第118回(2005年01月号掲載
五重塔の炎上とともに、
無くなってしまったと
思われていた元興寺
【元興寺の五重塔(大塔)】
 寛政三年(一七九一)に刊行された「」大和名所図会の中の元興寺、御霊神社の図には、御霊神社のすぐ隣(東北)に、堂々とした元興寺の大塔が描かれている。塔の周辺には参詣人や鹿の姿も描かれ、かなりのお参りがあったであろう当時が偲ばれる。
 天保六年(一八三五)に書かれた旅日記にも「朝から三輪大明神に参詣し、二里程歩いて丹波市(今の天理市)で昼食をとり、又二里程歩いて帯解地蔵尊にお参りする。一里程で奈良に入り、御霊神社に参詣、元興寺の五重塔に登り、今御門町辺りで泊まった。」とあるから、上街道を歩く人達のコースになっていたようだ。
 奈良の名奉行 川路聖謨(としあきら)の「寧府紀事」にも、弘化三年に、この塔の三重まで登って、奈良町を眼下に見たとある。それから十年余りで、この塔は灰燼に帰した。
 昔々、人々が寝静まった夜更け、元興寺の鐘楼に鬼が現れて鐘をつきならしたりして、周辺の人達を悩ましていた。雷の申し子だと言われる強力の堂童子(後の道場法師)が追い払った鬼は鬼棲山(現在奈良ホテルが建っている所)に棲んでいたと言われるが、この五重塔にも鬼が棲んでいたという伝承があったらしく、名所図会には「美しい女を鬼ときく物を、元興寺(かごじ)にかまそというは寺の名」という歌が入っている。十八世紀頃でも、子どもがいたずらをしていると「そんなことをしていると、元興寺(かごじ)にかませるよ。」とか「元興神(かごぜ)が来るよ。」とか言われていたのだろう。奈良時代には威容を誇った元興寺も、江戸末期になると、奈良に住む人以外の観光客には、鬼の異名位に思われていたのかも知れない。
 宝徳三年(一四五一)土一揆によって金堂や禅定院が焼けた時も難を逃れ、大地震や落雷で破損した時(一八○二年には塔傍の松の木に落雷、一八三二にも落雷で破損している。)も、住職や寺僧たちの努力で、多くの人たちの勧進を受けて修理を施された。千二百年近くの間、南都の町に威容を誇って、奈良名所の一つとなっていた大塔に、思わぬ災いがふりかかったのは安政六年(一八五九)のことであった。安政六年二月二十八日夜、毘沙門町より出火した火事により、五重塔と観音堂、裏門、庫裡、普請小屋、物置などが炎上し、灰燼に帰してしまった。
 慶応三年(一八六七)には、観音堂の仮堂が建ったが、翌年の明治元年(一八六八)には神仏分離令が出て、奈良の町にも廃仏毀釈の嵐が吹き荒れ、塔の再建など、夢の又夢の世相となってしまい、塔跡の礎石が並ぶ、現在のような姿になってしまった。
 無住になってしまった時期もあって、昭和初期頃までは、元興寺は安政六年の塔炎上と共に無くなってしまったと思われていた。た大塔跡が、発掘調査されたのは、火災から六十二年も経た昭和二年の事であった。これによって大塔の基壇と礎埋納品などが見つかり、岩城隆利先生著の元興寺の歴史によると「昭和七年にはここが元興寺塔跡として史蹟に指定され、翌八年には出土した玉類、銅銭その他一切が、元興寺塔跡土壇出土品として重要美術品に指定された。」とある。
 大塔跡が整備されるにつれ、昭和十年頃には観音堂も再建され、代々のご住職(現住職は前田圭廣師)の努力により、復興を遂げられた。そう言えば、塔阯の門前に「史蹟元興寺塔阯(建立者)青島周村路 中谷藤治郎」という大きな碑が建ったのは、私が青島をチンタオと読める位の年になってからのことだ。その頃はここだけが元興寺の名残だと思っていた。
 一方、極楽院(現極楽坊)と呼ばれる無住の荒れ寺はあったが、この極楽院も明治五年には、現在の飛鳥小学校の前身である極楽院小学校になったり、明治十六年(一八八三)に小学校が移転してからは、真宗の説教所となった。大正六年には大谷派本願寺立の女学校となり、昭和三年に女学校が廃校になってからは、子どもの背丈より高い草が生い茂るお化け寺のようになってしまった。昭和十八年頃、「あれは元興寺の遺構ではないか。」というので、辻村泰圓師が赴任されるまで、元興寺は五重の大塔の消失と共に無くなってしまい、塔阯を護る寺のみが残っていると、誰もが思っていた。その泰圓師も招集を受けたため復旧作業は中断したが、戦後、昭和二十三年から再開し、歴代住職はじめ、多くの人たちの盡力によって、世界遺産に指定される程の復興を成し遂げられたことは、誠にめでたいことだ。
