第115回(2004年011月号掲載
元興寺界隈の
歴史的変遷
【奈良時代の元興寺町界隈】
 上街道の元興寺町と井上町の間に、上街道と交差する通りがあって四ツ辻になっている。旧元興寺の境内は、猿沢池の南側を流れる率川を、興福寺との境界として、この四ツ辻になっている通りまでだったと伝えられる。
 それを語るかのように、この通りの東の町名を築地之内町、西側を花園町という。元興寺の南大門は、元興寺町の北側に今も残る、通りが少し出っ張って曲がっている辺りにあったようだ。その南も境内で、現在、元興寺町と呼ばれている通りの東側にはお経や什器を納めた蔵が建ち並んでいた。一方、通りの西側は、元興寺の諸伽藍にお祀りされている沢山の仏様方にお供えする花を育てた花園であったとのことである。広い花園で花を育てていたのは、荘園から徭役(ようえき 税金代わりに労力を提供する人達)として派遣された若人達だろうが、堂塔伽藍に祀られた諸仏にお供えするには、おびただしい数の四季の花が必要だったろう。
 この頃の南都七大寺は、貴族の子弟教育の大学の役割を果たしていた。昔のお坊さんというのは、行基菩薩が橋を架けたり溜池を掘ったりするのを指導されたり、弘法大師が病に苦しむ人に薬草を与えられたと伝えられるように、お経を読むだけではなく、土木も建築も、医学、薬学、農学、文学、哲学と種々な知識を持っておられ、当時の大寺は、現在の総合大学のようなものであったと思われる。飢餓や貧困に苦しむ、当時の民衆を救うには、必要な知識であり、それが本当の仏様のお慈悲だったのだろう。
 従って、四季花を絶やさないため、この花園を管理する「花園院」が置かれ、「この花を採った後には、この種を蒔きなさい。」「川端の湿地にはこれを植えなさい。」といったような指導をされていたのだろう。元興寺が火災や災害に見舞われた時は、あまり後片づけを要さない花園の辺りに、いち早く飯場が仮設され、しだいに本格建築の町家が連なるようになった。現在も町家が建て込んでいるので、花園院の遺構を探す発掘は出来ていないという。

【記憶にある築地之内・花園・東木辻町近辺】
1.飛鳥川
 私の子どもの頃は、築地之内町の道の北側を、飛鳥小学校の方から小川が流れてきていた。日本で最初の本格的な仏教寺院として、飛鳥に創建された法興寺(飛鳥寺)が、平城遷都に伴い、
中金堂や本尊(飛鳥大仏と呼ばれている。)等を飛鳥に残し、他の伽藍の大部分を平城に移して、元興寺と改称された。さらに、飛鳥の旧法興寺も本元興寺と呼ばれるようになり、飛鳥という地名も平城京に移された。
 大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)が
ふるさとの 飛鳥はあれど 青丹よし
 平城のあすかを みらくしよしも
 と咏っているように、元興寺やその東南一帯を飛鳥と呼ぶようになったので、この川も飛鳥川と呼ばれていたようだ。
 昔は清流であったであろう飛鳥川も、私が物心つく頃には、ドブ川のような汚い川になっていたが、それでも近所の古老に聞くと、子どもの頃は鮒釣りをして、結構釣れたそうだ。
 元興寺は、北の境界を率川、南の境界を飛鳥川としていたようだ。飛鳥川は元興寺町に入って暗渠となり、南都銀行の元興寺支店(今は私のうちの倉庫になっている。)の横で姿をあらわし、三棟町を通って、鳴川と名前を変えて鳴川町の方へ流れていた。これには次のような伝説がある。
