第121回(2005年05月号掲載
平城外京六坊通り―3
 東木辻
 奈良町は東に春日山や東山山系を控えているので、町全体が、東が高く、西の方へ下っていると思っていたが、この間、行昭一郎先生から「坂の奈良町あれこれ話」というのを聞いて、南北の道にも上がり下りがあるのに改めて気がついた。
 瓦堂町の方からゆるやかに上がってきた道は、昔木辻の交番があった辺りを頂点として、西へは大きく下り、北へはゆるやかな傾斜で下りて、今は暗渠になっている鳴川の辺り(音声館辺り)を底辺として、高御門の方へ上がってゆく。
 行先生は、「洒落気の多い江戸っ子だったら、こんな坂を見たら薬研坂(やげんざか)と呼んだでしょうね。」とおっしゃる。(薬研、主として漢方の薬種を押しくだく舟形のゆるやかな傾斜で真中がくぼんだ器具。軸のついた車輪のようなもので粉末にするようになっている。)そう言えば、昔はよく見かけた薬研を大きくしたような形をしている。

【木辻の歴史】
 このゆるやかな坂道の頂上に近い部分と、そこからT字形に西へ下っている坂道の両側が、全国でも有名な木辻の傾城町があった所である。
 木辻の遊楽町としての歴史は古く、永島福太郎博士は、その著書に、天文二年(一五三三)には、声聞師(しょうもんじ)が経営する女屋が木辻にあったと誌しておられる。声聞師とは、種々の呪術的な職業や芸能に携わった陰陽師(おんみょうじ)系の芸能者で、奈良には、室町時代頃から興福寺に所属する〈五ケ所〉〈十座〉と呼ばれる声聞師の群落があったようだ。声聞師は時代が下るに従って、曲舞(くせまい)や能など芸域を拡げていったと言うから、曲舞(かなり長い叙事的な詞章を鼓にあわせて歌い舞うもの)や、猿楽を見ながら酒食を摂る客の接待や相手をする女達を抱えていたのだろう。まだ戦国時代の話だ。
 安土桃山時代になって、天下は統一され一応戦乱はおさまったが、浪人が世にあふれ、治安や風紀がみだれて女の一人歩きは、危ぶまれるような状態であった。そこで豊臣秀吉は天正十三年(一五八五)、各地にちらばっている私娼を取り締まって公娼制度をもうけて、大阪で初めて遊廓の設置を許可した。
 一方奈良でも、京、大阪に近いため乱世に乗じて出世を夢見て集った人達が、夢破れて浮浪人となって流れ込んで、悪い夜遊びが流行したり、窃盗沙汰や強請(ゆすり)が横行して困っていた。豊臣の世となって、やっと少し落着くかとホッとした所へ、関ヶ原の戦で、関ヶ原浪人崩れが入り込んできて、江戸時代初期の風紀の乱れは、奉行所も手をやく状態だったそうだ。
 そこで、豊臣秀吉に仕えていた虎蔵と竹蔵という二人の奴は義兄弟のように仲が良かったが、秀吉の死後、竹蔵は堀氏の養子となって、堀市兵衛と号して奈良に住み、虎蔵は京都六条三筋町に居を構えていたが、両人力併せて秀吉の公娼集娼にならって、南都木辻に傾城廓の設置を願い出て、寛永六年(一六二九)許可を得て公認の遊廓を創建し、それまで高畑、今辻子、紀寺などにあった好色屋を、風紀上からここに移したと永島先生は『奈良文化の伝流』に誌しておられる。

