第110回(2004年06月号掲載
御霊神社
 無実の罪で憤死した皇族や貴族方
 今は慈悲深い神様に
 奈良町の新年は、神仏に感謝の祈りを捧げることから始まる。朝、身支度を整えると、年齢の順番に神棚、庭にお祀りしているお稲荷さん、十二ヶ月の神様(歳神様だろうか、昔から十二ヶ月の神様と呼んでいる。)床の間に祀ってある鏡餅に向って、氏神様と奈良の守護神である春日様を遥拝、それぞれ二礼二拍子一礼で礼拝する。十二ヶ月の神様は、十二組の小さな鏡餅と、日月をかたどったお供餅を乗せた台を、三回捧げ持ってから礼拝する。次に皆で仏壇の前で般若心経をとなえてから、お屠蘇やお雑煮を祝い、子どもたちはお年玉を貰う。食事が済むと、それぞれ氏神様や春日様へ初詣をする。私どもの氏神様である御霊神社は、奈良町の大部分(七十五町内、約五千余戸)を氏子に持つ、県下でも珍しい程、氏子区域の広い神様である。
 御霊神社のご祭神は、皇族や貴族のやんごとない方々で、最初は奈良時代の末から平安時代の初期にかけて、相次いだ政変の中で、冤罪により非業の死を遂げた方たちを、その怒りを鎮めるために祀られた。当時の人々は、天変地異や、飢饉(ききん)、疫病の流行などを、その怨霊のなせる業として恐れ、恨みを鎮めるための怨霊会を挙行したり、御霊神社を造営してお祀りしたのだ。千数百年にわたり、おびただしい数の人々から信仰され、仰望されて御神徳高い、ご慈悲深い神様となっておられるので、今では「ゴリョーさん、ゴリョーさん。」と親しまれ、崇敬されておられる。
 現在、薬師堂町にある御霊神社は、むかし、元興寺の南大門があったと伝えられる場所の東向いに、白壁を巡らせて鎮座ましましている。御霊信仰は山部親王(桓武天皇)を、第五十代の天皇にしたいと画策する、藤原百川などの陰謀によって、非業の死を遂げられた、井上(いがみ)皇后と他戸(おさべ)親王を祀ることから始まる。百川たちの讒言によって、聖武天皇の皇女で光仁天皇の皇后であった井上皇后と、皇太子であった他戸親王の、皇后位、皇太子位を廃して、井上郷に幽閉し、更に宇智郡に移されて、御霊神社由緒記には「井上内親王、他戸親王は、現身竜になり給ふ。」とあるように、同時に亡くなられた。その後、百川大臣は、甲冑を着た武士が百人余り押し寄せて来る夢に襲われて亡くなったと伝えられる。また、皇太子の安殿(あて)親王が病気になられたり、疫病が流行するなど、いろいろな禍事が相次いだ。そこで、桓武天皇は諸国の国分寺に、金剛般若経を奉誦させて怨霊を鎮め、延暦十九年(八○○)、井上内親王の皇后位を復し、井上郷に、勅命によって御霊神社を創建された。全国にたくさんある御霊神社の中でも草分け的存在である。
 その後、宝徳三年(一四五一)の土一揆によって、元興寺の小塔院から出火し、金堂や南大門などが炎上し、大乗院まで延焼した。その時、焼けた元興寺の薬師堂の跡へ移築されたのが、現在の御霊神社だと言う。ちなみに、薬師堂にお祀りされていた薬師如来像は、現在も、鳴川町の徳融寺の薬師堂に、大切にお祀りされている。

【御霊神社 本殿の御祭神】
 中央の本殿には、先に述べた井上皇后と他戸親王 と事代主命(ことしろぬしのみこと)がお祀りされている。
 事代主のコトは(言)シロは(知る)の意で、天皇を守護する託宣の神だ。事代主は国津神として、宮廷儀礼や皇祖神の祭礼を通じて、天皇家とは特別な関係を持つ神様だと言われる。天皇の守護神として、宮中の神祇宮西院にお祀りされているというから、この場合も、井上皇后と他戸親王をお護りされているのだろう。

