第120回(2005年04月号掲載
平城外京六坊大路―2
瓦堂町
旧中井座と全国で唯一の朱屋さん
 平城外京六坊大路の名残の道を、北京終から循環道路を北に向って渡ると、瓦堂町に入る。
 瓦堂という町名の由来は、宝徳三年(一四五一)十月十四日、土一揆(どいっき)の放った火によって、元興寺の大部分が焼失した時、この地の焼跡に瓦堂と言われる瓦葺きの堂が残っていたからと言われる。また、一説には、かつて同郷内であった、木辻町の称名寺が、瓦葺きの小堂だったので、瓦堂と呼ばれていたことに起因するとも言われている。
【全国的に名を馳せた瓦堂の芝居小屋】
 瓦堂町に入ると、左側(東側)の角から二、三軒目に、中井座という櫓造りの古めかしい芝居小屋が昭和の始め頃まであった。私も子供の頃、祖母や叔母に連れられて、よく芝居や映画を見に行った。五、六才か小学校低学年までの記憶だから定かではないが、初めの頃は疉敷きの平場の両側に桟敷席があり、花道も設けられていた。入場すると、お茶子さん(芝居小屋の女中さんのようなもの)が座布団を持って席へ案内してくれた。座布団には藍に白抜きで中井座のマークが入っていた。それは、今テレビなどで見る江戸時代の芝居小屋の風情にそっくりだった。お茶子さんはお茶も運んできてくれた。芝居が始まる前や幕間には、大きな箱に菓子や飲物を一杯詰め込んで「おせん(煎餅)にキャラメル、あんパンに蜜柑はいかがですか。ラムネもありまっせ。」と売りに来る人もあって、人々は演技をしている間も気楽に食べながら見物していた。芝居は廻り舞台もあって本格的なものだったと思うが、映画は白黒の無声で、弁士が名調子で、絞り上げるような声で解説していた。この小屋も、のちに椅子席になったような気もするのだが、菩提町にあった尾花座と、昔は非常に良く似ていたので、中井座が椅子席に替わる頃まであったのか、記憶が定かではない。
 北村信昭氏著の「奈良いまは昔」には次のように書かれている。
 中井座は大正末期にユニバーサル物の大作を時折上映した。当時、幸町に住んでおられた志賀直哉氏も大正十五年頃、よく中井座へ見に行かれた。その年の志賀日記に次のような一節がある。
 一月十八日、池田小菊、女子高等師範にて演説せよといふ。断る。夕方、小菊と共に武者(武者小路実篤氏)訪問。夜、武者と散歩、中井座に「オペラ座の怪人」を見る。
 志賀先生は同年二月十六日にも中井座で「愚かなる妻」を見られ、「シトロハイムという監督兼主人公の創作的野心気持よし」と記され、説明者(弁士)が筋を良く理解せず、出鱈目をいうのは興ざめ、など書かれている。
 著者の北村さんも、その頃、奈良の仏教団体が主催上映する「亜細亜の光」という釈尊伝記映画の試写会に中井座に行かれたそうだ。盥(たらい)に大氷柱を置いたのが平場に数個あり、それを囲んで、その映画を鑑賞したとあるから、夏のことだろう。そう言えば、冷房の無かった頃は、劇場でもデパートでも人の集まる場所には大きな氷柱を立てて涼をよんでいた。
 大正十五年といえば、私はまだ満一才にならない赤ん坊の時。志賀先生の坊ちゃんの直吉ちゃんや、これを書くについて、色々資料を貸して下さった木下朱一氏の奥さんの美智子さんも、私と幼稚園も小学校も同じだったから、その頃の志賀先生ってお若かったのだろうなと、微笑ましい感じがする。「バクダットの盗賊」も上映されたことがあるそうだ。それにしても、私の子供の頃のイメージと違う、随分ハイカラなものを上映していたものだ。現在とは異なり発声の伴わない映画だから、弁士の解説を聞きながら見る訳だが、先生は原文を読んでおられたから、弁士が出鱈目を言っていることが分かったのだろうが、読んでない人は、どう解訳されたのだろう。