【世之助が見た奈良・木辻】
 井原西鶴は、好色一代男、巻三の『誓紙のうるし判、奈良木辻町の事』に次のように書いている。上方の富豪の一人息子として生まれた世之助という早熟で希代の好色男が、十七才の時見たとされる木辻やその周辺の様子である。(元禄時代の文豪西鶴が天和二年《一六八二》に執筆したものだが、この頃木辻は非常に繁昌していたようだ。)
 奈良坂や、この度はさらし布調(ぬのととのえ)へて、越中・越前の雪国に夏をしらすべし。商売の道をしらではと、春日の里に秤目(はかりめ)しるよしして、三条通の問丸(といまる)に着きて、けふは若草山のしげりをながめ、暮れてはひかりあるむしの飛火野。いま幾日過て京にかへるも惜しまれ、其比は卯月十二日、十三鐘のむかしをきくに、哀れ今も鹿ころせし人は其科を赦さず、大がきをまわすとや。
(中略、誠に簡潔流暢(りゅうちょう)に奈良の名所をのべている。西鶴は浮世草子作家であると同時に有名な俳人でもあるから、要領よく要点をつかむのは得意であろう。浮世草子といえば、一般民衆向けの大衆小説だろうが、それにしてはむつかしい。昔の人は現代の大人が漫画を読むような感覚で読んでおられたとしたら、教養が高かったのだなと思う。中略して感想を述べているうちに世之助の足は、だんだん木辻に近づいてくる。)
 花園という町すぢを西にいれば、一つわきざし指して鬢つき厚く、いづれ笛・太鼓の一曲なりさうにみえし人、罷出たるは八百八禰宜の子供、諸方の浪人、友噪ぎして、かざえ扇は何しのぶぞかし。あない知人、所自慢して、「爰こそ名にふれし木辻町、北は鳴川と申して、おそらくよね(遊女)の風俗都にはぢぬ撥(ばち)をと、竹隔子(たけごうし)の内に面影見ずにはかへらまじ。」と七左衛門という揚屋に入りて、借るもこころやすく、折節志賀・千とせ・きさなど、盃計りのさし捨、其後、近江といへる女、是からみれば、たしか大阪にて玉の井と申せしが、水の流れも爰にすむ事笑しく、其夜に客なき事をさいはい、口鼻に約束させて、更行迄さしわたし、かしらから物毎しらけてかたりぬ。後略
 ここでは禿(かむろ、遊女の使う十才前後の少女)もいなくて女郎手づからお燗をするとか、小座敷の腰張の紙には、君命、われは思へど等、(あしからぬ手にて、とあるから)達筆の落書がしてある等、木辻の通りを通っていても知る由もない室の様子などが記されている。

【歌舞伎に登場した木辻】
 歌舞伎「伊賀越乗掛合羽」は寛永十一年(一六三四)十一月、伊賀の国鍵屋の辻で行われた「日本三大敵討」の一つに数えられる「鍵屋の辻の血闘」と呼ばれる敵討を題材として作られた狂言である。
 剣豪荒木又右衛門の妻は、備前岡山藩主、池田忠雄の家臣渡辺源太夫の娘であった。又右衛門が、大和郡山藩主、松平忠明家中の剣道師範をしている頃、舅の源太夫が同藩の河合又五郎に殺された。義弟の渡辺数馬に仇討の助太刀をすることになった又右衛門は、数馬と力を合わせて苦労の末、上記の快挙を成し遂げた。
 この実話をもとにして講釈などでも盛んに語られ、これを受けて、安永五年(一七七六)大阪で芝居として初演された。引き続き芝居や人形浄瑠璃として度々上演されるようになった。ことに、木辻が出てくるだけに、近くの瓦堂にあった中井座でよく上演されて人気を博したそうだ。
 「伊賀越乗掛合羽」の七幕目「木辻揚屋の場」の幕があくと、春日屋と掛行灯(かけあんどん)に書かれた揚屋の光景から始じまる。荒筋は、大和郡山の誉田家(松平家)に仕える唐木政右衛門(荒木又右衛門)は、舅・渡辺靭負(源太夫)が沢井又五郎(河合)に殺されたので、義弟静馬(数馬)を助け仇討を志す。
 しかし家中には敵側の者が多い。政右衛門はその目を欺くために、木辻の廓で酒と女に溺れたように装い、入りびたっている。敵側の者は、彼の本心をつかめず、酔い痴れる政右衛門を嘲り笑う。
 主君誉田内記は、木辻に来て政右衛門の真意を悟る。けれどもわざと阿呆払いにして、政右衛門に槍を突きつけて、「主が懇望する槍の伝授を惜しみ、作り放埒(ほうらつ)をして暇を取り、主を売るの賊、逃さぬ。」と激しく槍を突きかけると、政右衛門はそれを扇であしらい、妙技を繰り広げてさりげなく見せながら、神影流槍術の極意を伝授する。内記は、政右衛門・数馬に餞別を贈って、芽出度く仇討に旅立たせる。
 といった筋書だが、寛延元年(一七四八)に初演された「仮名手本忠臣蔵」の大星由良之助(大石良雄)が敵の目を欺くために、廓で遊んだ話によく似ている。
 『娘道成寺』の「廓づくし」という全国の有名な廓の名を詠みこんだ唄で、華麗な舞を繰り広げる場面でも