【御本殿東側社殿の御祭神】
 早良親王・藤原広嗣・藤原大夫人
◎早良親王(さわらしんのう)/光仁天皇の皇子で、桓武天皇の同母弟。元応元年(七八一)兄、山部親王が桓武天皇として即位されるにともない、皇太子となられるた。延暦四年(七八五)藤原種継が暗殺された時、犯人として捕えられた大伴継人や佐伯高成などが、早良親王と計って、種継を除く計画をたてて実行したと申し立てたので、親王は乙訓寺(おとくにでら・長岡京市にある。)に幽閉された。親王は無実を主張され、絶食をして潔白を申し立てられたが、十日余りの後、淡路島に移送される途中亡くなられた。遺体はそのまま淡路島へ送られ埋葬された。その後、夫人藤原旅子、皇太后、高野新笠、皇后藤原乙牟漏が相次いで亡くなられ、早良親王に代わって皇太子になられた安殿親王の症状も悪化したので、早良親王の怨霊説が取りざたされるようになった。桓武天皇は早良親王に「崇道天皇」の尊号を贈り、大和国添上郡八島に八嶋陵を造って改葬された。
 西紀寺本町には、崇道天皇社があって、御霊神社の宮司さんの息子さんが宮司をしておられる。崇道天皇の千二百年祭に八嶋陵にお参りになった高松宮様が、その帰りに、前触れなしに、この崇道社にご参拝になったと、前宮司(現宮司のお祖父さん。)が驚愕すると共に、欣喜雀躍しておられたのを思い出す。
◎藤原広嗣 藤原式家の頭領 宇合(うまかい)の第一子であるが、時の橘諸兄(もろえ)政権の中核である玄9や吉備真備と対立して、天平十年(七三八)大宰少弐に左遷された。これを不服とした広嗣は、七四○年八月に玄9と吉備真備を除くことを要求して、弟の綱手と共に挙兵した。広嗣は、大宰少弐の地位を利用して九州方面から兵を集めて戦ったが、戦に敗れ、弟と共に斬られた。
 それからしばらくして、斉明天皇が筑紫の行在所で崩御され、追善のために観世音寺を長い年月をかけて建設されていたのが落成した。落慶法要の大導師として玄9が筑紫に赴き、高座に登って鐘を打ち鳴らすと、にわかに空がかき曇って、雷鳴がとどろき、雷が現れて玄9をさらい取って雲の中に入った。雷となって玄9をさらった広嗣の怨霊は奈良の都まで来て、玄9の頭は頭塔の場所に、肘は肘塚に、胴は押上町にと、バラバラにして撒き散らしたという怪談めいた伝説が残っている。
◎藤原大夫人 藤原南家の藤原是公(これきみ)の息女、吉子。桓武天皇の夫人となり伊予親王を産むが、伊予親王が冤罪を受けたため、母子ともに自殺する。

【御本殿西側社殿の御祭神】
 伊予親王・橘逸勢・文屋宮田麿
◎伊予親王 桓武天皇の皇子。政治的力量が豊かで、管絃の才にも恵まれ、桓武天皇の信頼も厚く、天皇は巡幸や狩猟の際に、よく伊予親王の山荘に立ち寄って、食事など共にされたそうである。しかし、八○六年に桓武天皇が亡くなられ、その翌年十月に政治的陰謀事件に巻き込まれて失脚し、母 吉子と共に自害した。
 はじめ、反逆の首謀者として捕えられた藤原宗成が、尋問されると伊予親王が首謀者であると主張したので、平城天皇の命により捕えられて、伊予親王母子は、大和国川原寺に幽閉された。無実を主張する親王と母は、断食をして抗議したが認められず、親王の地位を廃された翌日、十一月十二日、二人共毒を飲んで自殺した。後に無実であることが判明したが、人々は当時起った天災地変や有力者の死などは、親王母子の怨霊のたたりであると恐れおののき、御霊会で祀られることになった。
◎橘逸勢(たちばなはやなり) 平安初期の三筆(嵯峨天皇・空海・橘逸勢)の一人で、特に隷書に秀でていた。
 八○四年、空海・最澄と共に遣唐使の一員として入唐し、唐でも橘秀才としてその書才を賞められたという。
 仁明(にんみょう)天皇が即位された時、淳和(じゅんな)上皇の皇子、恒貞親王が皇太子となられたが、承和(じょうわ)九年(八四二)、橘逸勢などが恒貞親王を擁して謀反の計画があるとして捕縛された。恒貞親王は皇太子を廃されるという、世に言う承和(じょうわ)の変が起った。
 捕えられた逸勢は罪状を認めず、拷問を受けて、非人として伊豆に流される途中、遠江国で病死した。死後、八五○年には無実であったとして正五位下に復され、三年後には從四位下を贈位された。貞観五年(八六三)の神泉苑での御霊会では、六柱の一人として祀られているから、やはり心にあたる事があったのだろう。
◎文屋宮田麿 宮田麿は八一一年、鎮守府将軍 文屋綿麿に従って蝦夷征伐に行った。勇猛な戦いぶりで蝦夷人を皆殺しにしたので、その怨霊によって国中に天変地異が起ったと伝えられる。その後、筑前守として任地にある時、新羅と結んで国家に反乱を企てたとの讒言により、伊豆に流罪となり、その地で没したと伝えられる。宮田麿の失脚も蝦夷人の怨み、また、人々は無実の罪で非業の死を遂げた宮田麿の怨念も恐れたのであろう。
 以上、正面の三社殿には、八柱の御霊神と、宮中の守護神 事代主命がお祀りされている。
 思いもかけぬ冤罪で、非業の死を遂げたとは言うものの、もともとは、慈しみ深いやんごとない方々だから、誤解がとけて懇ろにお祀りされ、千何百年もの間、おびただしい数多の人々からの崇敬を受けて、御神徳高い神様として、参詣する人々を護ってくださっている。

