第114回(2004年10月号掲載
上街道6
中辻町と井上町
 肘塚郷を過ぎると、上街道は旧市内、いわゆる奈良町へと入ってくる。

【中辻町】
 この町は、東西にのびる旧五条大路と、南北に通る上街道が交わって辻になっているので、中辻町と呼ばれたのではないかと言われている。この町に、紀州藩の出屋敷というか、別邸と呼ぶのか、なにしろ立派な大名屋敷らしき建物があった。紀州藩が参勤交代の際、宿舎として使われた屋敷だということだ。紀州藩といえば、徳川家康の子頼宣(よりのぶ)が、紀州と伊勢・大和の一部を合わせた五十五万石五千石で入国し、紀州徳川家をたてて以来、尾張徳川家、水戸徳川家と並んで御三家として諸侯の首座に位した。将軍に嗣子の無い時は、尾張、紀州両家の中から将軍の継嗣となり、水戸家は代々副将軍となると定められていた程の名家であり雄藩であるから、その大和屋敷が立派であったのは当然だ。私は中に入ったことがないので、邸内がどうなっていたのかは分からないが、門や土塀は大名屋敷の風格を持つ堂々としたものだったので、よく時代劇の撮影が行われていた。長谷川一夫や阪東妻三郎、大河内傳次郎などが来ていると、黒山のように人が集まって見ていたから、今だったら交通停滞をおこして、クラクションを鳴らされているところだろうけれど、昭和の初年頃はのんびりしていたから、通行人も一緒になって見ていたのではないだろうか。
 私の家は済美小学校の校区にあるが、済美小学校の前身は明治六年(一八七三)鳴川の徳融寺を教場として魁化舎(かいかしゃ)という名前で誕生した。(徳融寺さんでは、それを回顧して、現在二ヶ月に一度、奇数月の第一土曜日に「大人の寺子屋」を開いて、広く一般人の教養の向上に寄与しておられる。)
 明治八年には、この旧紀州屋敷に移り、十一年には名前も中辻小学校に変わったそうだ。私の祖母は明治十四年頃に、この中辻小学校に入学している。明治三十三年に陰陽町に移るまで、この建物は小学校として使用されていたのだから、外から見ると大名屋敷の面影を残していても、内部は随分改造されたのだろう。その後、孤児院や養老院などの福祉施設として使われていたようだ。
 この大きな屋敷の横に路地があって、五、六軒の家が建っていた。その一軒に吉田さんという老夫婦が住んでおられた。ご主人は、若い時、警察官をしておられた誠実な方だというので、何軒かの家主が借家の管理を頼んでいた。
 私の家もそのうちの一軒で、持ち家の雨漏りや傷み具合の管理や、家賃を集めたりしてくださっていた。月末に集まった家賃を家へ持って来てくださった時は、のんびり茶飲み話をするのを楽しみにしておられた。
 その茶飲み話の一つに「うちのばあさんは綺麗好きで、掃除をして、そこら辺をピカピカにするのが趣味で、便所に入る時でも、絞った雑巾を持っていって、一日何度でもその辺を拭きまくりよる。『こんな掃除好きな人に別荘番でもして貰ったら、いつも綺麗で気持ち良いだろうから、夫婦で住み込みで来てくれないか。』と言ってくださる方がありますが、やっぱり住み馴れた所が良いし、ばあさんも『自分の家だと思うから、自分の子を可愛がるように柱や床をなでさすりしているけれど、よその家まで掃除に行きたくない。』と言いますので、お断りしようと思っています。身体の続く限り、借家の管理をさせて頂きますので、今後ともよろしくお願いします。」と言っておられたのが、今でも鮮やかに記憶に残っている。
 昔は、こうした律義な働き者が多かったから、あの路地に五、六軒並んでいた家に住んでいた方達も、それぞれに家族を思いやりながら、幸せに満足して暮らしておられたのだろう。