 元興寺の高僧、護命僧正が小塔院で読書をしておられたところ、蛙がやかましく鳴いて読書を妨げたので、呪文をとなえて蛙を鳴き止まされた。以来、蛙が鳴かなくなったので、人々が不鳴川(なかずがわ)と呼んだのが、いつの間にか鳴川となったという。また、川の流れが音を立てるので鳴川と呼んだという説もある。いまは、これらの川も皆、暗渠になって、地上からは姿が見えなくなってしまった。
 ところで、中将姫のお父様の藤原豊成公のお屋敷は、三棟になっていたから、この辺りを三棟町と呼び、中将姫の産湯に使われたという井戸も三棟町の誕生寺に残っている。だから、飛鳥川を境界としていたとすれば、井上町の高林寺から三棟町の誕生寺辺りまで、豊成公のお屋敷であったのだろうと納得出来るのだが、その西側の鳴川町にも元興寺の別院であったという寺院もあり、よく分からない。

2.花園町
 築地之内町から上街道を越えると花園町に入る。築地之内町も花園町も、菓子屋、燃料屋、酒屋、八百屋、写真屋、風呂屋、下駄屋、呉服屋さん等あって、近くに色町があるので、大変繁盛していた。
歯医者さんまであったが、子どもにとって一番親しみを感じていたのは、当時、一文菓子屋と呼ばれていた駄菓子屋さんだった。店にはお菓子だけでなくて、「当て物」と呼ばれた福引きのようなものや、ケンケン遊びに使う蝋石や、玉と呼んでいた目印に使う丸いガラスの平板、おはじきや男の子に人気のあるメンコや凧など、子ども達の宝物が一杯並んでいた。それらを物色するワンパク達を、眼鏡をかけたこの店のおばあさんが、いつもやさしい眼差しでニコニコと見守ってくださっていた。
 ある時、家へ来られたお客様が、「お嬢ちゃん、大きくなったらなにになりたいですか。」と聞かれたので、私は即座に「一文菓子屋のおばさん。」と答え、
祖母をあわてさせたことがある位、この雰囲気が好きだった。こういう子どものたまり場のような店は、たいてい、一町内に一軒位はあったものだった。

3.東木辻町
 慶長の頃(一五九六〜一六一五)この町の辻に、霊験あらたかなお地蔵様をお祀りした辻堂があって、そのそばに一本の大樹があったので、木辻と呼ぶようになったと伝えられる。郷土研究家であった故山田熊夫先生によると、「豊臣秀吉に仕えていた虎蔵・竹蔵という二人の奴が、秀吉の死後、竹蔵は奈良に住んで堀氏の養子になり、堀市兵衛と名のった。一方、竹蔵は奈良に居を構えて、当時全盛を誇った萬戸(まんこ)太夫と共に、堀市兵衛と力を併せて、この地に傾城廊を造ることを願い出、寛永六年(一六二九)傾城町を創建したのが、木辻の遊廓の始まりだ。」ということだ。
 江戸の吉原に遊廓を造る時も、ここから公娼を移したと伝えられる程の由来を持ち、西木辻町の方へ向う石畳の両側には、粋な木辻格子の置屋が軒をつらねていた。
 昭和二十年の終戦後は、人権の尊重、男女同権が叫ばれ、女性解放運動が盛んになって、昭和三十三年、国会に於て公娼廃止が議決されたので、三百年以上の傾城町としての歴史を閉じ、置屋も廃業された。

【近世の元興寺町】
 江戸時代の上街道は、お伊勢参りや長谷詣で、最も賑わっていた道だったが、ことに元興寺町は、汽車や電車が開通するまでは、問屋町として非常に繁栄していた。私の子どもの頃は、もちろん汽車や電車も出来ていて、目抜き通りは東向や餅飯殿、三条通になどに移っていたが、それでも第二次世界大戦までは、商店が軒を連ね、道路の舗装もいち早くなされ、アーケードの前身である天幕も立っていた。(その頃は東向も餅飯殿商店街も天幕だった。)少しでも繁栄を取り戻そうと、夏場は一六の夜店も開かれて、結構賑わっていた。
