。
 衣料切符が発行されて、配給された切符のなかから、例えば、タオル一枚切符三点分とか、靴下は五点(点数は忘れてしまったのでいいかげんだが。)とか、お金だけでなく、切符も持って行かなければ買えなくなった。嫁入り前の娘さんを持つ家では、あまり衣料を必要としない人達にお願いして切符をゆずって貰ったり、苦労されたようだ。それも、民需に綿が廻って来ない為、スフ(ステープル・ファイバーの略)という人工繊維の製品が出廻ったが、洗濯すると縮んだり、弱かったりするので評判が悪く、「純綿」という言葉が良い物の代名詞(例えば白米のご飯を「純綿のご飯」等というように使っていた。)となり、「スフ」というと不良品を意味するようになった。
 米や砂糖、木炭、マッチまで切符制になって、生活は不自由になったが、「欲しがりません勝つまではZ」とか、「ぜいたくは敵だ。」とか言って意気軒高たるものがあった。その頃、一般市民は侵略戦争だなどと思わないで、大東亜の人達が、ひいては世界中の人々が、皆幸福な暮しが出来るようになるための聖戦だと信じていたからだ。
 八百屋さんや魚屋さんから魚や野菜が姿を消して、がらんとした店先に、松茸だけが、大きな籠に山盛り並べて売られていたことがあった。「すき焼や鍋物にするにも、肉や魚がないので、松茸が売れない。」ということであった。私は松茸を沢山買ってきて佃煮にして保存したが、その醤油も配給なので心細いことであった。松茸を佃煮にするなんて、今から思えば贅沢な話だが、他に何もなくて、松茸だけが並んでいるって、不思議な光景であった。
 戦争末期には、ますます物資が不足して、食物が手に入らなくなったので、人々は野山に出て、山菜やツクシ、野ビル、タンポポ、イタドリ等、野草を摘んだり、タニシや川エビ等、食べられるものを探しに行くようになった。昔は捨てていた大根や人参の葉っぱやサツマイモの葉柄なども工夫して料理すると、以外に美味しいものだった。
 こうして生活がだんだん苦しくなる一方、住民達の心に希望の灯火を与えていたのは、紀元二千六百年の奉祝事業であった。昭和十五年は、神武天皇が橿原宮で即位されてから(皇紀)二千六百年に当たるというので、奉祝会が結成され、橿原神宮境域並びに畝傍山東北陵参道の拡張整備、国史舘の造営などが行われることになった。といっても、奉仕に行く私達には、いま土を運んでいる所が、将来何になるか全くわからない状態だ。ブルドーザーやダンプも使えない時代だから、モッコや手押しのクルマで土砂を運んだり、地ならししたりする仕事に、建国奉仕団として、昭和十三年位から十四年松頃まで、何度も参加した。献木のために植樹する木を、荷車に積んで奈良から橿原まで曳いて行ったこともあった。馴れない力仕事で大変だったけれど、紀元二千六百年になったら、何か良いことがある、といった希望に燃えていた。
 期待したように、その年には戦争は終わらなかったけれど、この間、久しぶりに橿原神宮にお参りしたら、木々は、悠久の昔から、そこにあったように枝葉を茂らせ、白砂は清らかに、神域には荘厳の気が満ちて、この聖域の整備に、たとえ僅かな土でも運ばせて頂くことに参加できたのは、得難い時に生を受けたものだと、あらためて感謝した。
 昭和十六年(一九四四)十二月八日、真珠湾攻撃によって太平洋戦争に突入してからは、ますます生活が逼迫していった。男子は若い人だけでなく、四十代、五十代の人でも招集を受けて戦地に赴くことになって、千人針(千人の女の人に糸を一くくりづつ結んで貰って、千人の念力によって弾よけにするというおまじない。)を持って町に立つ女の人の姿が増えた。
 従来、在学中は徴兵延期されていたのだか、主人が大学を卒業する時は、修学年限を六ヶ月短縮されて、卒業予定の前年の九月に繰り上げ卒業して、兵隊検査を受けるようになった。
 主人が徴兵検査を受けたところ、心臓が悪いというので、翌年まわしになり、特別幹部候補生を志願して入隊したのは、終戦の年(昭和二十年)の一月だった。入隊したのは、香川県の豊浜にあった船舶幹部候補生隊だった。瀬戸内海で訓練を受けて、船の操縦や技術を学び、最後は一人乗りのマルレと呼ばれる船に、片道だけの燃料を積んで出動し、敵の船に体当たりする船舶特攻隊だったそうだ。
 厳しい訓練を受けているうちに、主人はひどい蕁麻疹と癰疽をおこして、三島の陸軍病院に入院した。船舶というと海軍のように思われるが、陸軍にも船舶隊があったのだ。