 吉田さん夫妻は、数十年前、天寿を全うして亡くなられたので、旧紀州屋敷近辺へもめったに行くことがなく、うわさも聞かなくなっているうちに、十数年前、フッと気がつくと、中辻町の東側循環道路沿いが大きな広場になっていて、紀州屋敷も、吉田さん達の家も、みんな無くなっていた。
 今は近代的なマンショが建っている。旧幕時代の豪華な夢の趾や、明治・大正産まれの人達のつつましい喜びを見守った家は消えたが、現代人の希望を育み、幸福な生活を護る高層建築が堂々と建っているのを見ると、時代の移り変わりを実感する。
 昔は立派な蚊帳屋さんや、菓子屋・薬屋・酒屋・下駄屋さん等が軒を並べ活況を呈していたが、今は静かな住宅の町になっていて、数軒残っている商店が街道筋の面影を伝えている。

【井上町】
1.町名の由来
 循環道路を北に向かって渡ると井上町に入る。平城時代、白壁王(光仁天皇)の妃に井上内親王(いがみないしんのう)がおられた。井上内親王は、聖武天皇の皇女で、壬申の乱(じんしんのらん)以来天武天皇系で受け継がれてきた皇統を、天智天皇系の白壁王が天皇に即位出来たのは、妃が井上内親王であったからだと言われる。従って、光仁天皇が即位されるのと同時に内親王は皇后となられ、お子様の他部親王(おさべしんのう)は皇太子となられた。
 皇太子の他部親王がまだ十二才なのに対し、光仁天皇と夫人 新笠姫の間には三十六才になられる山部親王(後の桓武天皇)がおられた。この山部親王に、将来、天皇になって頂きたいと願う人達の陰謀によって、宝亀三年(七七二)「皇后は長年にわたって天皇を呪詛しておられる。」と讒言(ざんげん)され、厭魅(えんみ)大逆の罪として廃后され、他戸親王も皇太子位を剥奪されて、井上郷の籠居に幽閉されてしまった。と言うより、井上内親王が籠居なさったので井上郷と呼ばれるようになったのだろう。
 その翌年、光仁天皇の同母姉、難波内親王が亡くなられた。七七三年と言えば、光仁天皇が六十四才の時だから、お姉さんの難波内親王はもちろんそれより年上。当時としては「長寿を全うして亡くなられた。」と言えるお年なのに「難波内親王の死は井上内親王の厭魅によるものだ。」として、母子共に大和国宇智郡に幽閉されて、一年半後に、日を同じくして亡くなられた。この死は、他殺もしくは自殺の可能性が強く、伝説では、現身のまま龍になって、陰謀の中心人物であった藤原百川を蹴殺したと伝えられている。
 その他、祟りとされるいろいろな禍事(まがごと・災い)が起ったので、墓を改葬して山陵としたり、后位を追復して吉野皇太后と追称したりされた。一説によると「祟りを鎮めるために、現在、薬師堂町にある御霊神社が井上郷に建てられ、宝徳年間(一四四九〜一四五二)に現在地に移ったが、そのいわれによって井上町と号す。」とも言われている。

2.昭和初年頃の井上町の町並
 太平の世となって庶民も旅を楽しめるようになった江戸時代から、明治時代、汽車や電車が開通する頃まで、京街道から奈良へ入って、奈良・丹波市(天理)・三輪・桜井を結び、伊勢街道や長谷街道、熊野古道へも通じる上街道は大和の主要街道であった。その頃の井上町や元興寺町は、観光客向けに賑わった三条通りや猿沢池周辺に対して、物資の集散地的な役割を持つ商業地域として繁栄を極めていた。
 ところが、明治三十二年ね国鉄桜井線が開通し、さらに東山間と京終を結ぶ索道が出来、旧中街道と呼ばれていた古道が県道となって整備されるに伴い、大正七年二月、南京終町に青物や魚の卸売市場が開設されたので、食品の集散地的な役割はそちらの方へ移っていった。
 また、大正四年に大阪と奈良を結ぶ大軌電車(近畿日本鉄道KKの前身)が開通するにつれて、観光客は東向に設けられた奈良駅から、東大寺や興福寺、奈良公園へ直行するようになって、上街道の商店街は日に日に客足が衰えていったようだ。
