第123回(2005年07月号掲載
平城外京六坊通り―5
 伝承が豊かな町では、
商業も盛ん
 はつか大師と呼ばれる西光院の前を通り過ぎて、高御門のなだらかな坂を登り詰めたところから、うしろを振り返ると、薬研(やげん)に似たと言われる、ゆるやかな勾配の道の両側に、鳴川や東木辻の情緒ある家並や、由緒あり気なお寺の甍(いらか)が見える。この間、この通りを歩いていたら、観光客らしい人達が「道に迷ってコースから外れたと思っていたけれど、この辺もお寺が多く、しっとりとした良い町やね。」と言いながら歩いておられた。このなんとなく人の心をとらえる風情の原因に、中将姫伝説もあると思う。

【中将姫と白雪姫】
 先日、徳融寺の阿波谷住職さんが、ジャーナリストで、菊池寛賞、日本推理作家協会賞、新潮学芸賞を受賞した作家でもある徳岡孝夫先生が書かれた「徳融寺物語 中将姫を想像する」という小冊子と「菩提寺と白雪姫」と題する随筆を持ってきてくださった。徳融寺は、徳岡先生の母方の菩提寺で、先生のお母さんは二十七才という若さで亡くなられて、そのお墓も徳融寺にあるので、子どもの頃から、年に何回も、お父さんとお祖母さんに兄妹三人が連れられて、お墓参りに来られたそうだ。
 先生は「妻すなわち私どもの母に死なれた後、父は再婚することなく、実に四十三年の長い年月を不自由な男やもめを貫いて死んだ。」と書いておられる。その原因として「我が家は年に何回も奈良の徳融寺に亡母の墓参に行った。そのたび、父は『豊成公』と彫った碑を見たはずである。イヤでも中将姫の身の上を思う。むごたらしい継子いじめのシーンが目に浮ぶ。無心に境内で鬼ごっこをしている私達を見やり、父は『ああ、この子らを継子にして、つらい目に遭わすまい。』と決心したのではなかろうか。」と記しておられる。そして「子どもの身の丈もない一箇の宝篋塔(ほうきょうとう)が煩悩を抱いて生きる人間に科した重いタブー。われわれは気づかないが、お寺や石塔は人の運命を変えるのである。」と述べておられる。
 中将姫のお父様の藤原豊成公(慶雲元年/七○四〜天平神護元年/七六五)は、聖武天皇の御代に右大臣を勤めた実在の人物だが、その娘とされる才色兼備の中将姫は、なかば伝説上の人物と言われ、実在を確認されていないが、きっと、天聞に達する程の賢く美しい姫がおられたのだろう。人権問題をあまりやかましく言わなかった戦前頃までは、芝居、浄瑠璃、子供たちの紙芝居にまで、中将姫の物語が演じられていたので、継子いじめというと、中将姫を連想する程、有名な話であった。

 徳岡先生は「継母と美しい娘、きびしい折檻、森に捨てる、長い時を経て発見……日本の説話にしては、道具立てがどことなく西洋的ではないか。父親が森へ狩に行くのも、まるでグリム童話に出て来る話のようで、どうも日本的ではないようである。このバタ臭さはどこから来るのか?日本が遣唐使によって大陸と交流していた頃、こちら側の都 奈良には元興寺があり、その地域は今日の奈良町の広い部分を占めていた。遣唐使に択ばれた者は、元興寺で(南都七大寺で、ではないだろうか。)語学、その他の勉強をし、帰るとまず元興寺に戻って復命した。つまり寺は、仏教や唐の文化を取り入れる基地としての役割を担っていた。」と記しておられる。そして、遣唐使たちが向こうの側の都、長安で見聞したのは、唐の文物や仏教の経典だけではなかった。遣唐使は多くの仏典や異国情緒豊かな文物と共に、オリエントやアラビアあたりの物語群も伝えたのだろうと述べておられる。
 これを読むと、シルクロードのトルコへ辺りに今も残るキャラバンサライ(隊商宿)が目に浮かぶ。キャラバン達はテントなどで野営することも多かっただろうが、国や場所によっては、その国の政府や王侯貴族、豪商などのワクフ(寄進財産)によって建てられたり、都市のバザールに隣接して建てられたサライ(宿)に泊まって心身を休めることもあった。ことに絹の道と香料の道との十字路に当たるトルコでは、隊商が盛んになると納められる通行税も多くなるので、歴代の王は、キャラバンサライの整備に力を尽くしていた。こうした配慮のおかげで、キャラバン仲間の共通語はトルコ語で、キャラバン達はたいてい四、五ヶ国語は話せたが、トルコ語だけはどの人も全部上手に話せたそうだ。
