第119回(2005年03月号掲載
平城京六坊大路―その1
京終(きょうばて)
1 元興寺小塔院趾の西側を通る道は、平城京東六坊大路の名残である。
 平城京は、南北が北一条大路から九条大路まで、東西は朱雀大路を中心として、西四坊大路から東四坊大路までが九条大路に至る。奈良市の北西部から大和郡山市に及ぶ、南北四・八キロ、東西四・三キロに及ぶ、唐の長安の都を模した堂々たる日本の首都であった。平城京の左京(東部)は、南一条大路から五条大路まで、五坊大路から七条大路まで、三条分東へはり出していて、外京と呼ばれていた。都が京都に遷る時、平城京の中心にあった宮殿や、主な建物は解体されて、使える材料は出来るだけ平安京の建設に使われた。その跡地は経済観念の発達した国司の指導で、付近の農民を集めて壇を削り、溝や池を埋めて農地や民家にしたので、都が京都に遷った後は、万葉集に詠われているように
 立ちかわり 古きみやことなりぬれば
  道の芝草 長く生ひにけり
 といった風景となり、やがてどこが宮殿の跡かも分からなくなっていった。しかし、平城京に建立された社寺はそのまま残されたので、これ等の諸大寺を中心として門前町を形成していった。ことに外京には、総国分寺であり、盧遮那仏がおわす世界最大の木造建築である大仏殿を持つ東大寺、藤原氏の氏神である春日大社、氏寺の興福寺、仏教寺院として日本最古の歴史を持つ元興寺等がある上、京街道に直結しているので、貴族の祖霊参り、平安時代に盛んになった長谷詣や熊野詣、江戸時代頃から庶民に拡がったお伊勢参り等で賑わい、門前町が宗教都市を形成し、観光都市として発達していった。現在、奈良市は西郊へ拡張したり、周辺の町村を合併する等で、平城京より随分広くなっているが、旧奈良市と呼ばれる大正時代頃までの奈良の町は、ほとんど、この外京に当る部分である。

【平城京六坊大路】
 平城時代、朱雀大路は幅約八十四メートル、普通の大路でも道幅が約二十四メートルもあって、大路と大路の間には、約十二メートル幅の小路を東西南北に各三本づつ設けたというから、道幅は狭くなったり、多少折れ曲がったりはしているが、(道の東側が残ったり西側が残ったりして、折れ曲がったのだろうか。)旧六条大路は、京終・瓦堂・東木辻・鳴川・高御門・脇戸・下御門・餅飯殿・橋本・東向・花芝等、往時を偲ばす町名の町を貫いて、旧外京の中心を、一条通りから京終まで南北に通っている。この六条大路を境にして、東に興福寺、元興寺が、さらに東には東大寺が建立されたので、この西側辺りは門前町として賑わいを見せていたのだろう。 昔のことに思いを馳せながら、六条大路の名残の道を京終から北へとたどってよう。

【京終駅周辺】
 奈良に住んでいるか、奈良によほど詳しい人以外に「京終」を「キョウバテ」と詠める人は少ない。京終町は広くて、昔は京終郷とか京終村と呼ばれていた位なので、北京終町とか南京終町等に分かれているのだが、戦争中、中国の北京や南京への関心が高まった時には「ペキンおわり町にはどう行きますか?」とか、「ナンキンおわり町はどちらでしょうか?」と道を尋ねられて、最初はとまどったものだ。
 この地は平城時代、五条大路の延長線と、外京六条大路の交差するところで、文字通り、京の終、京の果からきた名前だろう。平城時代の京終は、京の果とは言いながら、京洛の内だから、どのような人達が住んでいたのかよく分からないが、明治の中頃位までは、住民の多くは農業を営む農村地帯であったようだ。
 明治二十三年。大阪鉄道KKの鉄道が、奈良―王寺開通するに伴い三条町に奈良駅が出来、明治二十五年大阪湊町と奈良を結ぶ鉄道(現在のJR大和路線)が開通、古都奈良に新風が吹き込まれた。
 明治三十二年、奈良鉄道(現JR桜井線)の開通によって京終駅が出来、駅前には商店や住宅が建ち並んで、急速に活気を帯びてきたという。
