第122回(2005年06月号掲載
平城外京六坊通り―4
中将姫・はつか大師・陰陽道
…伝承が色濃く漂う界隈
 東木辻町の東側の北隣に、三棟町と呼ばれる由緒ありげな、こぢんまりとした町がある。町名の由来は、天平時代、聖武天皇の御代に右大臣をつとめられた藤原豊成公のお屋敷がこの地にあり、館(やかた)が三棟であったからと伝えられる。右大臣という要職にある方だから、官邸あるいは本邸は平城京の近くにあったのだろうが、静養のための別邸だったのだろう。豊成公と言ってもピンとこない方も、当麻寺で阿弥陀如来と観音菩薩の化身された尼と女人の指導によって蓮糸で極楽曼陀羅を織り上げ、二十五菩薩に導かれて阿弥陀如来の浄土、極楽に迎えられた中将姫のお父様と言えば納得されるだろう。
 中将姫はこの地で産まれられたと伝えられ、その屋敷跡には誕生寺が建っている。この地は元興寺の境内で、釈迦誕生仏を本尊として建立されたお堂が、誕生寺と呼ばれるようになったという説もあるが、一般には、中将姫生誕の地と伝えられている。本堂には、中将姫法如尼の坐像が安置され、寺伝では、宝亀元年(七七○)中将姫の直弟子、好春比丘尼によって開基されたとある。法如尼は中将姫の法名である。
 庭の北方には姫が産まれられた時、産湯を使う水を汲まれたという井戸が残っていて、南方の高台にある極楽堂に祀られている阿弥陀如来のもとへ姫を導くように、可愛らしい二十五菩薩の像が並んでいる。当麻寺のお会式のお練りを連想する情景だが、お練りは大人が大きなお面をかぶって参列されるので、等身大よりひと周りもふた周りも大きい感じの菩薩様方だが、ここは小さな石仏だけに、いかにも仏種を持って生れられた姫の道心を導くお姿に見えて微笑ましい。この諸菩薩像は、中世頃から中将姫の物語が能や芝居になって人口に膾炙(かいしゃ)されるようになったので、。信者さん達が寄進されたものであろう。
 昔、この辺りは元興寺の境内であったと思っていたが、これは私のまったくの私見ではあるが、興福寺と元興寺の境界が率川であったというから、築地之内町の南側を流れてきた飛鳥川が、元興寺の中程から三棟の方へ流れていたので、ひょっとしたら、この飛鳥川の南側になる高林寺から誕生寺にかけて、伝説通り藤原豊成公のお屋敷があったとしても、不思議ではないような気がしてくる。

【鳴川町】
 三棟町を通り抜けた飛鳥川は、もう少し北へ流れ、西に向きを変えた辺りから、鳴川と呼ばれるようになる。
 平安時代初期、元興寺に護名僧正(七五○〜八三四)という名僧がおられた。八○五年、大極殿で最勝王経を講じ、桓武天皇に戒をお授けになった程の法相学の権威であった。この学僧が小塔院で読書をしておられる時、蛙がやかましく鳴き立てて読書を妨げたので、呪文を唱えられると、ピタリと鳴き止んだ。それ以来、蛙が鳴かなくなったので、不鳴川(なかずがわ)と呼んでいたのが、いつの間にか誤って、鳴川と呼ぶようになったと伝えられる。護名僧正は、承和元年(八三四)九月、小塔院で八十五歳の天寿を全うされている。
 この鳴川が流れている(今は暗渠になっているが)周辺を鳴川町と呼んでいる。
 鳴川町もお寺の多い町で、中将姫にゆかりの深い徳融寺、安養寺、鎌倉初期に浄土宗二世、鎮西紹宗国師 聖光上人の開基という聖光寺など、由緒ある古刹が町に風格を添えている。
 そのせいか、昔は(昭和三十年代位までだろうか)八月十一日の夜には、この町でお盆のお供え物や花、お供えを盛るための蓮の葉、お精霊様のお箸や初盆用のはしごを作る苧殻(おがら/麻の皮をはいだ茎)、盆燈籠などを売る精霊市がたって賑わった。買物客で雑踏するなかにも一種の哀感が漂って独特の雰囲気があった。私も毎年お盆の買物に行っていたが、この頃は近くのスーパーででも買われるのか、精霊市もたたなくなってしまった。
 明治五年八月、わが国最初の近代学校制度である学制が発布された。それに基づいて明治六年(一八七三)四月十一日、この鳴川町の徳融寺で「魁化舎」(かいかしゃ)という名前で開校したのが、奈良市立済美小学校の前身である。校区は四十三ヶ町村というので、この村というのに疑問を抱いて地図で調べてみると、範囲は今の校区とあまり変わらないのに、肘塚村、城戸村、木辻村などと書かれているのにびっくりして、百三十年余の時代の移り変わりを実感した。
