第112回(2004年08月号掲載
上街道と小野小町
青井神社―帯解寺―石上寺
 四月二十三日に「マイ奈良の奈良の昔話に、おたくの子安地蔵様のことを書きたいので、明日おうかがいしてお話を承りたいのですが。」と、帯解寺さんへ電話をした。すると、住職さんが「明日は午後から『小町忌』の法要がありますので、午前中なるべく早くなら。」とおっしゃった。「『小町忌』って、あの小野小町の法要ですか?」と聞くと「そうです。」と返事が返ってきた。
 帯解寺というと、子授け安産の祈願寺として有名なお寺なのに、絶世の美女で才人ではあるが、それを慕って言い寄る幾多の貴公子達を退けて、一生独身を通したと伝えられる小野小町とは、なんとなくイメージ的に結びつかないが、「小町」というあでやかな名に魅せられて、取材は後日のことにして、翌二十四日は「小町忌」にお参りさせて頂いた。
 本堂の南側にある駐車場の、本堂から南東に当たる一角に、「小町之宮址」という碑と、その由来を記した立札が建っている。その前には祭壇が設けられていて、餅や果物、酒など、種々の供物が並び、十二単姿の小町を描いた掛軸が掛かっている。
 ご宝前に設置された天幕の内は、郷土史家の安彦勘吾(ひであき)先生や信徒総代の谷井孝次さんや、豊沢安男さんはじめ信者の方達や、テレビや新聞・雑誌などのマスコミ関係の人達であふれんばかりだ。
 やがて時間になると、住職さんを中心に六人の僧侶が威儀を正して席に着かれ、荘重な法要が始まる。

【小野小町】
 ここで、王朝女流歌人の先駆者で、六歌仙、三十六歌仙の一人とされる才女で、たぐい稀な美人であった小野小町について考えてみよう。評判の美しい娘を小町娘と呼んだり、○○小町という言葉が出来た程、後世にまで名を残す才色兼備の麗人であったにもかかわらず、小町の生没年は不詳。出生地についても、出羽国(今の山形・秋田県)の郡司、小野良真の娘で、篁(たかむら)の孫だという説が有力ではあるが、諸説があって、確かなことは分からない。
 六歌仙の中でも、在原業平と小野小町は後世まで語り継がれるほど美男美女だったようだが、業平は五十六歳の時、右近衛権中将で、相模権守、美濃権守、蔵人頭を兼任して死んでいるので、老殘の物語はないが、小町伝説では百歳以上まで生きたとして、その栄光と落魄(らくはく)の生涯が、伝説や説話となり、庶民の間に広く語り伝えられたので、小町が産まれた土地だとか、小町の墓というのが、全国至る所に有るそうだ。泉式部伝説とも重なり合うような所もあるので、小町の生涯を語り歩く「唱導の女たち」がいたとも考えられる。

【上街道の帯解近辺に残る小町伝説】

1登り坂の青井神社
 京の都の宮中で開かれた競詠会の時、小町の詠んだ歌が素晴らしくて、誰も小町にはかなわなかった。それを妬んだある人の讒言(ざんげん)によって、宮中に居られなくなって旅に出た。失意の旅をしているうちに、小町は疱瘡(ほうそう・天然痘のこと)にかかってしまった。
※疱瘡は今でこそ、ジェンナーの種痘による予防法の普及によって、絶滅したかに見える病気ではあるが、発源地はインドとの説が強く、紀元前千二百年頃に中国に流入してきたものと思われる。それがシルクロードを往来する人達によって伝わり、十字軍の移動によって流行の範囲が拡大した。