 キャラバン達は広い中庭に駱駝をつなぎ、夏は涼しい柱廊でカーペットを敷いてゴロ寝をしたり、冬は奥の大きな室で何組もが泊まったそうだが、どちらにも仕切りの壁はないので(キャラバンは一隊が三十人位なので、柱から柱までの間が一隊分になっていたそうだが、互いに行きき出来たようだ。)互いに通ってきた国の話をして、情報を得ていたようだから、その土地の伝説や民話も広く語りつがれたのだろう。
 グリム(一七八六〜一八五九)の作品というと、十九世紀頃と思ってしまうが、グリムによって童話がまとめられたのは、かなり時代が下ってからで、その原形となる民話は、キャラバンサライで語り継がれて、ヨーロッパから日本まで、延々と拡がっていったのだろう。
 白雪姫の話の原形となった民話は、古くからヨーロッパ全域、ソ連、ギリシャ、トルコなどに分布していたと辞書にもある。
 子どものなかった女王が、雪の上に落ちた三滴の血を見て、雪のように色が白く、血のように唇が赤く、黒檀の窓枠のように髪の毛の黒い可愛い女の子がほしいと願う。希望通りの美しい姫が生まれるが、間もなく実母の女王は死に、継母が来る。継母は姫の美しさをねたみ、狩人に姫を森で殺せと命じる。姫はあやうく難を逃れ、山の小人の小屋にかくまわれる。魔法の鏡との会話でそれを知った継母は、行商人に変装して山小屋へ行き、一度目は紐で、二度目は櫛で姫を殺すが、小人達が生きかえらせる。三度目に毒のリンゴで殺すと、こんどは小人達の力では生きかえらせなくて、泣く泣くガラスの棺に入れる。森へ狩に来た王子が姫の美しさにひかれて抱き上げると、のどに詰まっていた毒のリンゴがとれて姫は生き返り、王子と姫は人々に祝福されて結婚するという筋書きだが、なるほど、よく似ている。
 徳岡先生はさらに「古代、奈良の西、日の沈む方向にある二上山は、冥界への入口とされた。その頃、大謀叛事件の犯人として捕らえられ、罪なくして処刑された大津皇子(六六三〜六八六)の遺骸は、二上山に移葬されたといわれる。
中将姫が、大津皇子という王子様ゆかりの二上山の美しい姿を、日ごとに拝める当麻寺に入ったところまで、共通点の中に入れてしまえるかも知れない。」と述べておられる。しかし、白雪姫の継母が、姫を殺すように命じて森に捨てさせたにかかわらず、姫が生きている事がわかると、何度も自ら出向いて殺しに行ったというしつこさと、信仰によって清らかな心を持っておられたと言うものの中将姫の淡泊な清らかさに、伝説にも、狩猟民族の末裔の粘りっこさと、農耕民族の裔の淡泊さを感じる。
 御伽草子に書かれた「鉢かづき姫」も、シンデレラ(灰かぶり姫)の趣向を取り入れた民話だと言われるが、このように、シルクロードを通ってやって来て日本化した民話の主人公の時代や素性がはっきりしないのに、中将姫だけは、奈良時代、聖武天皇の御代に右大臣を務めた藤原豊成公の姫と、はっきり語り継がれ、そのゆかりのお寺が、高林寺・誕生寺・徳融寺・安養寺と、奈良町に四ヶ寺、山に捨てられたという雲雀山(和歌山県橋本市)に一ヶ寺、蓮糸で浄土曼荼羅を織り上げて極楽往生された当麻寺と、六ヶ寺もある。継子いじめの話は作り話としても、豊成右大臣家に清らかに美しく賢いお姫さまがおられて、信仰心が篤く、佛門に入られた方がいらっしゃったのではないかと思われる。
 正倉院の御物のなかに、遠くヨーロッパからもたらされたと思われるアルカリ石灰ガラス、ササン朝ペルシャの金属工芸品やガラス、染物、アフガニスタンのラビスラズリ、イランのトルコ石、中央アジアの花氈(かせん)、中国や東南アジアはもちろん、古代の日本には、鎖国時代には考えられなかったような、おおらかさと、自由な人や物の交流と共に、文化の流入もあって、こうした物語が出来たのだろう。