 私の母の生家は大和高田だったので、私も幼い頃から、よくこの駅から汽車に乗って母の里に遊びに行った。また、私の母は私が小さい頃に死んだので、私の母の妹である叔母や従姉達が遊びに来るのが楽しみだった。今のように自動車があまり手軽に使えない昭和初期「○時に京終駅に着きます。」という電話がかかってくると、叔母達が家に着くのを待ちきれず、荷物持ちに、女中や丁稚が駅まで迎えに行くのに付いて、駅まで行ったものだ。
 その頃の京終駅周辺は、宿屋やうどん屋さん、酒屋さんや菓子屋さん等が建ち並んで、人通りも多く賑やかだった。京終は貨物車の積み降ろしも多く、駅前の広場の向側には運送屋が何軒かあった。そのうちの一軒が福田運送といって、砂糖問屋をしている私の家の砂糖や水飴を、京終駅から家まで、牛車や荷車で、毎日何度も運んでくださっていた。貨車は一台で十トンか十五トン積んでくるのだから、牛や人間が曳く車では何台も連ねてくるか、何度も往復しなければならない。人間が曳く荷車には曳き綱をつけた犬がくくりつけられていて、飼主を助けて一生懸命車を引っ張っていた。牛も犬も飼主の為に力一杯働いていたし、飼主はパートナーの動物を労り、可愛がっていた。のんびりとした、古き良き時代の話である。福田運送には、私と同学年の女の子がいたので、私もよく遊びに行った。福田さんには、しっかりとしたお祖母さんがおられて、頑強な人夫さん達にテキパキと仕事の指示をしておられた。私の祖母も「お家はん(おえはん)」と呼ばれて、店の者や女中達に指示を与えていたが、店への指示は番頭を部屋に呼んで言う位で、主に女の人達に料理や縫物、掃除等、家事関係の指図をしていたので、今と違って、当時は店頭で大の男を意のままに動かせる手腕は珍しい存在であった。
 叔母や従姉が帰る時は、私も名残を惜しんで、見送りの店の人達について駅まで送って行く。淋しそうな顔をしている私に、叔母は駅の売店で、絵本や菓子等を買ってくれた。その頃の京終駅には、駅員さんも十二〜三人位おられた程、乗降客も多かったから、売店も結構繁盛していたようだ。
 駅の西側には駅員さんの官舎が七、八軒建っていた。私が小学校低学年だった頃、この官舎に清水さんという同級生が住んでいたので、よく遊びに行った。清水さんの家に行くには、小川にかかった素朴な橋を渡る。官舎は川と道の間に東西に並んで、どの家も南向の日当たりの良い家で、目の前には、町の賑わいと一味違う、のどかな田園風景が拡がっていた。
 その頃、学校ではよく「お家に帰ったら、お父さんやお母さんのお手伝いをするのですよ。」と先生方はおっしゃったし、夏休みの日程表にもお手伝いの欄があって、手伝いをすれば○をつけるようになっていた。しかし、私の家のような商家では、女中さんや坊さんが沢山いるので、お使いは坊さん達が行くし、台所の手伝いでもしようと思ったら、却って足手まといなので「とうさん(お嬢さん)は、お部屋て本でも読んでいてください。」とか言って、てい良く追っ払われる。お手伝いの欄に○をしようと思ったら、坊さんが使いに行くのをつかまえて、付いて行かなければならない。ところが清水さんの家では、お母さんが家事をしておられるので、お手伝いもごく自然に、手軽に出来ることがあるのが新鮮な感じて羨しかった。
 近くの子供さん達も一緒に川の土手へ、たんぽぽや土筆を摘みに行った。その頃習った小学唱歌「春の小川」そっくりの風情で、メダカやフナも泳いでいた。
 春の小川はさらさら流る
 岸のれんげやすみれの花に
 においめでたく 色美しく
 咲けよ 咲けよと ささやきながら
 と皆で歌いながら花摘みを楽しんだ。(この歌も娘が小学校の頃は「さらさら流る」が「さらさらゆくよ」。「においめでたく」が「においやさしく」と習っていた。時の流れと共に歌詞も、その時代の言葉に合わせて変わるんだなと思った。)
 十数年前、久しぶりに京終駅に行くと、無人駅になっていたのには驚いた。待合室で待っている人もいない。そういえば、私も移動はほとんど自動車で、新幹線か電車に乗る位で、ここ何十年も京終駅を利用したことがなかった。