【追記/徳融寺さんでは、学校制度の発足に寄与された歴史に思いを馳せて、数年前から「大人の寺子屋」を開催しておられます。奇数月の第一土曜日(一月は第二か第三土曜日)の午後二時〜四時に、例えば、今年一月は、清酒 春鹿の今西清悟様の「水のごとくに」。三月は元奈良文化女子大教授 行昭一郎先生の「坂の奈良町あれこれ」、五月は前田訣子先生の「茶かぶき」のお話があり、七月二日には元産経新聞論説委員 吉田伊佐夫先生の「語り継がれた大和ゆかりの女性達」の予定になっております。宗旨に関係なく誰でも聴講できるし、その道の泰斗を招いての興味深い講話ですから、ふるって参加されることを、お薦めします。

【高御門町】(たかみかどちょう)
 元興寺の西南大門のあった所で、西南大門は平城京四条大路に向かって建っていた。しかし、宝徳三年(一四五一)十月十四日、徳政令(租税や賦税を免除し、窮民に物を与えるなどの令)を求めた土一揆による放火で小塔院が炎上し、元興寺の金堂はじめ多くの堂宇が焼け落ちた時、この門も焼失し、その後再建されず、民家が建ってしまったという。
 ちなみにこの火事の時、極楽坊にあった大切な智光曼荼羅(極楽曼荼羅)を疎開させるため、火元から少しでも遠い大乗院に預けられた。ところが、火事って不思議なもので、大乗院は飛び火のために焼失した。今、寺にある曼荼羅は鎌倉時代に模写されたもので、大乗院門跡が預かった責任を感じて、出来るだけ忠実に復元してくださったものだという。しかし、幸いなことに、日本で最初に建った仏教寺院 法興寺の半分を飛鳥から平城京に移築したと伝えられる極楽坊は焼け残り、その名実共に日本最古の仏教寺院の面影を、今に残している。(年輪年代法により、極楽坊に使われている木は、法興寺建立以前に切られた木であることが実証された。)
▼西光院 御本尊のお衣替え
 西光院は、もとは元興寺の子院であったとも、十輪院の隠居寺であったとも言われ、十一面観音がご本尊とされていたようだが、今、この像は奈良国立博物館に預けられている。現在のご本尊は、奈良の三裸仏の一つとして有名なはだか大師様である。
 弘法大師四十二歳のお姿という、若々しいふくよかなお像で、平安時代後期の作と伝えられる。平安時代後期から鎌倉時代にかけては、より写実的にという考え方から、裸形の仏様にお衣を着せるのが流行ったそうだが、現存するものは珍しい。弘法大師は八三五年三月二十一日に入定されたので、普通、弘法大師のご縁日は二十一日とされているが、このお寺では逮夜(たいや/前日)に当たる二十日に法要が営まれるので「はつか大師」とも呼ばれている。
 この二十日にちなんで、去る四月二十日、「弘法大師お衣替御影供」が参列の僧侶二十名余、堂にあふれんばかりの参列者の見守る中で荘重に行われた。
 丁重な読経の後、住職が御影供礼文を読み上げられる。等身大の堂々としたお大師様の像は、数人のお坊さんに奉じられてお厨子から出て、緑色の蚊帳のような布で囲われた内に運び込まれる。読経の声が湧き上がる内で、古いお召し物を脱がせて、丁重にお身拭いをして、下着から順番に新調のものを召されて行く様子が、布を通してほのかに拝察できる。
 黄蘗色(きはだいろろ)のお衣を召して、袈裟をかけられる頃から、経の声は雅楽に代わり堂内がみやびやかな雰囲気になる。最後に白い帽子(お坊さんが衿元にかけておられる白絹の布)をかけて威儀を正されたお大師様は、また、数名のお坊さんにかかえられてお厨子に納まられる。参列の僧侶方のねんごろな読経の内、参列者一同、焼香をさせて頂く。 お衣替えは、通常五年に一回行われるが、今回は前住職の病気や死去によって延引し、前回からは十一年目のお衣替えだという。お衣替えを済まされたお大師様は、晴々とした表情で喜んでおられるように見える。
 十一年前は前住職の和昭和尚(わしょうおしょう)もお元気でよく家に遊びに来られていた。丁度その頃、私達は、高田好胤管長様を導師とする薬師寺一行と印度の八大仏蹟を巡拝して帰って来た直後だった。和昭さんは、なかなかのアイデアマンなので、インドのお土産に差し上げた布を、お釈迦様の出生の地のものだから、何とかお衣替えの際、使えないかと色々な案を出しておられたが、結局、一度だけ異なる事をするのもいけないだろうと、古式にのっとって行われた。
 「住職は祖師に似る。」ということわざがあるが、この和尚さん、ご本尊の弘法大師様にそっくりだった。子が親に似るように、仏弟子も先賢に似てくるのかも知れない。和昭和尚は幼い頃、お父様が戦死されて、お母様が法衣を着て、檀家参りや法務をこなして寺を護り、苦労して子どもさん達を育てられた。和尚が東大寺学園に入学された頃の校長先生は、東大寺の清水公照師だった。公照師は、招集されて軍隊に行っておられた時、和昭さんのお父様の上官だったそうで、幼くして父を失った和昭さんを哀れみ、学校卒業後も、我が子のように可愛がっておられた。私の家は、西光院さんの檀家ではないが、祖母が西光院さんの法会には、よくお参りをして親しくさせて頂いていた。祖母が亡くなってからは、盂蘭盆会などにお参りして頂くだけのお付合になっていた。