 日本へは朝鮮半島を経由して、六世紀に仏教の伝来と前後して侵入してきた。排仏と崇仏とでもめた、欽明天皇や敏達(びだつ)天皇の時代に大流行したと伝えられる疫病も、疱瘡ではないかと思われる。天平時代、光明皇后の兄の藤原四兄弟も、この病気で亡くなっている。平安時代には、藤原道長の子女たちも疱瘡で死亡、徳川十一代将軍、家斉の子女五十三人全員が疱瘡にかかって、そのうち二人が死亡したという。こうした社会の上層部の人達でさえ羅病するのだから、栄養も衛生も行き届かない、一般市民の間では恐怖の的であっただろう。種痘の技術は幕末に輸入されたそうだが、なかなか普及せず、明治時代になっても、一万人前後の死者を出した流行が四回もあったそうだ。
 難病に悩みながら、小町が一心に神仏を念じていると、ある夜、夢に神童が現れて「奈良から一里程南へ行った所に、疱瘡神を祀る神社がある。そこへ参って心を込めておがむがよい。」との、お告げがあった。奈良の町から上街道を一里程南へ行くと、疱瘡神を祀る青井神社があったので、小町はそこにお籠りをして、境内の井戸の霊水で二十一日間、水垢離(こり)を取って、一心に祈願すると、満願の日には、すっかり病が癒えたそうだ。
 平癒した小町は、感謝をこめて自分の黒髪を切って、地中に埋めて塚とした。今でも社殿の中には、伝承の土壇が残っているということだ。小町は
 はるさめは 今ひと時に 晴れゆきて
  ここにぬぎおく おのが身のかさ
 という歌を残して、上街道を南に向かったと伝えられる。かさは、笠と瘡(かさ)をかけているようだ。昔は、湿瘡(くさ)や疱瘡など、皮膚病を総称して瘡と総称したので、「くさ神様」とも呼ばれている。
 明治時代頃までは、最も恐れられていた疱瘡だが、種痘が普及して一般化してからは、疱瘡にかかる人は無くなった。しかし、太平洋戦争が終わる昭和二十年頃までは、顔や頭に「くさ」が出来ている赤ちゃんが多く、「『くさ』の出てない元気な可愛い赤ちゃんですね。」と言うのが子褒めの常套句だった。そんな頃は「子どもの『くさ』が治りますように。」また「うちの子に『くさ』など出来ませんように。」とお参りする人が多かったであろうし、七月十五日の祭礼には屋台の出店なども並んで、おおいに賑わったそうだ。
 しかし、私がこの取材をかねてお参りをした時は、境内はひっそりしていて、社前の「疱瘡神社」と彫り込まれた石灯籠が、この社の歴史を物語っていた。人っ子一人いない境内で、明るい陽光に若葉を輝かせている木々が、美人の小町が、痘痕も残らぬように全快することを願って、必死に水垢離を取っている姿を語りかけてくれるような思いがした。

2帯解寺の「小町の宮」
 延安三年(一六七五)に刊行された「南都名所集」巻八には、帯解寺の境内に「小町の宮」が描かれている。この地は、古来奈良盆地を南北に通じるメイン道路 上街道沿いにあるので、昔から、伊勢参り、熊野詣、長谷詣の信仰道なので、都が京都に移ってからも、地蔵信仰と求子安産祈願で、近在の人たちのみでなく、宮廷からも篤い崇敬を受けておられた。
 小野小町も青井神社で病が快癒して伊勢に向かう途中、青井神社から南へ八百メートル程の位置にある名刹、帯解寺へお参りされたであろうし、しばらくここで疲れた身体を休められたのかも知れない。そこで、この寺域に小町を追慕する祠が建てられたようだ。
 しかし幾星霜を経た盛衰の中で、かつて境内であった寺の南側は、上街道沿いで繁栄する「吉野屋旅館」になっていて、どこに「小町の宮」があったのか、分からなくなっていた。吉野屋旅館は、上街道が殷賑を極めた頃は非常に繁盛していたそうだが、汽車や電車が出来、自動車も一般化して交通が便利になるにつれて、この辺で泊まる人も少なくなり廃業されて、数年前、帯解寺が、その土地を譲り受けられたそうだ。お寺の駐車場にするにつけ、立派なお庭や敷地を発掘されたところ、「小町宮」の址が発見されたので「小町の宮址」の碑を立て、周囲を整備して、以来、毎年四月二十四日には「小町忌」が丁重に挙行されている。