【問屋町として賑わった高御門町・脇戸町】
 平城時代の高御門に、元興寺の西南大門があったように、岩城先生の「元興寺の歴史」の中の伽藍配置図によると、脇戸町の辺りには、中大門があったようだ。山田熊夫先生の奈良町風土記には「高御門と下御門の間に小門があったので脇戸という言うようになった。」とある。そこで、元興寺の辻村泰善師に、岩城先生と山田先生の本を持って行って「脇戸町の辺りにあったのは、中大門でしょうか、西北大門と西南大門の間にあった脇戸(小門)でしょうか。」と聞きに行った。泰善和尚は「礎石などは、まだ発掘されていませんので、はっきりどことは言えませんが、伽藍配置から見て、脇戸町辺りに中大門があったのでしょう。焼け落ちてから大門は再建されず、おそらく脇戸になってしまったのでしょう。」とおっしゃった。なるほど、千年に余る年月の中には、色々な変遷があったのだと納得した。
 高御門町や脇戸町は、江戸時代辺りから、問屋町として栄えていたようだ。戦前までは、かなりその面影を残していたが、戦争中に売るものがないまま、しもた屋(仕舞うた屋から転じて商売をやめた家)が増えていたが、この頃、奈良町を訪れてくださる方が増えたせいか、商いを再開される家もあって賑わってきたのは、有難いことだと思っている。
 江戸時代から手広く木綿問屋を営んでおられた白井家を守っておられる、私の先輩でもある白井さんが、昔の町並をしのんで描いてくださった図を参考に書いてみる。
 西光院の前を通って坂を登りつめた西側には、土谷呉服店があって、呉服の小売や地方販売をしておられた。その隣が南都銀行に勤めておられた鈴木さん、何軒かおいて守田漆器の工場、白井さんの木綿問屋、松山歯科医院、脇戸町に入って、絹や木綿の問屋をしておられた関商店、中村家具店、時計、メガネの松原ニコニコ堂。なかにしという和菓子屋さんは、昔は末広餅といって、餅や餅菓子を主にしておられたが、今の当主の代になってから、奈良町らしい和菓子を次々考案されて、屋号も「なかにし」と改め、意欲的に美味しく風情あるお菓子作りに取り組んでおられる。大矢洋服店、ミヤサ模型店、提燈や傘のえざき商店、伊丹七という呉服店、関商店の番頭をされていた中村さん、川口さんという方達も、衣類の販売をしておられたそうだ。
 高御門の東側の角には山本ブリキ店、冨久一といううどん屋さん、上杉さんという下駄屋さんと思っていたら、白井さんに聞くと、手広く商う履物問屋さんだったそうだ。青丹よしを作っておられた増井さん、高田金物店、呉服問屋の二塚商店、その隣が坪内さんという運送屋で、昔は馬を飼って、近所の問屋の荷物を馬車で運んでおられたそうだ。戦後、坪内さんの娘さんが、店の奥で山村流の舞踊の先生をしておられたので、私も習いに行っていたことがあるが、その頃はトラックだったので、馬車で運んでおられたとは知らなかった。(もっとも、昔は私の家でも、砂糖を牛車で運んでいたのだから。)脇戸町に入って、藤野仏壇店、三欣寿司店と続き、みすか呉服店があった。みすか(和田さん)は、今の呉服店のように、ウインドウに商品を並べるのではなく、番頭さんや店の人達が、それぞれのお得意先の好みや年齢に合いそうな反物を通い箱に入れて、一反風呂敷にくるんで、背負い得意先廻りをしておられた。当時の奥さん達は、あまり出歩いていると「奥様じゃない、外様だ。」と陰口をきかれるので、あまり外出しなかった。日常の細かいものは女中や小僧に使いにやり、着物や服、雑貨など、好みに合わせて買う物は、こうして家に持って来て貰って買っていた。
 反物などをひろげながら、おしゃべりも楽しんでいるので、呉服屋さんが来られたら、ザッと半日仕事だった。それにしても、あまり電話などで予約もなしに訪ねて来られるのに、無駄足が無い位、祖母などは、いつも家にいたものだった。(今の私だったら、まあ無理だろう。)