 上街道沿いだけでもザッと思い出してみると、道の東側の南の角は西浦の散髪屋さんだった。お弟子さんを何人もおいて、繁盛していたが、今は息子さんが東京でお務めなので、空地になってしまった。隣は薮田の酒屋さん。店も改装して元気にやっておられる。薬や煙草を売っておられた小林さんの家は、「ならまち格子の家」になっている。次は、売薬をしておられた堀さん、山田の金物屋さん、楠下の荒物屋さんと並んでいたが、今は堀さんの住宅になっている。
 多田の自転車屋さん、郵便局(今は道の西側の少し北側に移って、疋田さんの住宅になっている。)、疋田の蚊帳屋さん、東井の紙箱屋さん、昔はラジオ屋さんだったが、今は森口さんのお宅、私の家の駐車場、杉浦の菓子屋さん、松原の時計屋さん、吉川の下駄屋さん(今は杉浦さんの住宅。)中井の酒屋さんも奈良町らしく綺麗に改装して頑張っておられる。その隣は、和田の度量衡屋さんだった。江戸末期から続く、はかりの製造販売をしておられたが、今は森井さんというお医者さんになっている。隣の吉田さんは雑貨屋さんをしておられたが、今は新築の住宅になっている。北の角の稲葉さんのお家のある所は、寝具や介護用品の賃貸販売の大手、小山株式会社の発祥の地だそうだ。私が物心ついた頃には稲葉さんのお宅になっていたが、私の祖父母の若い頃には、この元興寺の地で商売をしておられて、非常に発想が良く、一族力を併せて努力されたので、今日の大をなされたそうだ。
 私の祖父母とは兄弟のように仲良くさせて頂いていたので、小山家が三条通りへ移られてからも、小山のおばさんが遊びに来られると「おのぶさん(小山)」「おうめさん(増尾)」と呼び合って、楽しそうに話をしていた姿が今も目に浮かぶ。
 道の突き当たり(実は突き当たりではなく、旧元興寺の南大門の跡が出っ張っているのだが。)は人力車の溜り場になっていて、人力車が五、六台客待ちをしていた。今のタクシーのようなもので、この辺は人通りが多いので、結構利用があったようだ。私たちも家族で出かける時は、何台も車をつらねて走ったし(この頃の観光用人力車は一台に二人乗りして走っているが、その頃は一台に一人しか乗れなかった。)近いので気軽に利用できて便利だった。その隣は、昔は木幸という粉屋さんだったが、今は和田のはかり屋さんの番頭をしておられた岡田さんが「大和はかり」の店をやっておられる。その向いは松本のお豆腐屋さんで、一家総出でお豆腐や油揚を造っておられた。木の芽時には、頼めば木の芽田楽も焼いてくださった。しっかりとした美味しいお豆腐だった。道の西側の角は土田のあんま屋さん。ここも十人ぐらいのお弟子さんがいてなかなか繁盛していたが、今は隣の花屋さんの住居になっている。西井の花屋さんの所は、昭和の初め頃は下駄屋さんだった。ジッちゃんというおじいさんが、毎日鼻緒をすえたり、桐下駄を磨いたりしておられたが、子どもが無いので、よく近所の子どもたちが遊びに行って、おじいさんの話を聞いていた。
 その隣が京伊の洋服屋さんだ。今生きておられたらとっくに百才を越えておられる方が、「私が学校を卒業した時は、親に連れられて元興寺町に来て、京伊の洋服屋さんで服を作って貰い、多田さんで自転車を買って貰って、役所へ通ったものです。」と言っておられたから、奈良の洋服屋さんの草分けだろう。
 京伊さんと、私の家の間は、小島屋さんという大きな呉服屋さんだった。昔は、たくさん番頭さんや丁稚さんがおられたようだが、今は、店の分は西林さん(京伊)が買われて洋服屋になり、郵便局がその隣に移ってきて、奥は疋田さんの住宅、小島屋さん(福井)の番頭をしておられた市橋さんが独立して雑貨屋をしておられたい所が、息子さんの住宅と駐車場になっている。かなり大きな建物が五軒位建つのだか
ら、広かったのだなあと思う。