 その間に、よく遊びに行った官舎もなくなって、今は立派な「済美地域ふれあい会館」が建っている。市民のカルチャーや会合場所、いこいの場として、多くの人々に親しまれているようだ。このふれあい会館の中川安治館長さんは、奈良市立済美小学校の創立百二十周年記念式典の時の校長先生であった。今も済美小学校の正門玄関前には「未来にはばたく済美の子」という先生直筆の記念碑が立っている。私もこの記念碑の除幕式に参列して「はばたけ」という他動的なものでなく、子供自体が未来に向って「はばたく」自主を主んじた言葉に感心したものだ。この先生の実家は城戸町にあったお煎餅屋さんで、実直に働いておられるお父さんを助けて学生時代からいつもにこやかに良く働く、昔の修身の本に書かれていたような模範青年さんだった。こうしたお人柄だから、先生時代は子供達にやさしく接しながら自主性を重んじ、ふれあい会館の館長さんとしては、この館を訪れる方達の親睦はかり、心のふれあいを大切にしておられるのだろう。
 商品の砂糖もトラックで運ばれてくるので、牛車や荷車を見ることもなくなった。その代りというか、道の狭い奈良町の元興寺町で商売をしていた我家は、大型のトラックが楽に出入り出来る循環道路に面した紀寺町に営業所と倉庫を建てて卸部門を移した。元興寺町の本店では、奈良町を訪れてくださる方達に、店の創業時代(安政元年)頃、使われていたと思われる甘味料、米を麦芽で糖化した米飴「御門米飴」、蜂蜜、黒砂糖、昔は殿様か大金持しか食べられなかったといわれる程の高級砂糖「和三盆」等を気軽に試食して頂いて、昔の風情を偲んでいただいている。千三百年近い奈良の歴史からいえば、私が子供の頃から見て来たことなど、ほんの一瞬のことなのだろうけれど、それでも町の様子や生活様式等、随分変わってきている。私は、歴史に残らない一般市民の生活の移り変わりや町の様子等、拙文ではあるが、残しておきたいと思って努力している。

【京終地方の繁栄】
 京終町は、南部の農村地帯から奈良市内に農産物を搬入する入口に位置していたので、大正七年二月に京終卸売青果市場が開設され、魚市場も併設されたので、食料品の卸屋が軒を並べ、早朝から仕入れに行く八百屋さんや魚屋さん、料理屋さんが押しかけて門前市をなす盛況だった。しかし、昭和五十二年(一九七七)五月、奈良県中央卸売市場が、大和郡山市に開設され、そちらに移ったので、静かな住宅地になった。
 一方、同じく大正七年に、東山中と京終を結ぶ奈良安全索道会社が設立されて、東山中特産の高野豆腐や野菜・木材・木炭等が索道によって運ばれるようになった。京終駅は奈良駅よりも、貨物の積み降ろしの多い駅だったのとあいまって、駅の近所には大きな材木屋さんが数軒あって、広い材木置場には沢山の原木や材木が積み上げられていた。
 その頃は京終から東山中に向って張られた架線に、ブランコのようにぶら下がった搬器(荷物を積む台)に乗って、材木や大きな荷物が魔法のように空中を通って移動してくるのが、子供心に不思議で面白かった。索道が道路の上を通っている所では、万一荷物が落ちてきて事故をおこすのを予防するため、鉄柱を建てて、丈夫な鉄の網が張られていた。こうして繁盛していた索道も、自動車の発展普及と東山線の道路の拡張で、運搬がトラックにとって代られ、昭和二十六年には、その姿を消してしまった。
 材木屋さんの老舗、!材辰の社長さんの話によると「昔は、県南部の市町村から奈良に買物に来られるにしても、京終駅で降りると、食料品は京終の市場で、呉服や衣料品等も餅飯殿から東向、三条通りと見て廻れるので、乗降客が多く、京終の通りの商店や飲食店も、結構繁盛していました。」とおっしゃる。正月の初詣や五日夷、おん祭等には人の流れが絶えず、吉兆笹をかついだ人達やほろ酔い機嫌の人々が楽しそうに行きかっておられたそうである。南都銀行の本店に勤めている方でも、桜井線で来る人達は、奈良駅まで行くと道が広く東西に通っているので、夏等は朝日夕日で暑いが、京終駅で降りると家のかげを通っていけるので涼しいと言って、京終から歩く人の方が多かったという。