 昔、木辻の遊廓が盛んな頃は、カフェーも二、三軒あって、夕方、私達が学校から帰ってくる頃には、綺麗に化粧した女給さんが、和服の上に、フリルのついた白いエプロン(洋風のエプロンみたいだった。)をかけて、表へ立ったりしていたものだったが、今は、どの辺だったかもよくわからない。したがって、おうどん屋さんや飲食店もよく繁盛していたようだ。

【最近の高御門町・脇戸町】
 以上が白井さんに書いて頂いたメモを頼りに、昔の問屋町の様子を記したものだが、この頃は、往時とは一味違った賑わいを見せている。昔はお伊勢参りや長谷詣のついでに奈良や上方見物をしようといった人達で賑わった、上街道沿いの奈良町も、汽車や電車が出来てからは、寺社や公園を訪れる方は多くても、奈良町に来てくださる方はだんだん少なくなって、しもた家の多い、静かな町になってしまった。
 二十年位前から、地元の人達が、せっかく古い伝統や昔の風情を残した奈良町の良さを知って頂きたいと努力をはじめ、十年程前から、奈良市も奈良町の振興に力を入れてくださった。おかげで、奈良町を訪れる方が増え「はじめて来た町なのに、なんだか懐かしい思いがする町ですね。」と、いってくださるようになった。
 そうした風潮の中で、平成十二年、脇戸町に、鉄筋二階建てでありながら、古い町並に溶け込むようにマッチした白い建物が完成した。流麗な、かな書の第一人者で、文化勲章を受章された杉岡華邨先生から、奈良市が作品の寄贈を受けたのを機に建設された「奈良市杉岡華邨書道美術館」である。華邨先生の作品の保存・公開をはじめ、企画展覧会や講座を通じて、書芸術と市民文化の振興を目指して、活躍しておられる。私のように字が下手で、書道に全く関心のない者でも、思わず見とれる程、流麗優美な作品が展示されている。
 その隣には奈良市資料保存館があって、版画や古い資料を公開しておられる。この間行ったら「近代奈良観光事始め」という、観光名所を相撲の番付風に並べたものがあった。前に、行先生に、江戸で作られたという「諸国廓番付」を見せて頂いたことがあったが、昔はよく、番付風に表現したものだなと思う。
 両館の向かいには「あしびの郷」がある。以前は「あしび屋本舗」として奈良漬屋さんだったのだが、この頃は庭や蔵も開放して、蔵でしっとり落ち着いて食事をしたり、ガーデンパーティができるようになっている。生駒山の夕焼が美しく見渡せるので、ここで音声館のメンバーによる「良弁杉」のミュージカルが催されて感動したことがある。各種の漬物を取り揃えた、お手軽な漬物定食もあるし、結婚披露宴などもしておられるようだ。
 少し北へ行ったところには「つる由」という小粋な料理屋さんも出来て、奈良町散策の憩の場となっている。しばらく休業しておられた三欣のお寿司屋さんも再開さた。白井さんは骨董などを展示して、町に風情を添えてくださっているし、二塚さんは、呉服や小物を売るだけでなく、和服に詳しくない若い人たちに、着物の良さや着付けまで指導しておられる。住んでいる方たちの努力によって、活気のある町になっている。

【難読な町名 阿字万字町の由来】
 脇戸町の北側を通る広い通りを左(西)へ行くと、奈良のむつかしい(読みにくい)町名の一つと言われる阿字万字町(あぜまめちょう)がある。梵字のの字は、諸字の本源とされる。「阿字は一切言語の根源にして衆字の母なり。凡そ最初に口を聞く音、皆阿の声あり。故に衆声の母となす。内外の諸教皆この字より出生す。」と弘法大師は教えておられる。弘法大師が、阿字万字の秘符をこの地に納められたので、地名になったと伝えられる。阿の梵字を万字書くと悟りが開けるとも聞いたことがある。また、一説には、城戸町と脇戸町を結ぶ畦道に、大豆(畦豆)を植えていたので、町名になったとも言われる。いずれにしても、奈良らしい珍しい地名だ。