 元興寺は南都七大寺の一つで、奈良時代から平安時代の初めにかけては、三論・法相などの一方の中心として勢力を誇っていたが、長い年月の間に幾多の変遷があって、東大塔の塔阯を護る元興寺は東大寺の末寺として華厳宗に、極楽坊と小塔院は西大寺の末寺として真言律宗になっている。
【奈良の住人に道を聞くと、真直ぐに行けば良いというのに、真直ぐに行くと突き当たる不思議な一郭】
 五重の大塔の塔阯前を通る芝新屋町の通りと中新屋町の東西の通り、西新屋町の通りと元興寺町の東西の通りが囲むエリアが、南北に通る上街道を、少し東に迂回させている一郭である。
 この一郭の南端には、弘法大師の書の師匠だったと伝えられる書聖、魚養の筆になる「元興之寺」という扁額を掲げ、当時日本一と言われた金剛力士像を安置した壮麗な南大門が建っていた。その奥には、持国天と増長天、霊験を施すこと限りなしと言われた程霊験あらたかな夜叉天を祀った中門があった。中門をくぐると三国伝来の霊仏である弥勒仏をご本尊とする、五間四面重閣の荘厳な金堂が建っていたそうである。つまり、この一郭に、南都七大寺の雄、元興寺の中枢が建っていたのである。この一郭の北東の角に、辻井さんという薬局があったが、その庭には金堂の礎石と思われる石があったという。礎石と言えば、数年前、中院町で火事があった時、焼け跡から大きな礎石が出て来て、元興寺に納められたというから、この辺り一帯には、沢山の塔頭が建っていたのだろう。
 芝新屋、中新屋、西新屋という町名も、いづれも元興寺境内で伽藍などがあった所である。宝徳三年(一四五一)の土一揆で焼け、十五年程かかってようやく再建した金堂は、強風のために倒壊し、再建した建物も、天文十七年(一四八五)の徳政一揆で焼かれた後、荒廃して芝原になったり、荒地になったりした。一五○○年頃から民家が建ちはじめ、俗説ではあろうが、芝原に新屋が建ったから芝新屋、その西側にも新しい家が建ち並んで来たから西新屋、元興寺の中院への通り道に新屋が建て込んだから中新屋と呼ばれるようになったという。【西新屋町】
 この町は、町の中程にある庚申堂を中心として、信仰と信愛で結ばれた人情の美しい町である。この町へ始めて来た人たちは、家々の軒先にぶら下がっている赤い縫いぐるみの申に目を奪われることだろう。中世、元興寺の中でも、一般民衆の信仰を集めていた堂は、極楽坊と吉祥堂であった。「吉祥堂は金堂の坤(西南)角にあり」といわれ、昔はこの町を吉祥堂町とも呼ばれたそうだ。
@庚申堂 町の中程の西側にあり、青面金剛、地蔵菩薩、吉祥天などをお祀りしている。庚申信仰は道教からきたものらしいが、人間の身体の内には、三尸(さんし)という小さな虫が棲んでいて、庚申(かのえのさる)の日に、人が寝静まると、寄生している人の身体から抜け出して、天帝にその人の罪を言いつけに行く。刑法上の罪を犯していなくても「あの人はこんな悪いことを考えています。」と三尸の虫が告げただけでも、その罪に応じて天帝が、その人の寿命を縮めるというのだ。だから「庚申の日」は、三尸の虫が出ていけないよう、仲間が集まって一晩寝ないでお経を唱えたり、碁や将棋で眠気をさましながら起きているのを庚申待と言った。
 日本では平安時代位から、貴族の間で行われていたようだが、しだいに仏教的庚申信仰になっていって、江戸時代には庶民の間でも非常に盛んになり、庚申講も各地で組織されるようになった。この頃になると、皆で真言や般若心経を唱えてお祀りをしたあとは、皆で飲食をしながら夜を徹して談笑した。これが、その土地の昔話や伝承、習慣などを若い人に伝える良い機会になったと言うことだ。
 しかし、明治の廃仏毀釈や、世の中が近代化して忙しくなってくると、庚申待の徹夜も、だんだん出来にくくなった。昔から伝わる縫い方のくくり猿が「猿が蚤をとっている姿に似ているので、三尸の虫も蚤のように潰されるのを恐れて出ていかない。」と言って、家族の人数だけくくり猿を作って、「身代わり申」と呼んだり、三尸の虫はこんにゃくが嫌いだからと、天帝がおられる北の方を向いてこんにゃくを食べたりするのを庚申待の代わりに行われるようにようになった。
