第116回(2004年12月号掲載
奈良町に息づいてきた
伝統文化
 この間、朝日新聞の記者の方が「ならまちとお茶」について聞きに来られたが、お茶にはあまり詳しくない私は、子どもの頃から見聞きした思い出話だけをして、茶道研究の泰斗である永島福太郎先生著の「初期茶道史覚書ノート」をお貸しして、「永島先生を訪ねて、直接お話を聞かれたらどうですか。」とおすすめした。
 思い出話といえば、私が子どもの頃、茶道や華道、謡曲は男芸で、女もたしなみとして習うけれど、祖父や父(幕末や明治生まれの人々)は、旦那衆と呼ばれるには、師範免許を頂ける程、習得しなければならないものだと思っていたようだ。これらの稽古事は単なる芸事ではなく、謡曲・能楽は歴史や文学に、茶道・華道は哲学や美学に通じ、精神修養にもなるものだから、学校が少なかった時代、大学へ行くようなものだったのだろう。
 当時は「ぼんさん」と呼ばれていた丁稚や中番頭位までは住込みだったから、仕事を済ませた後で、奥さんから点て出しのお茶の飲み方位は教わっていた。その頃は、夕食の後、夜遅くまで、番頭さんから、習字やそろばん、帳面のつけ方等も習っていたものだ。
 朝早くから仕事をして、夕食後まで大変だったろうと思うが、その時代の丁稚さんは、子どもが小学校や高等小学校を卒業すると、親が「商売仕込んでやっておくんなはれ。」と言って、商家へ預けに来た。預かった方も、一通りの世渡りの基礎知識を教える義務感のようなものがあったのだろうけれど、丁稚の中には小学校在学中に店に来て、店から学校へ通った子もあるようだから、よく辛抱したものだと思う。結婚して通いの番頭になる頃には、簡単なお点前等も勉強していたようだ。煎茶を入れるにしても、その頃は必ず、湯冷ましを用意して、一旦、沸騰させた湯を湯冷ましに入れて、煎茶なら六十〜七十度にしてから急須に注ぎ、玉露なら四十〜六十度位にまで冷まして、まったりとした甘味のあるお茶を楽しんでいた。
 ところが、昭和六年(一九三一)勃発した満州事変に端を発し、旧清朝の最後の皇帝で、廃帝となっていた愛新覚羅溥儀(あいしんかくらんふぎ)氏を皇帝として、満州国が樹立された。その独立によって平和を取り戻したようにみえたが、昭和十二年(一九三七)七月七日の盧溝橋事件勃発により、北支事変と呼ばれていたのが、拡大して日中戦争となり、太平洋戦争になって、第二次世界大戦の重要な構成要素をなす戦争へと発展していった。満州事変以来、昭和二十年(一九四五)八月十五日に終戦を迎えるまで、十五年戦争と呼ばれる程の戦時体制に入ったので、若者たちは兵隊や軍需工場に徴用される、物資は不足するで、お茶やお花どころではなくなってしまった。
 終戦後は、戦前のような徒弟制度は無くなったし、若い人たちの趣好も、ジャズやダンスに向いたりして、お茶は、一般町衆の楽しみというより、茶道は伝統的な生活文化として、日本文化への理解を海外に求めるための重要な役割を果たすようになり、礼儀を修得して、精神修業、美意識の向上等、教養を高める趣味として、今では、男芸というより、女性の方がお茶を習う人が多くなった。
 しかし、つい先日、近所のさかきはら美容院へ行ったら、先生から「朗ちゃん(私の孫)、今でもお茶、やってはりますか。」という話が出た。朗は、甲南大学を卒業してから直ぐコロラド大学に行った。アメリカに四年程滞在して帰国してからは、修業のために東京のエクソン・モービル本社で一年半程勉強させて頂いてから、奈良に帰って来て、私どもの家業に従事している。そんな経歴の持ち主なので、朗というと一瞬、英語とか、コンピューターといったイメージが先に来て、お茶とは結びつかなかった。「いいえ、どうしてですか。」と聞くと「うちの次男が小学校で朗君と同級だったので、よくお宅へも遊びに行きました。ある時、朗君が『皆でお茶を飲まないか。』と言って、お盆に著、茶碗や棗(なつめ)、茶筌等を載せて来て、お茶を点てて飲ませてくださったというので、さすがだな、って感心してたんですよ。」とおっしゃった。それで、やっと思い出したのは、二十年程前のことである。
 私の家の近くに、高林寺という、中将姫ゆかりの尼寺がある。
 地蔵盆やお十夜に、百萬遍の数珠繰り(大きな一つの数珠を大勢の人で『南無阿弥陀仏』と百萬遍念仏を唱えながら繰りまわす法会)がある。朗は近所の子たちと一緒に参加して、声をはり上げてお念仏を唱え、お下がりのお菓子を頂いて帰るのを楽しみにしていた。そういえば、温厚でやさしい尼さんを慕って、幼稚園か小学校の低学年の頃、数年間、帛紗挟を持って、お茶を習いに行っていたことがあるのを思い出した。息子の徹も子どもの頃、親しいお客様が来られると、よくお盆点てをしてお茶を差し上げていたが、朗が子ども同志でお盆点てをしていたとは知らなかった。こうした子どものゴッコ遊びに点茶が出てくるのも、奈良町らしいなと思った。
