第113回(2004年09月号掲載
道の燈花会ラジオフォーラムと、
上街道、肘塚郷
 この間、道の日ふれあいフェスタ2004の行事として、「道の燈花会in奈良町」が開催され、その一環して「ならどっとFM」で「道の燈花会ラジオフォーラム」が行われた。
 朝日放送の人気アナウンサー乾龍介さんをコーディネーターとして、パネラーは奈良国道事務所副所長の芝野幸彦氏が「歴史文化の豊かな地域性を生かした奈良県の道づくり」について、奈良大学の安田真紀子先生が「江戸時代の庶民の旅『お伊勢参り』の研究」についてお話いただいた。そして私が「奈良の古代の道、古代の国道一号線ともいうべき山の辺の道、大和路の各集落を南北に結んでいた生活道路が、平城京の成立にともない整備され、活性化した上津道、中津道、下津道」について話をさせていただいた。

【江戸時代風お伊勢参り】
 安田先生は十年位前から旧街道の研究のために、毎年学生さん達と一緒に、伊勢街道を歩いておられるそうだ。今まで地道であったところが舗装されていたり、道標が無くなってたり移動されていたり、歩く度に今まで気づかなかった発見があり、何度歩いても感動の連続だとおっしゃる。写真を見せていただくと、今でも一列になって崖際の径を歩かなければならない所があったり、昔の旅は大変だったなと思われる。
 旅の準備は、まず草鞋(わらじ)作りからで、靴より足にあたる部分が少ないので、長く歩くには足にやさしいが、草鞋はよくもって一日、アスファルトの道の方が、いたみが早く、一日もたないという。時代劇の映画を見ると、茶店の軒先には草鞋が何足もぶら下げて売られているが、もっともなことだと思う。今は、その辺で草鞋なんか売っていないから、少なくても一人五足以上は用意していかれるのだろう。トークが終わった頃から、江戸時代の旅姿に扮した人達が四十人程、安田先生の指導で草鞋をはいて、燈花会会場に出発されたが、途中から「先刻降った夕立で水たまりが出来ているので、草鞋に水が浸みこんでボタボタです。」とスタジオに連絡が入ってきた。昔の旅も、のんびりとした良い所もあっただろうけれど、天候や季節によって、大変なことだったろう。

【古代の道】
 豊かな山林を持つ大和高原には、木津川水系や大和川水系の水にも恵まれた地に、縄文時代から人々が住み着き集落を形成していった。その頃、大和盆地は湿地帯であったと伝えられる。その集落と集落の連絡のため、高原の麓に出来たのが山の辺の道で、日本書紀や万葉集に多くの物語や秀歌を残すロマンティックな道だ。弥生時代になって農耕が盛んになってくると、湿地であった平野部を開拓して集落が次々と出来ていき、それを結ぶ南北の道を、奈良に都が遷るについて整備されたのが上津道、中津道、下津道である。
 道が出来ることによって、物流が盛んとなり、人の往来も容易になって、文化の交流や縁組み等も行われるようになったであろう。道とは、歩くだけでなく、心と心を結び、社会の制度を形成し、進展させるのに重要な役割を持つ、大切なものだと思う。
 下津道は、都の中央の朱雀大路に直結するように設計されていたというから、平城に都がある時は、国使等も通る、一番華やかな道だっただろうが、都が京都に遷るとだんだんさびれていった。
 中津道は、京終から神殿、大安寺を通って橿原に行く道で、大和盆地の中央を南北に通る産業道路であったが、今は国道二十四号線が中街道の役目を果たしている。
 現在、上街道と呼ばれている上津道は、さるさわ池の西側から、真直ぐ元興寺の旧境内を通り、肘塚、清水永井、帯解、櫟本、天理、三輪、桜井へと通じる道で、平安時代から、長谷詣や熊野詣で、近世は「お伊勢参り」の道として大いに繁盛した。この街道筋の町々は宿場として、商工業の主産地として発展し、奈良への動脈ともいわれた道路であったが、戦後、荷車や自転車が自動車となり、トラックも大型化したため、昭和三十五年から八年間かけて、紀寺から、天理、桜井を結ぶ広い道路が完成したので、産業道路としての役割は新道の方に移っていった。しかし、それが却って街道筋らしいおもむきと、歴史や伝説を連想させる情緒ある風情を残している。