 中井座は明治時代の創業と思っていたのに、先日、元奈良文化女子大学教授で、現在、融通念佛宗総本山 大念佛寺の教務にたずさわっておられる行昭一郎先生のお話を聞いて驚いた。
 瓦堂に於ける芝居小屋の歴史は古く、姿を変えながら(経営者も代わりながら)昭和まで生き残った、全国的にも著名な小屋だったそうである。
 奈良の芝居屋敷は、もと登大路にあったが、町の中央で、奈良奉行所にとっては管理上好ましくない存在であった。ところが、宝永元年(一七○四)四月の大火で焼けたので、登大路での再開は許されず、木辻の遊里と隣接しており、当時、集客力も強い瓦堂に移ってきたようだ。遊廓と芝居を二大悪所と考えていた奉行所にとっては、近過ぎもせず、しかも旧六坊通りをまっすぐの位置にある木辻、瓦堂に並立させることは、管理しやすく歓迎すべき場所だったのだろう。
 「奈良製墨文化史」の内の「奈良市瓦堂町」の項に{元禄(一六八八年九月〜一七○四年三月)前後に一座を持ち、浄瑠璃を語った興行師、小林(俵屋)平太夫が居た。〈歌舞伎・浄瑠璃芝居は東側にある。〉}と記されているのと一致する。天保十四年(一八四四)発刊の和州奈良の図には、瓦堂の通りの東側、後の中井座の位置とおぼしい場所に「    (しばい)」と書かれている。文政八年(一八二二)の全国主要芝居略図には、「奈良瓦堂小ばやし」とあるそうだから、少なくとも、その頃までは、小林家が宰領されていたのだろう。全国百三十二の芝居小屋を相撲番付に見たてた、文政六年(一八二四)のものには、東の十一番目、前頭八枚目に、「南都河原戸(瓦堂)」と載っているそうだから、全国的にも上位の有名な芝居小屋であった。この地に、明治になって玉井座というのが出来、明治四十二年に中井座となったそうだ。中井座は戦争中(位だったと思うが定かではない。)に閉館となり、その後、食料品や雑貨を売る市場のようになっていたが、火災に遭って、今は駐車場や住宅地になっている。
(中井座は、現在盛業中の中川ふとん店の南側、中川駐車場及びその奥の住宅地辺りにあった。)

【朱の老舗 寧楽聡明朱座 木下照僊堂】
(ねいらくそうめいしゅざ きのしたしょうせんどう)
 中井座跡を北へ少し進むと左側(西)に明治五年以来、古代より伝承の製法で、朱肉や印肉を製造販売しておられる木下照僊堂さんがある。朱色で朱と書かれた風雅な門灯が上がっている。
 木下さんには潤子さんという私より一才年下の方がいらっしゃって、子供の頃、鳴川町の平岡さんで金春流の仕舞を習っていた。お謡の会の前座や、学校の講堂で催物がある時などに、先生に連れられて行って、二人で仕舞を舞うことがよくあった。その練習のためだろうか、単に遊びに行ったのか、小学校の頃は、よく木下さんへお邪魔した。木下さんのお宅で見る墨痕(朱痕というのだろうか。)鮮かな朱の文字や、小さな桐箱に入った朱墨の美しさが私の心をとらえた。幼い頃から、青丹よしと詠われた奈良で、朱塗りの神社仏閣の荘厳華麗な朱の色を見て育ったのと相まって、朱色が大好きになった。傘寿を迎えようというこの頃でも、口紅は朱色系を選んだり、服や小物でも、つい朱色や錆朱を好むのは、この頃の影響かも知れない。
 朱についてはもう一つ忘れられない思い出がある。
 昭和三十三年に開校した奈良自動車学校では、開校から二、三年は定時入学、定時卒業で、(入学日と卒業日が決まっていた。でも、卒業検定に落ちた人は、検定に通った時から一番近い卒業式の日に卒業する。)卒業式には一人一人に卒業証書を渡していた。そんな頃、この度、取材でお世話をかけた木下朱一さんが入学して来られた。そして卒業証書をお渡しした時、奈良自動車学校の校印を見て、「なんという朱印を使うてまんねん。運転練習に苦労して貰う卒業証書や、本物の朱印を押してやんなはれ。」と言って、辰砂を使った上等の朱肉を持って来てくださった。