 ずっと昔のことだが、山中(山添村)から来た九十才位のおばあさんにお茶を出したことがあった。すると、そのおばあさんは、茶gや茶杓には興味を示さないのに、茶gを拭いていた茶巾に興味を持って「ちょっと、それを見せてほしい。」と言われるので、渡すと、拡げて見て「ああ、これだ。」と叫ばれた。びっくりして訳を聞くと、村では苧うみというのをよくする。麻の皮から苧を採って、一筋の糸に繋ぎ合わせて糸枷(かせ)を作る。それを織ると、薄い綺麗な布が出来るのだが、その繊細な麻布を小さく切ったものが廻ってきて、切り口をかがる仕事をする人もいた。こんな薄い布の小さなものをかがって何に使うのだろうと、おばあさんはかねがね不思議に思っていたのだが「こうして使うもんけ。」と心から納得されたものだ。知る知らないにかかわらず、随分長い間、お茶巾づくりに貢献して来られた訳だ。奈良はやっぱり、お茶の作法とか、方式にかかわらず、お茶とは関係が深いのだなとつくづく思った。
 このように、奈良町の庶民に、お茶が作法としてではなく、日常生活に入りこんで共生していたのには、この高林寺に由来するところが大きい。
 現在、高林寺のある場所は、藤原南家の嫡流で、天平時代、右大臣を務められた藤原豊成卿の屋敷跡になる。当麻曼荼羅で有名な中将姫は、天平十九年(七四七)、豊成卿の一女として誕生され、十七才で当麻寺に入って出家されて法如尼となられるまで、修道された地と伝えられる。称徳天皇の神護景雲元年(七六七)に豊成卿が亡くなられた時、この地に葬り、寺が建てられた。中将姫に仕えて尼になった藤原魚名の息女が、中将姫の入寂後、この御廟を護り、豊成卿と法如尼をお祀りしたと伝えられている。
 こうした格式高いお寺ではあるが「兵火に焼かれたり、天災にあったりしながらも、豊成卿の古墳を護ってきた高林寺に新風が吹き込んだように、甦らせたのは、約四百年前、数寄者(風流な人、ことに茶道を好む人たち。)の『高坊一族』がここに住み着き、さらに連歌師、医者などが寄寓して、茶道・歌道・花道などの文化活動を盛んにして、この一角は奈良の南の町民文化の一大中心地(大サロン)として発展したということです。」と高林寺の中興九世 智成珠慶(稲葉)さんは言われる。
 奈良は、茶禅一味の境地に達し、わび茶の開祖とされる村田珠光(一四二三〜一五○二)の出身地である。珠光さんは、現在も奈良市菖蒲池(しょうぶいけ)町にある、称名寺で修業されていたこともあるので、お茶には縁の深い土地柄であったのだろう。称名寺には、今も珠光ゆかりのお茶室「珠光庵」(独炉庵と呼ばれる。)や井戸もあり、珠光さんの分霊をお祀りした墓もあって、毎年、珠光忌が催されているようだ。菖蒲池町は奈良の北部になるので、珠慶さんは、あえて奈良の南と言われたのだろう。昭和初期に志賀直哉さんが奈良の高畑に住んでおられる時、文化人たちが寄り合って「高畑サロン」と呼ばれる文化人グループを作っておられたようなものだなと思う。
 ところで、元興寺の中程にある私の家の連子格子の辺りから、川之上町に通じる道がある。この辺りは、平城時代には、元興寺の封綱蔵(ふうこうぞう)があった跡だというので、正式には納院町という地名だが、昭和の初めの頃までは、ハッチャン辻子(ずし)と呼ばれていた。子どもであった私は、ハッチャンという人が住んでいるから、ハッチャン辻子だろうと思っていたが、四百年位前には、ここに鉢屋という長者のお屋敷があったからだという。たいへんなお金持ちで大商人であると同時に、すぐれた文化人でもあったようだ。
 茶道に詳しい、関西学院大学名誉教授の永島福太郎先生の著書「南都高林寺」に「天正二年(一五七四)三月、高坊は近所の富商鉢屋宋与・塗師屋空巻と連れ立って堺に至り、十日朝に織田信長の茶堂として輝く津田宗及(堺の豪商茶人 天王寺屋宗及)から招かれ、三名一席の茶湯に参じたのである。宗及は客衆として(宗及茶会記に)『南都之高坊』らの名を列記している。」と記されている。
 昭和六十三年、高林寺に長年の宿願であった茶室「高坊」が完成した時、住職が永島先生に、茶室の扁額をお願いされたところ、この宗及自筆の茶会記に記されていた「高坊」の文字と、著者を示す宗及の花押も、この茶会記の紙背文書から採択されたそうである。