 とは言うものの、私が子供であった昭和の初め頃は、まだ商店街の面影が残っていて、東向が「商友会」、餅飯殿が「商戦会」というのに対して、元興寺町と井上町合同で「勉強会」という商業会があって、少しでも賑わいを取り戻そうと、五月から九月までの一と六の日(一日、六日、十一日、十六日…)には夜店を開いたり、努力を重ねていた。
 いま、心覚えをたよりに町並を回想すると、通りの東側の南角は、小野鉄工所の住宅と工場。小野さんの奥さんは絵が上手で植物に詳しかった。その北隣が才田(さいた)さんの傘屋さん。店の間が板張りになっていて、蛇の目や番傘などの和傘を張ったり乾かしたりしておられた。和傘は洋傘と違って、竹の骨に蝋や渋を滲み込ませた和紙を張ったものなので、破れやすく、破れるとこの才田さんへ持っていって、修理や張り替えをして貰ったものだ。
 その隣は、いまは財団法人ならまち振興財団の建物になっているが、もとは、安政二年創業の、蚊帳製造問屋、勝村商店の分家として、大正初期に建てられた豪邸で、勝村家の来賓接待用に使われていたというだけあってお庭も立派だ。このお屋敷はその後、連隊長の邸となったり、数代替わって、苗加さんというお医者さんの住居になっていたのが、いまは、ならまち振興の中心的存在となり、二階の客間は誰でも自由に入ることが出来て、古き良き時代の豪商の暮らしぶりを偲ぶことが出来る。
 その北隣は小間源という化粧品屋さん、勝村さん、符坂さん。楠下さんは元興寺町で荒物屋をしておられ、商店会のお世話もよくしておられた方。平岡の紙箱屋さん、昔は一町内に一軒位紙箱を作っているお店があった。
 森岡の代書屋さん(司法書士)いまは薮田さんのしゃれた喫茶店になっている。その隣は、板垣さんという石屋さんで、毎日、トンカチと石の細工に精を出しておられた。その奥さんは髪結さんで、夫婦共、評判の働き者だった。昔の奥さん達というのは、いまのように美容院へ行くのではなく、三日に一度とか、五日に一度とか、日を決めて、髪結さんが髪を結いに来てくださった。髪結の見習いを梳子(すきこ)さんと言って、一足先にやって来て、髪をしばっている元結(もとゆい)を鋏で切って、梳櫛(すきぐし)で丹念に髪を梳き上げる。その頃の女の人達は、髪をめったに洗わないで、梳子さんに梳いて貰うのが洗髪代わりだった。梳き上がった頃、お師匠さんの髪結さんが、白いエプロン姿で小道具を持ってやって来て、器用に髪を結い上げる。私の祖母などは、阪大病院に入院している時でも、このお師匠さんに、無理を言って病院まで髪を結いに来て貰っていた。いまより、電車等も時間がかかった時代だから、阪大まで髪を結いに行ったら半日仕事になっただろうのに、ご苦労をかけたものだなあと思う。いまは板垣駐車場になっている。その隣は室田さんという甘納豆専門店。とうろく豆、お多福豆、金時豆、小豆、豌豆、栗、いずれも皮はカラッと、内はふっくら柔らかく、程良い甘さに上手に炊き上げてあった。ご主人は恵比寿さんのようなにこやかな方だったが、職人かたぎな人で、仕事にはなかなかきびしいと、息子さんがよく言っておられただけのことはある味だった。
 井上町の東側北の角は丸尾さんという大きな布団屋さんだった。今の丸尾家のご当主は丸尾万次郎という有名な能面師で、自宅では後進の指導のため能面教室も開いておられる。
 丸尾さんの向かいは「中将姫修道霊場・豊成卿 古墳の地」という門前碑が建つ、豊成山高林寺がある。この辺りから三棟町にかけては、聖武天皇の御代、藤原四卿が天然痘で、相次いで亡くなられたあとを受けて、右大臣を務められた藤原豊成卿のお屋敷跡と伝えられている。