 恋のわけ里、武士も道具を、伏せ編笠で、張と意気地の吉原。
花の都は歌で和らぐ、敷島原に、勤めする身は誰と伏見の墨染。
煩悩菩提の橦木町より、難波四筋に、通い木辻に、禿立ちから、室の早咲き…

 と、木辻の名が出てくる。
 嘉永六年(一八五三)の守貞漫稿の廓番付の諸国遊所競に、奈良木辻は東の前頭として、上段に載っているから、全国的に有名だったようだ。しかも廓番付では、有名な伏見の橦木町よりずっと上位にあるのには驚く他ない。
 又、『奈良坊目拙解』には、「凡そ諸国の傾城町の外廊は、一方口か両口となる。当、木辻、鳴川は東西南北の四門があって往来し、また地形は高下山岳のようで、他方と異なっている。」と誌されていて、全国的でも珍しい形態だったようだ。
 吉川英治著の宮本武蔵にも木辻の名が出てくるし、今東光もその著作の中に、尾道や因島で造船が盛んだった頃、この地方で顔役であったシルクハットという仇名を持つ遊廓の主人は、奈良の木辻の出身であると書かれている。
 なにしろ歴史が古いので、江戸に吉原が出来る時も、木辻から、大夫や経営者を送って指導にあたったと伝えられる。盛時には三十数軒の揚屋があり、公娼の数も三百人をはるかに越えていたと、『奈良町風土記』に記されている。