 豊臣秀吉が天下様の権威を誇示した天正十五年(一五八七)の北野大茶会にも、南都から僧俗三十六人が参じて茶席を設けられた。転害町の茶匠 松屋源三郎、東大寺四聖坊、高坊、これに社寺衆や豪商ら、遁世者などが加わっておられたようである。
 永島先生は「茶の湯が文化の華といわれた桃山時代、高坊がしばらく下町文化の中心だったといえそうである。やがて元禄町人文化時代が訪れる。さきの下町文化がこれに移行発達するが、不運にも高坊は衰退する。しかし、奈良で特異な下町文化の源流を起した高坊の功は大きい。」とも述べられておられる。
 大名茶人で有名な、松平不昧公(名は春治・はるさと 一七五一〜一八一八)のご領地の松江では、車曳きでも一服する時は茶を点てて楽しんだといわれるように、奈良町でも、気軽に抹茶を飲む習慣が受け継がれていたのは、高坊さんのおかげかも知れない。
 奈良町のまちづくり運動が二十五周年を迎えるにあたり、平成十六年十一月六日より、同二十三日まで、“賑・ならまち25〜響き合うまちづくり”という催しが、奈良町を挙げて行われることになった。そのさきがけとして、鳴川町の徳融寺では「所蔵文化財特別公開と涅槃図の絵解き」と称して、阿波谷俊宏住職様が、懇切丁寧に寺宝の説明をしてくださった。町のお寺に、これほど沢山の文化財があるのかと驚いた程、由緒深いものをいろいろ見せて頂いた。なかでも驚いたのは「曳のこす花や秋さく石の竹」という、連歌師 心前さんの自筆の短冊であった。
 現在、藤原豊成卿と中将姫の二基の石塔婆は徳融寺にあるので、風雲急を告げる中での、この風雅なやりとりは、徳融寺でなされたものと思っていたが、住職様が「これは井上町の高林寺から移されてきたものです。」とおっしゃるので年代を調べてみた。
 永禄二年(一五五九)大和信貴山に城を造り、大和平定作戦を起した松永久秀は、翌永禄三年に大和を統一して、奈良に多聞城を築いて畿内に君臨しようと、その築城を急いだ。戦国時代のことである、いつどこから攻められるかわからぬ時代に、山から石材を切り出していては、日時がかかり過ぎる。そこで久秀は、石塔でも石仏でも、城の石になるものは集めて来るよう命じた。
 高林寺でも、豊成卿と中将姫の廟塔が多聞城築城のために持ち去られようとした時、ここに寄寓していた連歌師の芦笋斎心前(ろしんさいしんぜん)が
 曳(ひき)のこす 花や秋さく 石の竹
 と詠んだ発句を久秀に贈ったところ、久秀もこれに心を動かされて、廟塔を運び出すのを思いとどまったという。心前は南市町の出身で、天下一の宗匠として信長や秀吉に知遇を受けたという臨江斎紹巴(じょうは)の一の弟子として京都に住んでいたが、当時、高坊に寄寓していたという。心前は天正十七年(一五八八)に没しているが、これも高坊に於てらしいということだ。
 ところが、その後、高坊が衰退してしまったので、延宝五年(一六七七)豊成卿と中将姫の墓碑と、心前自筆の短冊は、徳融寺に移されたおかげで、今も大切にお護りされている。徳融寺さんで預かって下さらなかったら、短冊なんか無くなってしまっていたかも知れないのに、これも御佛のご守護だろう。
 高林寺はその後、文化年間、寿保尼(一七五二〜一八一二)という、学徳優れた尼さんが、中将姫を慕ってこの寺を再興し、融通尼律を創めて弟子たちと共に厳しい修業をされた。この寿保尼を融通念仏宗中興の初代として、現在、九世智成珠慶さんと十世深妙慶信さんが、しっかりとお寺を護っておられる。
 先に記した鉢屋という豪商の屋敷があったと思われる東側の川之上町に児童公園があって、その前に「狂言大蔵流 宗家屋敷跡」と彫られた自然石の碑が建っている。この児童公園が出来る前は、徳村さんという菓子問屋だったが、その前、昭和の始め頃までは、辰市さん(字が違っているかも知れないが。)というお医者さんが住んでおられた。由緒ありげな白壁に囲まれ、風雅な門があった。先生は小柄な方だが、口ひげを生やし、いつも着物をシャンと着て袴をはいておられたので、古武士のような風格があった。漢方医のように見えるが、漢方薬ではなく、粉薬や水薬注射もする内科のお医者さんだった。私はこのお医者さんの凛としているのにやさしい人柄と、その家の雰囲気が好きで、ちょっと風邪をひいても、よくこのお医者さんに行った。
 小さな子どものことだから、奥さんにもよく相手をしていただき、庭なども見せてくださったが、立派なお庭だった。幼い頃の記憶だから、定かではないが、あれだけの庭は五十年や六十年では造れないと思うから、家は宗家の家というのは無理かも知れないが、お庭は宗家の頃からのものではなかったかと、懐かしく思い出す。
 やはり、高坊周辺は奈良の文化圏だったのだろう。