 郷土出版社発行の「奈良市の100年」という本の写真にも、「帯解駅の朝のラッシュアワー」として、ディーゼル車に乗りきれない程あふれ出したお客さんの背を力一杯押して、一人でも多く乗せようとしている駅員さんの姿が写っている。昭和四十一年に写したということだが、この先は京終駅と奈良駅だけだから、これだけ乗っていれば乗降客が多かったというのもうなずける。やはり自動車の普及が人の流れも変えたのだろうか。

【京終天神社】
 材辰の吉田社長さんは、京終には、こんな由緒のある神社や石佛があります、と言ってわざわざ案内してくださった。京終天神社は、外はよく通っているのだが、通りすがりにピョンとおじぎをする位で、境内に入ったことのない神社だった。社務所は閉まっているのに、境内はよく整備されていて、お掃除も行き届いている。
 本社や末社に掲げられたご祭神の名前を見て廻っている間に、吉田さんが、近所の旧家 増田さんへ行って由緒書を借りて来てくださった。由緒書によると、 当社は、本来飛鳥天神社と申し、国家鎮護の神、元興寺の守護神として鎮座ましましたのが、おこりであります。元正天皇の御代、養老二年(七一八)八月に倭国高市郡眞神ヶ原(今の明日香村)の飛鳥神社を平城の新都左京四条飛鳥の丘に奉祭し、国家鎮護の霊社とされました。平安遷都後も、南の祭と称して、大乗院門跡を始め一山寄り集まり、盛んに祭事がとり行われておりました。
 その後、応安二年(一三六九)に現在の地 北京終町に奉還されたのであります。降って文政九年(一八二六)春日神社の末社の旧殿の払い下げを受けて本殿とし、文人「菅公さま」を祭神として合祀し「紅梅殿」と名を附したこともありました。
 そして私達の里を守護していただきます「氏神さま」「鎮守さま」として、古くから現在に至るまで、報恩感謝の誠をささげ、まつりの場を通して、お互いの生きる喜びを、より確かなものにして参りました。「氏神さま」への崇敬が、平和な日本、豊かな郷土を培っていくものと存じます。
 と誌されている。ご祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)、その御子の国代主命(ことしろぬしのみこと)、木花開屋比売命(このはなさくやひめのみこと)、天孫降臨に先だち、その交渉にあたられたと伝えられる天穂日命(あめのほひのみこと)、天神様と呼ばれる菅原道真公の他、五柱の神様をお祀りされている。
 山田熊夫先生の「奈良町風土記」によると天神社の由来について「昔、高畠の百姓と水論し、高畠の百姓を害した。そこで高畠の百姓達は、潅漑用水を断ったので、北野天神に加護を祈願し、再び用水を得ることになったので、神恩を謝するために菅原道真公を祀るようになった。」と書かれている。「昔は水争いで血を見る事があった。」と聞いたことがあるが、農作にとって水は命がけの大切なものだったのだろう。

【北京終地蔵院阿弥陀三尊石仏】
 「京終のことを書くのだったら、この石佛も拝んで行ってください。」と吉田さんが案内してくださったのが、天神様より一筋西の通りにある、地蔵院の入口に南向きに立っておられる立派な石佛の前であった。上部が少し欠けているが、高さ約一メートル八十センチ、幅一メートル余りの大きな船型光背の前の正面に、百三十センチ位の阿弥陀如来様が二重蓮座の上におられる。左右には八十センチ位の観音菩薩と勢至菩薩立像が、花崗岩に厚肉彫りされている。各像の後ろには蓮弁を刻んだ頭光背も線彫されている。
 上品で温和なお顔だち、納衣のひだも流麗で衣の質感をよく表している。鎌倉後期頃のものと言われているようだ。五条大路の南西に辻堂があって、そこに祀られていたとも、天神社に祀られていたものを移したという説もあるようだ。三尊石仏の周囲には、室町・江戸時代の石仏五十体程が、集めてお祀りされている。
 外京の五条大路の南西にあったとしたら、そこは外京のはて、鎌倉時代だったら京の終というより、奈良への出入口にあたるのだから、旅人の安全を護り、旅で亡くなった方達の霊を西方極楽浄土へ迎え入れ、奈良や近郷の人達の安穏を守護して頂くために造立されたのではないかと思うのは、私の勝手な想像だろうか。