 それが、たまたま私が清水公照さんのお宅へ伺った時、西村和尚さんも先生のお宅に来ておられた。帰る時、先生が「増尾さんクルマで来たの?」と聞かれた。「いいえ、今日は出先から歩いて来ました。」と答えると「西村君、君とこ近くやから送って行って上げて。」と頼んでくださったので、和昭和尚さんの車に乗せて頂いた。車の中で和尚さんが「前から聞こうと思ってたんやけど、うちの寺の前に『紫雲山 西光院』という石の碑が建っていて、その側面に『増尾うめ之建』と彫ってあるんですが、うめさんって、どんな関係の方ですか。」と聞かれた。「私の祖母です。」と答えると「へー。じゃあ昔は随分親しくお付き合いしてたんですね。」と言って、それ以来よく訪ねてくださるようになった。
 それからは、公照先生と札所の巡拝をされる度に誘ってくださるので、おかげで私どもも、西国三十三ヶ所、秩父三十四観音、坂東三十三観音、あわせて百観音と、四国八十八ヶ所を巡拝させて頂くことができた。
 ちなみに、薬師寺のご縁で、インドの八大仏蹟や中国各地の仏蹟や法要にお参りさせて頂き、また、元興寺のご縁で、インドネシアのボロブドール、ミャンマーのパガン・バゴダ群、カンボジアのアンコールワットと、世界の三大仏蹟にお参りをすることができたのは、得難い仏縁と、優れた先達様方のおかげと、唯々感謝している。
 話は先住の思い出から少し他へ外れたが、無事にお衣替えが終わって数日して、「諸人病 難除守」として「廿日大師御衣替え切」(前にはつか大師がお召しになっていたお衣を小さく切ったお守り)が届いた。弘法大師様のご仁徳と、前住の思い出のこもったこのお守りを、大切に我が家の仏壇に納めた。

【陰陽町】
 高御門町の中程から、西へ行く細い道がある。今は軽自動車でないと通れないような狭い道だが、平城時代は道幅二十メートル余りあったといわれる四条大路の名残である。この町を、昔住んでいた人達の職業から生まれた町名として、陰陽町(いんようちょう)と呼んでいる。陰陽師(おんみょうじ)が住んでいた町だから付いた名だが、今は漢音で「いんようちょう」と呼び、お年寄りは「いんぎょまち」と呼んでいた。
 山田熊雄先生著の奈良町風土記には「『奈良曝』には吉川若狭、山添越後、同良部、藤本市大夫など十七人の陰陽師が住んでいたとある。現在、わずかに二軒しか残っていないが、両家には古い暦など貴重な資料が保存されている。」と記されている。古くは、高畑方面、幸町などに住んでいた陰陽師をこの地に集めたと伝えられる。
 この町に鳥羽天皇の御代、永久五年(一一一七)に建てられたという鎮宅霊符神社(天御中主神社)がある。天御中主(あめのみなかぬしのかみ)は、広辞苑に「造化三神の元首。天地開びゃくの始、高天ケ原に先ず出現、天の最中に座し、神徳遍満、宇宙を主宰したという神。平田派神道説は、これを無始無終全知全能の造物主とした。他の神々のように、民間信仰の所産ではなく、後世的哲学的な性格をもつ。」とある。こうしたところから、陰陽師の神と仰がれているので、集めたというより、陰陽師の方達が集まって来られたのであろう。
 これを書くにあたって、鎮宅霊符神社にお参りに行くと、神社の扉には「不動の天帝、北極星の心霊であろうとされている。宇宙創造神、又神仏習合説、妙見信仰の神、天下泰平、国家安泰、五穀豊穰、災害を除き、福運を呼ぶ、家、屋敷の安全を守る神」と記した紙が張ってあった。
 先に書いた通り、現済美小学校の前身は、鳴川町の徳融寺で「魁化舎」として発足したが、生徒数が増えたので手ぜまとなり、中辻町にあった旧紀州屋敷跡に移り「中辻小学校」と名を変えた。さらにその小学校は明治三十三年、この陰陽町に移り「済美尋常小学校」となり、校歌も校旗も制定されて学校の体裁を整えた。
 済美小学校は明治四十四年、第二尋常小学校に統合され、大正五年「奈良市立第四小学校」として現在の地に移り、昭和二十二年もとの済美小学校に名を改めて現在に至っている。
 ところで「奈良町風土記」には、「明治四十四年、『奈良市立実科高等女学校』がこの町に設立されたが、大正五年『国立奈良女子高等師範学校付属実科高等女学校』として坊屋敷町に移った」とある。同じ明治四十四年だから、済美小学校の跡へ実科女学校が出来たのだろうか。
 なにしろ陰陽町は、奈良に於ける陰陽道の中心であったり、学校が出来たり、知性の高い土地柄だったのだなと思う。