【清水永井】
 青井神社のある登坂を北へ進むと、北永井を経て出屋敷の清水永井へ入る。この辺りは、私が子どもの頃、大好きな場所であった。昭和の初期、この町の上街道沿いは、料理屋さん、酒屋さん、菓子屋さんや雑貨屋さんが並ぶ街道町だったが、小径を一寸入ると、青田が広がるのどかな田園地帯だった。
 この辺りの嫁入り支度の着物はほとんど扱うといわれた、大きな店構えの奥村呉服店の当主の弟さんは、家(砂糖傳 増尾商店)の番頭を務めていたし、街道から一寸西に入った、がっしりした家構えの農家の米島さんというおじさんは、毎日、牛車を曳いて家に来て、大口の砂糖の配達をしてくださっていた。店の倉庫の柱には、牛の手綱を結ぶ環が打ち付けてあって、日通などから砂糖を運んでくる牛車も来たが、米島さんは店の専属で配達をしてくださっていた。
 麦の収穫の頃には、大きな麦藁の束を牛車に積んできて、麦藁細工を教えてくれたり、いっぱい実のついたグミの枝を持って来てくれたりした。道を歩いていて、配達帰りの空の牛車に会うと「とうさん、乗んなはれ。」と言って乗せてくれた。小さい頃は空の牛車に乗ると、目の位置が高くなるので、毎日、歩いている町も違った景色に見えて喜んで乗ったが、学校へ通う頃になると、恥ずかしくなって逃げたものだった。
 初夏の頃になると、この番頭さんや米島さんが
 「とうさん、蛍狩りに行かはらしまへんか。」と誘ってくれるので、この清水永井まで、よく蛍取りに来た。ことに米島さんのところには、十七か八位のお姉ちゃんがいて「溝の下の方で青く光っているのは蛍じゃなくて、蛇の目のことがあるから気をつけて、光がまたたいたり、飛んでいるのをつかまえた方がいいよ。」と言って、蛍籠に蛍のとまる草を入れて、霧を吹いたりしてくれた。
 このお姉ちゃんがお嫁に行く時、招かれて花嫁人形のような嫁入り姿を見に行ったが、来年から蛍取りに来てもお姉ちゃんはいないのかと、淋しかったことを思いだす。

【肘塚郷】
 肘塚郷の名は建長五年(一二五三)の「元興寺中門堂寄進屋敷縣板記録」では甲斐塚、「大乗院寺社雑記」では貝塚として出てくる。伝説によると、奈良時代の高僧 玄eが、藤原広嗣の怨霊によって空へ掴み上げられ、身体をバラバラにしてばらまかれた。その時、頭が落ちた所へ頭塔が造られ、肘が落ちた所に塚を造ったので肘塚と呼ぶようになったとも言われている。どちらにしても「かいつか」か「かいなづか」であろうが、今は「かいのつか」と呼ばれている。肘塚町は、行政町名では肘塚郷全体を指すのだが、なにぶん広いので、現在は通称名として、肘塚町、肘塚南方町、肘塚新町、釜屋敷町、竹花町、椚(くぬぎ)町などにわけられている。