 若葉萌ゆ、小野小町の碑を囲み

3七小町(ななこまち)の舞
 荘重な法要が済むと、参列者は皆本堂の南側へ移動して、本堂南面で行われる、坂本流師範、坂本晴千歌師匠の「七小町」の舞を見せて頂く。唄・三絃は菊聖公一師である。
歌詞
1.蒔かなくに 何を種として浮草の 波のうねうね生ひ繁るらん 草紙洗ひも名にし負ふ
2.その深草の少将が 百夜通ひも道理(ことわり)や
3.日の本なれば照りもせめ、さりとてはまた天が下とは 下ゆく水の逢坂の
4.庵へ心関寺の 
5.うちも卒塔婆も袖褄(そでつま)を
6.古跡も清き清水の 大悲の誓ひ 輝きて
7.曇りなき世に雲の上 在りし昔に変はらねど 見し玉垂れの内やゆかしき 内ぞゆかしき
 一見して意味の取りにくい難解な歌詞のように思えるが、これは小野小町にまつわる七つの伝説を基にして、その伝説のなかの和歌や、それに基づく能の曲名(草紙洗い・通・雨乞・関寺・卒塔婆・清水・鸚鵡)などを綴ったものである。
 文字で書くと、あまり長くない歌に感じられるが、合の手などが入るので、結構見ごたえ、聞きごたえがある。
 目もあやな宮廷の女房装束で舞う晴千歌さんの姿は美しく、深草少将が命をかけて恋いこがれたのも、もっともと思われる。草紙洗いや、雨乞で見せた、凛とした才気も感じさせる姿である。
 雨乞小町から関寺小町の合の手の間に、本堂に入った晴千歌さんが、今度出て来た時は、華やかな唐衣を脱ぎ捨てて、老婆の姿である。小町が関寺の近くに住んだのは百歳の頃と伝えられるから、老婆の面までかぶって、舞姿も老いを思わす身のこなしであるが、それがまた、可愛らしく、熟成した人間味が感じられるのは、芸の力だろうか。小野小町が何かを私たちに語りかけてくれているような思いがする。
 この晴千歌師匠というのは、面倒見の良い方で、植原一光さんの友人でもあるところから、奈良ライオンズクラブで何か催物があって、踊りでもしなければならない時は、いつも指導に来てくださる。
 主人が会長で、植原さんが幹事をしてくださっている時、忘年家族会で、歌舞伎もじりの「勧進帳」をやろうということになった。アイデアマンの植原さんが「昔、芸人は芸を披露することによって、関所を越えることが出来たと言うから、歌舞伎調で弁慶が勧進帳を読んで、義経主従が無事安宅の関を通過した後、全会員と家族が、幾組かにわかれて、それぞれ何かを演じたら、良い親睦行事になるだろう。」と提案されたからだ。
 誠に結構な案ではあるが、会長という事で弁慶役をおおせつかった主人は、芸事には暗く、勧進帳の芝居も、一度か二度見た事があるかな位で、自分が真似事でもするなんてとんでもない、といった感じだ。もちろん、百人以上いる会員や家族に、何か芸をやって貰うなんて不可能な事ではないかと思われた。ところが、植原さんは、晴千歌師匠を呼んで来て、計画を話し、指導を頼んでくださった。
 晴千歌師匠と植原さんと相談して、ズブの素人の主人に、本格的な歌舞伎の衣裳を借りる手配から、歩き方、せりふの声の抑揚、見得(みえ)を切るところ、無事、関所を通過して六方を踏んで退場するまで、事細かに指導してくださった上、当日は顔こしらえの隈取りまで、丁寧にやってくださった。