 高僧方や書家や画家が使われる朱墨や落款の色の美しさは知っていても、朱肉といえば文房具屋で手近にあるものを買って来たのを反省した。頂戴した印肉で押してみると、色の冴えはもちろん。、ニジミも無く、卒業証書も一段格が上がったような観があった。しかし間もなく制度が変わって、随時入学、随時卒業になったので、卒業式を行うこともなくなった。
 古来から赤の顔料には二種類あった。一つは水銀などの朱で、朱砂、辰砂、丹砂とか呼ばれる。もう一つは酸化第二鉄、ベンガラとか、弁柄、紅殻と呼ばれている。辰砂が純粋な朱色を呈するのに対して、鉄系のベンガラはやや黒ずんだ赤になる。
 先祖代々、眞正の朱墨や印朱を造り続けておられる木下照僊堂の木下勝章社長は、「まだ明けやらぬ元旦の朝、あかあかとかがり火に映える拝殿にぬかづき、今年一年の幸せを祈りつつ柏手を打つ。すがすがしく心ひきしまる一瞬ほのぼのとした神秘を感じる。日本人の心の奥には、朱の色に郷愁を抱かせる何かがあるのではなかろうか。朱は、幸運招来のめでたい色、高貴な色として尊ばれ、魔除けの守護色とも言われて、古代から人々が最も大切にして来た色なのです。」と書いておられる。
 それをうらづけるように、朱は中国では殷時代(中国史上、存在が実証される最初の王朝、紀元前十五世紀位)古代エジプトやギリシャ時代から使われており、日本でも縄文時代の土器や土偶に塗られていたり、古墳時代には古墳の石室や石棺に使用されている。
 木下勝章氏の説によると、この時代の天然に産する辰砂は、うまく精製されていないため、水銀分が含有されていたので、防腐作用があり、腐敗を止めたので、腐らない、変化しにくい、悪魔が来ないというので、朱(辰砂)が珍重されたということだ。
 「播磨国風土記」によると、神功皇后が新羅遠征に向われる際、爾保都比売命(にほつひめのみこと)から赤土(あかに)を貰って桙(ほこ)や軍衣などを染めたとあり、朱砂が呪術的に破魔の役割を果たしていたことがわかる。
 青丹よし 奈良の都は 咲く花の
  匂ふが如く いま盛なり
 と詠まれているように、燃え立つような朱色に塗られた宮殿や神社が緑に映えて大輪の花が咲き競うように美しかったのは、唐の長安の都を模したものと思っていたが、その辰砂は大和でたくさん産出したようだ。丹生(にゅう)という地名が、吉野郡や柳生にもあり、文字通り、丹が産出する所であったと言われる。各地にある丹生神社も、丹生都比売(にうつひめ)をお祀りしていたのが、「水銀は辰砂鉱山から取る。」が年月を経て水銀様(みずがねさま)になり、人間の生活に欠かすことが出来ない大切な水の神様になっていったのだろうと言われる。
 なにはともあれ、奈良の都は丹生から豊富に産する朱を使って華やかに塗られていたので、青丹よしが奈良の枕詞となったのであろう。
※一説には産出した青丹の顔料を馴熟(なら)すという意味も、この枕詞には含まれているという。
 空気中でも変色、変質することなく、華やかで美しい朱は、古代より貴族や時代の権力者のみが使用を許され、古墳の石棺に敷き詰めたり、朱印状や御朱印船など、特権階級の象徴のようなものであった。庶民は、印を持っている人も少なかったが、印を持っている人でも黒肉を使用していたそうだ。
 長い間上層階級の人達のみしか使用できなかった朱が、明治維新以降、法律が改正されて、一般にも使用することを許された。明治五年に木下照僊堂は、それまで特殊階級の人のみに使われていた本物の朱(辰砂)製品を取り扱うために創業された。
 その頃、時流にのって朱屋を開業された店もあったのであろうが、それから百二十余年、伝統を守って朱を煉り続けてこられたのは、全国で木下さんが唯一軒だという。