 藤原豊成卿(七○四〜七六七)は、謡曲や歌舞伎、浄瑠璃で演じられ、念仏勧進のための説話にもなって有名な「中将姫」のお父様である。私は奈良町を訪ねてくださった方達が、一見なんの変哲もない田舎町だなと、ガッカリされては気の毒だと思って、時間の許す限り、店に来られたお客様や、道を尋ねられた方達に、ちょっと、伝説を話したりするよう努力しているが、中将姫の話をすると「中将姫って当麻の方でしょう。」という方が多い。
 たしかに出家をして修業を積まれ、称賛浄土教を一千巻写経、日々念仏称名のうち、遂に仏(化尼)の助けによって、蓮糸の大曼荼羅を織り上げ、二十九歳で極楽往生を遂げられたのは、確かに当麻寺である。
 しかし、中将姫が産まれ育たれたのはこの辺りと伝えられ、三棟町の誕生寺には産湯の井戸があり、鳴川町の安養寺は法如尼(中将姫)が開祖で、最初は横佩堂(よこはぎどう・中将姫のお父様の豊成卿は横佩右大臣と呼ばれていた。)と伝えられ、徳融寺には、豊成公と中将姫の石の宝塔が残されている。
 高林寺は「豊成卿が称徳天皇の神護景雲元年(七六七)にお亡くなりになった時、この地に葬り、寺を建て、松柏を植えて高林寺と名付けた。これは、藤原南家の氏族が、松柏千歳に栄えて林となり、その跡を高尚にするためである。」と、高林寺縁起にある。
 いまも、その塔廟は境内に大切にお祀りされており、御廟の前には、一株の大きな白牡丹の木があって、寒い年でも暖かい年でも、中将姫の御会式が行われる四月十三日・十四日には、必ず見事な大輪の花を咲かせている。
 白牡丹 法如尼いまも在(おわ)します
            月史

 
という、元NHK奈良支局長 小林月史先生の句碑が建っているが、この清純で芳醇な白牡丹を見ると、千二百数十年の歳月を越えて、法如尼が、いまもこの辺りを見守っておられるような感じがする。本堂には豊成卿・中将姫父子の木像が祀られている。この寺が尼寺になったのは、藤原魚名の息女が中将姫に仕えて尼となり、豊成卿の御廟を護り、中将姫父子の菩提を弔ったからと伝えられる。
 その南隣は東井のかしわ屋さん、私と同じ年の子がいたので、よく遊びに行った。その隣は信吉さんという洋服の仕立て屋さん。私の子供の頃は既製服というのがあまりなかったのか、いつも信吉さんか符坂さんという仕立屋さんで作って貰っていたので、この店にも仮縫いなどでよく行った。先生母子は信仰深い方で、いつも手首に念珠をかけたり、月に何度かお説教の会を開いておられた。いまはどちらに住む人も無くしてしまっている。
 今中さんというお饅頭屋さんもあった。ここで売られていた餅菓子が美味しかった。その隣が和田さんという質屋さんだったが、いまの当主は大学の教授をしておられる。隣が辻のミシン屋さん。吉川さんという大きな蚊帳屋さんもあった。黒壁の堂々とした立派な家だったが、その後、二階建ての駐車場となり、いまは新しい家が数軒建っている。現在のならまち振興財団の建物を建てられた勝村さんは、安政二年に、ここで商売を始められたようだ。隣が大井の菓子屋さん。気の良い老夫婦がおられた。
 その隣に岡本さんという化粧品店があって、私より一年下の目のクルッとした可愛らしい女の子がおられた。童話連盟で童話や劇を、よく一緒にやったことがあるので小さい時から親しくしていた。いまは、仏教美術協会の理事長や、文化財建造物保存技術協会の顧問や元興寺文化財研究所の常務理事をされている、有名な鈴木嘉吉さんの奥さんになっておられる。隣が天理教奈良大協会。朝夕にはお祈りの声や太鼓の音が聞こえてくる。南端には小間源さんの親夫婦が住んでおられる。なにぶん昭和の初め頃の町並を回想しているので、記憶違いや漏れ落ちがあるかも知れないが、お許しいただきたい。なにしろ、こんな人情味あふれる賑やかな町並であった。