1.肘塚南方町・肘塚新町
 大正から昭和にかけて新しい住宅が建ち並び、旧奈良市内から工場が移転して大きくなったり、新たに誘致されたりしたので、新しくできた町というので、新町とか、肘塚町の南の方にあるので南方町という町名になったと言われる。
 肘塚南方町にテイチクのレコード会社があった。私の若い頃には、レコーディングに来られた田端義雄さんが、ギターをかかえて、よく家の前を通られた。家の前の上街道を真直ぐ南へ行けばテイチクの会社なんだから、不思議はないのだが、当時、すでにかなりの売れっ子であった田端さんが、自動車に乗らずに、徒歩だと三十分位かかりそうな道のりを、なぜ歩いておられたのかは、いまだに謎だ。もっとも、その頃は、自家用車など、めったに無く、タクシーも駅前に二、三台ある位で、それも出払っていたら、かなり待たねばならなかったかも知れない。
 テイチクといえば、現在まで続いている国内のレコード会社の中で四番目に古い歴史を持つ老舗のレコード会社なので、本社は東京か大阪かと思っていたが、この肘塚にあったのがテイチク本社工場だったそうだ。
 餅飯殿町で手広く時計や貴金属・電気製品などを扱っておられる南口商事の社長さんのお兄さんで、蚊帳の製造販売をしておられた南口重太郎さんが創業者だ。昭和六年頃には、奈良で蓄音機とレコードの製造販売に乗り出され、昭和九年に帝国蓄音機株式会社を設立して、肘塚に本社工場を建てられたそうだ。昭和二十八年四月、社名をテイチク株式会社に改称されたという。
 この頃、この大会社のテイチクの社長さんが、よくうちの店に氷砂糖を買いに来てくださった。砂糖は戦時中きびしい統制で僅かしか配給がなかったのが、昭和二十七年に自由販売になったものの、氷砂糖はまだ高級品だった。そんな時代だったから、社長さん随分氷砂糖がお好きなんだなあと思っていたが、今から思えば、吹き込みに来られる歌手の方達に、自由になめられるように、菓子鉢にでも入れて置いておられたのかも知れない。と考えると、奈良のような古典的な地方都市で、大テイチクの基礎を築いた方だから、気配りの良い偉い方だったのだなあと改めて思う。
 テイチク株式会社の敷地内の一角に、不動堂他総数三十二点におよぶ石像や石塔、石碑などが祀られていて、町の人たちの信仰を集めていた。不動明王石像は、像脇に「蓮花房」という修験者名と、元和元年(一六一五)の年銘が刻まれているが、不動堂はこの不動明王を本尊として、昭和十一年四月に造営されたようだ。この不動堂造営にともない、南側の町はずれを流れる岩井川や、今はなくなった福寺池のほとりにあったという石造品類もこの地に移されて、町内の人々の信仰の対象とされてきたもので、地蔵盆には町の人たちから頼まれて高林寺の住職がお参りに行っておられたようだ。
 福寺は、行基菩薩が亡くなられたお母様の供養のために、喪に服している喪中に建てたので「服寺」とも書くそうで、寺の近くに福寺池もあったようだが、今はどちらも無くなっている。
 テイチク株式会社が発展移転されて、松下電器産業株式会社系列の株式会社近畿ゼネラルサービスになるにあたって、敷地を整備される時、この貴重な庶民信仰の結晶である石仏や石造文化財は、中世以降、南都の人々の信仰の中心であり、今も、民俗資料の研究を続けておられる元興寺に預かって頂くのが、最も後世にその姿を伝える得策であろうと、平成十四年七月に元興寺境内に移して、大切に安置され、祀られている。

2.竹花町
 昔、この辺りはのどかな田園地帯で竹薮も沢山あった。ある年、この竹に一斉に花が咲いて実がなったので、人々はこれを瑞兆として、竹花町と呼ぶようになったと伝えられる。
 町の南端の西側に高さ四メートル位ある大きな石燈籠が二基建っている。左に金毘羅大権現、右に春日大明神、天照皇太神宮(あまてらすこうたいじんぐう)八幡大菩薩と彫られ、建立は文政十三年庚虎(かのえとら)年霜月(十一月)吉日、大正四年十一月大修理となっている。文政十三年(一八三○)と言えば「おかげ参り」「ぬけまいり」と称して、一年間に四百八十六万二千余人の人達がお伊勢参りをしたと伝えられる年で、この上街道の賑わいぶりと、当時の奈良の人々の信仰の一端を示したものと言えるだろう。
 これと同じような燈籠が、JR奈良駅前にも建っている。これとは別に、大和の各地に「おかげ燈籠」と呼ばれるものが五十基余り点在しているそうだ。きっと大和路は「おかげ参り」のおかげで随分潤るおったのだろう。

3.椚町
 昔、奈良の南部をしめくくる「南口総門」があった町と伝えられる。伝説では、弘法大師が総門の傍で休まれた時、持っておられた椚の木で出来た杖を、この地にさされたところ、これが根づいて椚の木になったので、椚町という町名になったという。現在、この椚の木の下に小さな祠があり、文政十三年(一八三○)椚大明神に刻んだ石が建っている。この辺が玄eさんの肘塚(かいなづか)の趾だろうと言う人もあるが定かではない。大正時代の初期まで、この町に鹿よけの門が設けられていたそうだ。