 さすが軍隊で、癰疽の手術をするのも麻酔無しでやるので、目の玉が飛び出しそうな位痛かったそうだが、入院している間は見舞いということで面会が許されるので、私は一ヶ月足らずの入院中に、三回、四国まで見舞いに行った。平時と違って食物がないので、旅館に泊まって病院に行く訳にはいかず、その都度、奈良まで帰って弁当や食料を持って出直さなければならなかったのだ。その汽車の切符を求めるのも容易なことではない。さいわい、友人が国鉄に勤めていたので、なんとか切符は手に入れることができた。でも、乗るつもりの列車が突然、軍用列車に変わると、次は何時間、待たなければならないかわからない。長い間待って乗った列車は、ギュウギュウの寿司詰で、片足をうっかり上げたら、下ろすことが出来なくて、片足で立ってなければならないような状態だった。しかも四国に渡る宇高連絡船は、グラマン戦闘機に狙われて、機銃掃射を受けたり、沈没させられたりしているので、そんなに度々行くのは危ないと、止められたが、主人も出動したら生命は無いだろうし、どちらが先に死んでも「倶会一処(くえいっしょ)」で、阿弥陀仏の浄土で会いましょう、という気持だった。
 ある時、陸軍病院の前へ、やっとたどりついたと思ったら、空襲警報が出た。空襲警報が出ると規則で陸軍病院の門は閉ざされて面会が出来なくなってしまう。しかたなく向かいの民家の軒下にたたずんでいると、間もなくB29の編隊が飛んできて、近くの町(新居浜)に焼夷弾を投下しはじめた。焼夷弾は火の箭のように町に降りそそぎ、町が燃え上がる。呆然と立ち尽くしている私に気づかれた将校さんが衛兵さんに「あんな所に立っていると、機銃掃射を受けては危ないから、病院内に入れてあげなさい。」と言って下さった。衛兵さんは門扉を細めにあけて入れて下さった。
 軍律きびしい内にも、流れる人情が一層有難く感じられた。
 また、ある時はこんなこともあった。始発からバスに乗った私は幸い座れたが、バス停にとまる度に乗り込んでくる人達でみるみる満員になってしまった。そこへ赤ちゃんを抱いたお母さんが人の間にもぐり込むように乗り込んでこられた。赤ちゃんは走り出したバスの内で火のつくように泣きはじめた。人に押されるのも泣く原因だろうが、お母さんは周りの人に気を使って「バスが予定よりだいぶ遅れたものですから、この子おなかが空いているんです。私はお乳の出が少ないし、ミルクの持ち合わせもありませんので……。すみません。すみません。」とお母さんも泣きそうな顔をして周囲の人にあやまっておられる。
 その時、私は乳飲み子を祖母や母に預けて面会に来ているので、乳がはっていた。まして、赤ちゃんの泣き声を聞くと、ますます乳がはって、こぼれそうになってくる。満員バスの内でお乳を上げるのはためらわれたが、声もかれんばかりに泣き叫ぶ赤ちゃんの声に、思わず「よかったらお乳を差し上げましょうか。」と声をかけた。お母さんはびっくりしたように私の風体を見ておられたが、「すみませんが、飲ませてやって頂けるでしょうか。」と遠慮がちに言われた。
 少し離れているので、二、三人の人が手を貸して、赤ちゃんを私の所までおくってこられた。お母さんは掌を合わせて拝むようにしておられる。赤ちゃんは余程おなかが空いていたのだろう。乳を近づけるとむさぼるように吸い付いて、ゴクゴクと飲んで、やがてスヤスヤと眠ってしまった。お母さんが抱きましょうか、と言うように手を伸ばされたが「私、座っていますから、どちらかが降りるまで抱いています。」と言うと、何度も礼を言って、やがて降りるバス停が近づくと、両手を合わせて合掌してから抱いて降りて行かれた。男の子か女の子かも分からなかったけれど、今もフッと、あの赤ちゃん元気に成人し幸せに暮らしているかな、と思うことがある。なにしろ平和で、物があふれているような今の時代には想像もつかないことだが。物が不自由でも、心が豊かな時代だったのではないかと思う。
 主人は元気になって軍隊に復帰してから、野外訓練中、飯盒でご飯の用意をしていると、近所の寺へ疎開して来ている学童達が、おなかをすかせて、うらやましそうな顔をして眺めているので、つい自分が食べるのを減らして子供たちにわけて上げたら、喜んで「兵隊さん、兵隊さん。」と呼んでいた声が、今も忘れられないと言っている。
 もう一ヶ月も戦争が続いていたら、敵艦に体当たりして散華していたのだろうけれど、八月十五日、終戦したおかげで、九月の中頃には復員して帰ってきた。
 徴兵が翌年回しになった原因の心臓の薬は今も飲み続けているが、満八十三才になった今も、元気に働かせて頂いていることに感謝している。あらためて、戦争で散っていった人達に対する哀悼の意を表し、心よりご冥福をお祈りすると共に、恒久の平和を願わずにはいられない。