【若宮】 菅原道真
 本社三殿の右奥に、若宮として菅原道真公をお祀りしている。菅原氏は代々学者の家柄だが、道真(八四五〜九○三)も十一才で優れた詩をつくって、お父様を驚かせた。
 元慶(がんぎょう)元年(八七七)文章博士となり、仁和二年(八八六)讃岐守として赴任した。その任期中に、宇多天皇と藤原基経の間に阿衡(あこう)事件が起った。阿衡事件とは、八八七年、宇多天皇が即位して、基経を関白に指名されたが、その勅書に「よろしく阿衡の任をもって、卿の任となすべし。」との辞があったのを、基経は「阿衡」とは実権の無い礼遇を意味すると非難して、政務を顧みず、廷臣の間でも、阿衡の意を巡った論争がまきおこった。
 天皇はやむを得ず詔書を改訂されたが、宇多天皇はこの屈辱を非常に遺憾に思われ、事件の際、基経に手紙を送って練言した菅原道真を腹心として登用し、関白の権力を欲しいままにした基経が死んだ後は、基経の子 時平と道真を並んで政務にあたらせ、藤原氏の勢力の抑制をはかられた。
 八九三年、醍醐天皇に位を譲られる時も、道真一人を相談相手にされたという。八九九年、時平が左大臣になった時は、道真を右大臣に任じられた。学者出身の大臣は吉備真備以来で、当時は破天荒な出世であった。
 これに対して、藤原氏や学閥の反感は大きく、延喜元年(九○一)、道真は天皇の廃立をはかったということで、突然、大宰権師(だざいのごんのそら)に左遷された。これは時平などの策動によるものであった。道真は配所に蟄居し、翌々年二月に亡くなられた。
 没後、道真のたたりと言われる凶事が相次いで起こり、九二三年、罪を取り消して本官に復し、九九三年には正一位太政大臣を贈られた。その前から民間では、北野に祠を建てて天満天神として祀られるなど、書道文芸の神様として崇敬を受けていた。
 また、道真の霊は雷神となって猛威をふるったといわれ、「北野天神縁起」には、九三○年清涼殿に落雷して廷臣を殺傷し、醍醐天皇も地獄に落ちたと伝えている。
 荒ぶる神としての道真像は、やがて利生の神、王城鎮護の神として仰がれるようになった。また、道真は優れた学者であったところから、学問・詩文の神として尊敬されている。これからの入学試験シーズンにはお参りが多いことだろう。

【祓戸社・出世稲荷社】
 神様にお参りするには、まず祓戸社にお参りして、身を清めてから参るのが本来だから、一番先に書かなくてはならないのに、遅くなってしまったが、御霊神社の南門を入ると左側に祓戸四神(瀬織津姫/せおりつひめ・気吹戸主/いぶきとぬし・速秋津姫/はやあきつひめ・速佐須良姫/はやさすらひめ)を祀った祓戸社がある。その隣に出世稲荷社があって、稲荷五柱大神が祀られている。山田熊雄先生の奈良町風土記によると、昭和二十五年に、京都・二条にある出世稲荷の分身を勧進して祀られたという。開運出世・商売繁盛の神様だが、縁結びにも霊験あらたかなお稲荷さんだという。
 御霊神社はあまり大きな敷地の神社ではないが、上記のように、やんごとない神様方が沢山、整然とお祀りされていて、信者たちから崇敬を受けておられる。
 祭典や神事も色々行われているが、ことに、十月十二日の宵宮には出店も沢山出て、境内は参拝客で埋まる。翌十三日の例祭にはお神輿の渡御があり、天狗さんや獅子舞、可愛らしいお稚児さんさんなどがお供をされる優雅なお渡りが出る。私たちが子どもの頃は、氏神様の秋祭りは学校がお休みだったので、お祭りの来るのを指折り数えて待ち、お祭りは子どもで一杯だったが、この頃は休みにならないのと、少子化で、少し淋しくなった。