 一方、諸国の踊りを披露して関所を通して貰うという想定のクラブメンバーや家族の中には、何人かは舞踊の名取の方もいらっしゃるが、百人余りは、踊ったといっても、せいぜい盆踊り位といった方が大部分。それを幾組かに分けて、花笠音頭やソーラン節、松島の大漁祝歌等々の踊りを教え、おまけに最後には全員揃って阿波踊りで大団円にする等、当初思いもかけなかった程の盛会にしてくださった。その時は機転のきく指導力抜群の先生だなと思ったが、今日はまったく先生くささはなく、平安の宮廷歌人であり、気品のある媼になりきっておられる。さすが、芸の力だなと感心した。【七小町解説】(歌詞に番号がついている。)
1.草紙洗小町/清涼殿に於ける歌合せの時、大伴黒主が前もって小町の歌を盗み、萬葉の草紙に書き入れておいて、小町の歌人としての名に傷をつけようとした。しかし、小町は草紙を洗って黒主の奸計を暴露し、自分の名誉を守ると共に、黒主にも寛仁な態度を取った。その小町をたたえたもの。「蒔かなくに…」は草紙洗小町にある歌。
2.通い小町/小町に恋い焦がれた深草少将(京都市伏見区西枡屋町にある欣浄寺が自宅跡と伝えられる。)が、山科小野の里にあった小町の宅へ、百夜通えば、その望みをかなえてあげると言う小町の言葉を信じて、通い詰めたのに、九十九夜目にはかなくも亡くなってしまったという話。この話では美女の驕慢(きょうまん)な面と、やるせないあわれさを描いている。
3.0雨乞い小町/勅命による小町の雨乞歌
 ことわりや 日の本なれば照りもせめ
  さりとてはまた 天が下とは
 と詠んで、雨が降ってきたという話。
4.関寺小町/ここから小町は老女の姿となる。小町が百歳の老女になって、近江の関寺の近くに住んでいると、七夕の夜、関寺の僧が小町の庵を訪れ、歌の道を訊く。共に星祭をし、小町は舞をまうという話。
5.卒塔婆小町/小町が年をとり、乞食の姿となって、疲れ果てて卒塔婆に腰をかけているのを僧に見とがめられる。しかし、問答をして、僧に頭を下げさせる。さすがは才女の小町と感心させるが、昔の事を回想しているうちに、深草少将の霊が取りついて、物狂いになるが、やがて悟りの道に入っていく。
6.清水(きよみず)小町/旅の僧が、京都の清水寺に詣でて、掛かっている絵馬の中に、年老いた小町の歌があるのを見て、美女の成れる果をあわれに思っていると、里の女が来て、市原野に導き、小町の姿となって、業平の玉津島詣(玉津島は和歌浦にあった島で、現在は陸続きになっている。玉津島神社のご祭神は和歌の神様とされ、熊野詣、高野山詣の折り、立ち寄る人が多かった。)の事を語る。
7.鸚鵡(おうむ)小町/ある人が、年老いた小町に
 雲の上は ありし昔に変はらねど
  見し玉垂れの 内やゆかしき
 と詠みかけると、
 雲の上は ありし昔に変はらねど
  見し玉垂れの 内ぞゆかしき
 と,やをぞと変えただけの鸚鵡返しの返歌をしたという話が謡曲になっている。

【僧正 遍昭と小町】
 今は廃寺になっているが、帯解寺から南へ行くと、現在の天理市石上町の辺りにあった石上寺に、小町と同じく、六歌仙・三十六歌仙の一人で、桓武天皇の孫にあたる僧正 遍昭(八一六〜八九○)が一時滞在していたようだ。
 小町がこの寺に詣って日が暮れたので、夜が明けてから帰ろうと思っていると、この寺に遍昭が滞在しているという事を聞いて、
 岩の上に旅寝をすれば いと寒し
  苔の衣を われに借さなん
 と歌いかけると
 世をそむく 苔の衣はただ一重
  かさねばうとし いざふたり寝む
 という返歌があったそうだ。この頃、遍昭も小町も、三十歳を少し越えた頃の事と、伝えられる。
 絶世の美女の華やかで、あわれで、それでいて床しい話である。