 その隣が、うちの先祖が安政元年から、大和茶と砂糖の店をやって来た砂糖傳増尾商店。私の家である。昔は、この店と向かいにある駐車場と倉庫を使って卸業務をやっていたが、今は牛車や荷車を使っていた時代と違って、トラックが出入り出来ないので、卸の方は循環道路沿いの紀寺の方に移して、元興寺の店は、奈良町を訪ねてくださる方達のために、江戸時代の人達が使っていた甘味、米で作った米飴、蜂蜜、黒砂糖、昔は殿様か大金持位しか食べられなかったという高級手造り砂糖の和三盆等、お客様が懐かしがられるようなものを選んで並べている。
 私の家の隣は丸栄さん(乾)という魚屋さんだったが、いまは乾さんと宮川さんのお家になっている。その隣は南都銀行の元興寺支店だったが、南都銀行も紀寺に移って紀寺支店となったので、今はうちの倉庫と駐車場になっている。
 その南は山田さんという八百屋さんだったが、今は住宅に。その隣は西林さんの分家(私が子どもの頃、パチンコ屋があったのは、この辺りではないかしら?)その南側は江戸時代に建った建物で、重要文化財に指定されている藤岡家。昔、この家は丁字屋さんという、丁字香を使った鬢付け油(びんづけあぶら)の店だった。藤岡さんも、紙の商いを手広くしておられた。
 杉さんは、私の小さい頃、ここで瀬戸物屋を開店された。当時としては派手な開店披露をされたので、今でも記憶に残っている。息子さんやお孫さんは銀行や会社にお勤めだったので、いまは住宅になっている。若林さんは菓子屋をしておられた。息子さんが芸事が好きで、長谷川一夫さんのお弟子さんになって映画に出たりしておられたが、引っ越しされたので、今は新しい家を建てだ方が、移り住んでこられている。一番南の角は八尾さんと言って、昔は湯葉の製造販売をしておられたそうだが、私の知っている範囲では、姉さんが和服の仕立を、妹さんは近鉄百貨店へ勤めておられ、気楽なので、よく家に遊びに来ておられたが、二人とも亡くなって、今は駐車場になっている。
 昔は子どもが多く、車も少なかったので、道路は子どもの良い遊び場になっていて、男の子達は凧揚げや陣取り合戦に走り回っているかと思うと、日だまりでベッタをしたり、女の子達は道路に蝋石で枠を書いて、ケンケン遊びや石けり、縄跳びや鞠つきに余念がなかった。軒並み、同じ年や二、三才違いの子ども達がいて、学校へ行くのも誘い合ったり、帰ったら仲良く一緒に遊んでいた。ちょっとしたけんかがあっても、年上の子が両方の言い分を聞いて、うまくリードしていたので、勝手に遊びまわっていても、それはそれなりに、統制がとれていたように思う。
 今でも時々「あいつとは丁稚仲間で、今でも仲良う付き合いしてまんねん。」というような言葉を聞くことがあが、丁稚さんは丁稚さん同志、番頭さんは番頭さん同志の付き合いがあり、それも話を聞くと、同じ町内だけではなく、近くの町の番頭はんや丁稚どん達が互いに行き来して情報交換等していたようだ。旦那さん達は商店会等で、経営方針や接客法を語り合ったり、町内の親睦のため運動会や旅行等の計画をたてる。
 商売を息子にゆずった隠居さん達は、互いの趣味の盆栽や菊作り、鴬やカナリアを見せあったり、お茶や謡の会を催したり、今の人達のように旅行や遠出は出来なかったが、それはそれなりの楽しみもあり、年代毎の交わりが互いに一丸となって、町内が仲良く助け合って暮らしていたようだ。
  世の中は 何か常なる飛鳥川
   昨日の淵ぞ 今日の瀬となる
 
という古歌があるが、人の暮らしも、世の中の様子も、いつの間にか変わって行くものだ。温故知新、昔のことを思い出しながら、前進する努力を続けたいものだと思う。