 この間、デジタルアーカイブ構想事業の一環として、「究極の墨の色を求めて〜古都・奈良の墨づくり〜」という作品を見せて頂いた。ソフトの上映に先立ち、奈良文化財研究所の笠羽晴夫先生から「平城京跡の木簡」についてのお話をうかがった。
 木簡という言葉は、今でこそ誰でも知っている言葉だが、一九六一年、平城京跡を発掘している際、初めて発見された時は、古(いにしえ)の歴史の語り部が突然姿を現したように人々を驚かせたものだった。
 木簡とは、墨書のある木片の総称で、今では全国で三十二万点出土しているが、最初に発見されたのは、平城京に溝状に掘られた、往古のごみ捨場からだった。このごみ捨場からだけでも約三万五千点発掘されたという。第一次大極殿院 南面回廊から出土した木簡では、平城遷都の和銅三年(七一○)三月には、まだ大極殿が建っていなかったことがわかったそうである。
 木簡は、租(そ・現物納租税)や贄(にえ・朝廷や神に奉る土地の産物。ことに食用に供する魚、鳥など。)につける荷札の役を果たす木簡など、様々な木簡によって、当時の生活や歴史を実証、行動範囲など、色々のことを知ることが出来る。木簡は削り直して何度も使っていたようである。したがって、発見された木簡のなかには、カンナ屑のような削屑もあって、それを判読するのが大変で、五年間も解読にかかられたそうだが、墨で書かれてあったおかげで、千三百年近い時空を越えて色々な事が分かったそうだ。先生は、「その頃、木簡の削屑と毎日にらみっこしていたので、鰹節の削ったのを食べるのがいやになりましたよ。」と笑っておられたが、大変なご努力だったと感服する。それと同時に、墨とか朱の持つ力も、改めて見直す思いであった。
 「最近は昔程、墨で字を書かなくなったので需要が減っているとはいえ、古都奈良の墨は、全国の手づくり墨生産の九十九%を占めている。墨発祥の地 中国でも文化大革命以降、手づくり墨は作られなくなったばかりか、漢字文明圏(中国・韓国・北朝鮮・台湾・ベトナム・タイなど)の中でも品質の良い墨づくりを受け継いでいるのは古都 奈良だけです。」(「古都 奈良の墨づくり」制作発表会への招待状より)
 デジタル映像によるアーカイブソフトの出来栄えは素晴らしく、一丁の墨、また、朱墨を作る人達のご苦労も身にしみて分かり、何とかこの伝統技術を維持して頂きたいものだと思ったが、文章にまとめにくいので、その説明書の一部を引用させていただく。
 墨は煤を膠で固めて作ったものです。奈良の墨の主原料の煤のほとんどは、菜種油、ごま油などから取る油煙です。墨づくりは膠が一番真価を発揮する寒い冬の間だけで行われます。墨を作るのは、煤に膠の熱い液をそそぎ、香料を加えてよくまぜ、光沢がでるまで十分に煉ります。ここに伝統の職人の技が生きます。それを木型に入れて形をとります。型どりの後は灰の中に入れて乾燥させ、さらに一ヶ月ほど自然乾燥させます。仕上げは貝で磨いて光沢を出したり、色彩をつけたりして製品となります。墨づくりは今も職人の技によるまったくの手づくりです。一人前の職人になるには、およそ十年かかるといわれています。彼らは、煤で真っ黒になりながらも伝統の技を守り、優れた墨を造り続けています。墨づくりの技を記録しました。
企画・制作 特定非営利活動法人/奈良21世紀フォーラム/トータルビジョン関西1
 素晴らしい映像の内でも、鮮かな朱墨を練って可愛らしい型に入れられるのがひときわ目をひいた。
 墨はかつては中国や朝鮮半島から伝わって来たので、向こうが先進国だと思っていたが、現在、墨の生産量も技術も、古都 奈良が世界随一と聞いて驚いた。色々なご苦労もあるだろうけど、この大切な技術を誇りを持って未来に伝えて行って頂きたいものだと思う。