 この町に住む、南治さんという方が、町内の人たちに呼びかけて、庚申のくくり申を皆さんで沢山縫って堂にも掛け、各家に吊ったり、庚申の日には、こんにゃくを沢山炊いてお参りの人々にふるまうなど、町内をあげて庚申さんに奉仕された。いままで庚申さんを知らなかった人たちにまで、この庚申堂が知れ渡るようになって、尊いご奉仕だなと感心していたのだが、和歌山のカレー事件以降、万一、何かあってはいけないというので、こんにゃくの奉仕は取りやめになった。話はそれるが、私どもの経営するガソリンのSSでも、眠気をさまして、交通事故防止の一助にでもなればと思って、コーヒーの無料サービスをしていたが、これもあの事件以降、万一の事があっては困るので取りやめた。人の善意が通用しない時代というのは侘しいものだ。
A小塔院 庚申堂から五十メートル程南へ行くと、小塔院へ入る細い径がある。ささやかな門があって、小塔院趾の碑も建っているのだが、うっかり歩いていると通り過ぎてしまう。内へ入ると、住職さんの心遣いか、草花などが植えられていて、鄙びた古寺の風情があり、入り口の径を通り抜けると、内部は意外に広い。北は庚申堂の裏あたりから、南は鳴川町に出る石段まで、かなりある。鳴川に面して建つ地蔵堂も、この寺の所属だから、嘉承元年(一一○六)に記された「七大寺日記」に、「吉祥堂は金堂の坤(けん)角にあり。」とし、吉祥堂のまたの名が小塔院であるとされているので、今ある庚申堂の辺りから、町角(鳴川のほとり)までの一画が、小塔院の境内だったのかも知れない。
 「吉祥堂すなわち小塔院とする記録は、古代並びにこれに倣っている文献に多いように見受けられるので、中世の何時の頃に、吉祥天画像(?)は吉祥堂を作って移され、もとの堂が小塔院の名で呼ばれていたのではなかろうか。」と岩城先生は誌しておられる。
 年表には「神護景雲四年(七七○)称徳天皇弘願の百萬塔が小塔院に納められた」とある。ろくろ曳で高さ約二十一センチ位の小塔が、八萬四千基安置されていたという。百萬なんて数は、数えるだけで大変なのに、電動の機械も無い時代、百萬もの小塔を作るのは、想像を絶する大事業だったであろう。信仰の力って偉大なものだと思う。
 今、元興寺極楽坊の国宝館に安置されている五重小塔(国宝)も、ここに祀られていたのだろう。東の五重大塔と、現在の小塔院趾とは、金堂に対して、ちょうど東塔と西塔の位置にあるのだから。
 歴史的なことは別として、私たちの子どもの頃は、紙芝居の場所として親しまれていた。紙芝居のおじさんが、拍子木を叩いて子どもを呼び集め、御霊神社の前で紙芝居を見た子どもたちは、おじさんについてぞろぞろと小塔院まで行って続きを見たりしていたので、当時の子どもたちに取って懐かしい場所である。
B鍛冶屋町 昔のお年寄りは、西新屋町のことを鍛冶屋町と呼んでいた。昔は鍛冶屋さんが軒を連ねていたらしいが、私が子どもの頃(昭和十年代)でも、二軒あった。その頃の小学校の国語読本や小学唱歌に「村の鍛冶屋さん」というのがあったので、興味を持ってよく見に行った。
 真っ赤におこった火で熱した鉄を、たたき台(?)の上に乗せて、見習の向こう鎚と代り番こに、トッテンカン トッテンカンと打っていくと、平たく伸びて形を変えていく。何度も火に入れたり打ったりしていると、堅いはずの鉄が魔法のように形を変えていくのが面白かった。鋤や鎌なども調子が悪くなると持ってきて修理して貰っていたようだ。子どもの頃の事だからよく覚えてはいないが、思い浮かべただけでも、ほんのり心温まる光景だった。
 私が五才位の時、仕舞を習いに行っていた平岡さんの若奥さんは、鍛冶藤という(今、新屋さんという会計事務所の所にあったと思う。)私がよく見物に行った鍛冶屋さんから嫁いで来られていた。東京の学校に行っておられた(鍛冶藤さんは昔からここにあったので、女学校までは奈良で、それから専門学校か大学に行かれたのだろう。)というので、当時、珍しい東京言葉だった。容姿も声も綺麗な方だったので、その言葉もひどく新鮮に聞こえて、つい一寸真似をすると、店のぼんさん(見習い店員のようなもの)に「箱根知らずの江戸っ子弁」と、ひやかされた。その頃、東京というのは、それ程遠い感じで、私が十五才の時、初めて東京に連れて行って貰った時は、五日位泊まって東京見物をした位だから、現在の東南アジアへの旅行よりも、遠い所へ行くような気がした。でもその頃には、昭和四・五年頃はやった「箱根知らずの江戸っ子弁」という言葉は使われなくなっていた。今、日帰りで東京へ行って用事を済ませるのとは、隔世の感を禁じえない。