【近代から現代に至る木辻】
 明治五年(一八七三)の大政官令の布告により、一時廃業の憂目を見たようだが、その後、置屋として復興したという。明治四十二年、奈良に陸軍歩兵五三連隊が設置されるにつけ、賑やかさを増し、最近では大正時代が最も賑やかだったそうだ。
 奈良町風土記続々編によると、「憩の家は二階建で、一階は遊女達の顔見世の場所となっている。美しく着飾った遊女達が並んで客を誘い、引子と呼ばれる年老いた女性がその間に立って世話をするといった風情であった。」とある。私が小学校へ行くのによく通った頃(私は小学校三年生まで済美小学校へ通っていたので、昭和七年〜九年頃)は、日本髪に結った娼妓さん達の写真がズラリと揚げられていて、入口に引子さんが二人位椅子に腰かけていた。学校の帰り、夕方近くになると、若い妓が、五、六人ずつ引子さんに連れられてお風呂屋さんから帰ってくる。
 どの妓も顎の下に線を引いたように首から衿筋を固練白粉で真白に塗っていた。首や衿が真白なので、少々色の白い妓も顔がドス黒く見えた。抜衿をするので、肩から首筋の奥の方まで塗らなければならないので、お風呂で塗り、顔の化粧は部屋に帰ってからするのだろう。固練白粉というのは、今のように肌色やオークールのように色のついたものではなく、真白で、そのまま塗るには固いので、板刷毛にたっぷり含ませた水で化粧皿でおしろいを溶いて壁を塗るように塗りつけてゆく。顔も塗ったら、歌舞伎に出てくる藝者さんのようになるのだろうけれど、残念ながら、ちゃんとお化粧して衣装をつけた姿を私は見たことがない。
 東木辻から西へ降りる坂道は小さな四角い石をモザイクのように敷詰めた石疊になっていて、夕方には綺麗に掃除して打水がしてあった。坂の上には交番があって、何人かの警察官が常駐しておられた。この間、この項を書くにあたって、久しぶりに木辻の通りに行ってみると、石疊は普通の舗装道路に、交番があったところは仏壇屋さんに変わっていた。
 終戦直後は、この町にも進駐軍の兵隊さんの姿などもよく見かけたが、そのうち、人権の尊重、男女同権、自由平等などが叫ばれるようになり、女性解放運動がもりあがって、昭和三十三年国会に於て、公娼廃止が議決されたので、三百年余り、傾城町として繁栄していた木辻の置屋も廃業して、旅館や喫茶店、クリーニング店等もあるが、ほとんどが住宅となって木辻格子や、一種なまめかしさを持っていた町の雰囲気はなくなり、明るい町になっていった。
【ある花屋さんの話】
 木辻の近くに一軒の花屋さんがあった。子供はなかったが、夫婦共、働き者で、いつもニコニコして小まめに花の手入れをしたり、店も綺麗に掃除をしていた。私が習っていた活け花の先生は近在の有名な地主の息子さんで、上品な旦那さんであったが、この花屋さんを非常に可愛がって、教材の花を納めさせると同時に、花の組合せ等も指導しておられた。花屋さんも先生の活けられた花や、教えておられるのを注意深く見て、「あの花屋、花を活けるのも上手になって、この頃料理屋等へも活けに行ってるようです。」と、目を細めておられた。
 ある時、こんな話をされた。「あの花屋は若い時、チンピラみたいな遊び人でしてな。ある頃から木辻の遊女に惚れ込んで通い詰めとりましてん。その遊女の年季があけて一緒になったのが今の嫁さんですわ。遊女になるというのは遊び心やなまけ心からではなくて、凶作や仕事の失敗等で困っている親を助けるために年季奉公で遊廓に入った孝行娘も多いので、無事に年季が明けて好きな人と一緒になれたら、死に物狂いで働きますねんな。それであの男もすっかり真面目になって働き者になりましてん。お宅も近所やから可愛がってやってくださいや。」とのことだった。子供時代から知っておられるようだったら、先生の実家の小作の家の息子さんだったのだろう。首だけ真白に塗って、無表情で歩いていた人達も、親や兄弟を助けて苦労をしておられる孝行娘さんだったんだろうなと思った。

【称念寺】
 昔木辻の交番があった隣に称念寺というお寺がある。もとは築地之内にあったのだが、いつの頃からか現地に移り、築地院と号していたそうだ。
 鎌倉時代に俊乗房重源が、善導大師の像を安置し、寺名を一心山築地院称念寺と改め、後に浄土宗となった。円蓮社頓誉上人が、広瀬郡細井戸村浄土寺からこの寺に移り、阿弥陀如来を本尊にしたのが現在の本尊である。天明六年(一七八六)に新調された純金箔押の宮殿造厨子に安置されている。境内には釈迦如来や阿弥陀如来、地蔵菩薩などの古い石仏が安置され、松尾芭蕉の「菊の香や奈良には古き仏たち。」の句碑が立っている。
 寺内の愛染堂はかつては、遊人や遊女の日参祈願で賑わったという。その頃は廊内娼妓の引導寺として、引取り手のない遊女を葬った遊女墓もあったようだが、今は無縁墓として積まれている。境内は綺麗に整備されている。親兄弟を助けるために苦労した遊女達の霊も安らかに成仏していることだろう。この近くには、高林寺、誕生寺、徳融寺等、中将姫ゆかりのお寺が多い。芝居や浄瑠璃によると、継母にいじめられて苦労した中将姫が、信仰によって西方極楽浄土へ迎えられたという伝説から、これらのお寺も、苦界から逃れて幸せになりたいと願う遊女達のお参りが多かったようだ。