第111回(2004年07月号掲載
 由緒深い子安地蔵様を
祀る 帯解寺
 帯解という一風変わった地名は、地名研究で有名な、池田末則先生の説によると、帯解(おびとけ)は帯峠(おびとうげ)から転じたもので、帯解の地形は、東から西にのびた大地になっている。南は窪之庄、北方には菩提山川が流れていて、近くに登り坂という地名がある程、帯解は帯状の小さな峠を形作っているところから生まれた地名であろう、と言うことである。実際にこの地を歩いてみると、もっともと感じられる点もある。
 しかし、一般には、子授け、安産の守り本尊、帯解子安地蔵をお祀りする帯解寺があり、その門前町として繁栄した町であるから、この地名が生まれたと信じている人が多い。

【子安山 帯解寺】
 寺伝によると、この寺は宝亀年中(七七○〜七八一)勤操(ごんそう)大徳によって、岩渕寺千坊の一院、霊松院(れいしょういん)として開基されたという。勤操大徳は、若き日の空海(後の弘法大師)が出家するにあたって、剃髪の師を勤められ、虚空蔵菩薩求聞持法を授けたと伝えられる。空海が遣唐使として唐に勉学に行くことが出来たのも勤操大徳の尽力が大きかったと言われる程の高僧である。
 平安時代初期、仁明(にんみょう)天皇(在位八三三〜八五○)の御代、皇太子道康親王と、染殿の后(藤原良房の女 明子)の間には、長い間お子様が恵まれなかった。
 一方、妃の静子(紀名虎の女)との間には、惟喬(これたか)親王がおられた。将来、皇后になるべき方との間にお子様がないのは、天皇家にとっても藤原氏にとっても心配の種であった。そこで、祖神春日明神に心をこめて祈願されたところ、間もなくご懐妊され、月満ちて嘉祥三年(八五○)惟仁(これひと)親王をご安産された。お喜びになった天皇は、霊松院の寺号を改めて、帯解寺とするよう勅命を出されたので、地名も帯解と呼ばれるようになったという。
 ところが、仁明天皇はその年に崩御されて、皇太子であった道康親王が即位して、第五十五代文徳天皇となられた。帯解子安地蔵尊に祈念されなくて、お子様を授かっておられなかったら、日本の歴史も、藤原氏の運命も少し違っていたかも知れない。
 それにしても、帯解寺からは目と鼻の距離に住んでいた在原業平や、その従兄にあたられる惟喬親王の運命が大きく変わったのも、やはり世の流れというものだろうか。文徳天皇は、その後も伽藍を建立されたり、この寺を篤く崇敬されたと伝えられる。

【江戸時代の帯解寺】
 慶長年間、徳川二代将軍秀忠の奥方、阿江与の方は、帯解寺に祈願されて、竹千代君(三代将軍家光)を安産され、お礼に山門を寄進された。その家光公の後継者、四代将軍家綱公も、母君の御楽の方が帯解子安地蔵尊に祈念をこめて産まれられたお子だというので、家綱公は手水鉢を寄進しておられる。
 元禄五年(一六九二)東山天皇の御代にも、この寺に祈願されて亀の宮をご安産される等、皇室、将軍家はじめ、大衆の求子安産祈願の人達が、門前市をなす有様であった。

【現代の帯解寺】
 こうした伝統により、昭和三十四年、当時皇太子妃であった美智子皇后ご懐妊の時は、安産祈願法要を厳修し、住職が東宮御所に伺候して、岩田帯、御守、ご祈祷札を献納された。昭和三十五年二月二十三日、めでたく、浩宮徳仁殿下(現皇太子)をご安産遊ばされた。以来、札宮様、紀宮様ご誕生の時も、三笠宮妃殿下、高円宮妃殿下、皇太子妃雅子様、秋篠宮妃紀子様ご懐妊の時も、岩田帯や御守、ご祈祷札を献納される倉本住職様の姿が、テレビや新聞で報道され、それぞれ母子共に、ご安産、遊ばされている。
 これほど、皇室の方からも崇敬を受けておられるお地蔵様であるから、可愛い子どもを授かりたいとか、女の大厄とされたお産を軽く安らかにすませて頂きたいと願う一般市民のお参りも非常に多い。
 私が長男や長女を産んだのは、第二次世界大戦の末期や終戦間もない物資不足の頃で、汽車の便数は少なく、その汽車も買い出しなどで満員なので、妊婦が乗るのはよくないと言って、祖母や叔母が、帯解寺までお札を頂きに行ってくれた。当時は繊維製品が不足で、切符制(国民一人一人に必要最小限の点数の衣料切符を支給し、衣料を購入する時は、その代金と共に、例えば、靴下だったら三点、シャツだったら五点というように切符を渡さなければならないシステム。もちろん、岩田帯にする晒し木綿を買うにも切符が要る。)になっていたから、頂いて来たお礼をまつったり、自分で調達した岩田帯に御守をつけていた。次女や三女が産まれる時には、自動車を買っていたので、主人に運転して貰って一緒にお参りに行った。この頃は、たしか新しい晒を一反持って行って、お寺でご祈祷をして貰った岩田帯を頂いて帰ったと思う。洗い替えの腹帯(岩田帯)を、新しい反物から切る時は、七五三で、七尺五寸三分が縁起が良いと言うのだか、産み月近くになると、これでは短かいので、一丈位の所を、七尺五寸三分と言って切るのだと祖母に教えて貰った。これも方便というものだろうか。
 孫達が産まれる時は、駐車場も出来ていて、車でのお参りも多くなったのだなと思った。どの孫が産まれる時だったか、娘を連れてお参りに行くと、ご本尊のお地蔵様の前に、達筆の般若心経の写経がお供えしてあった。あまり見事な字なので感心して見ていると、奉納者が薬師寺 山田法胤と署名してある。やっぱり安産を願う気持ちは、高僧も一般人も同じなんだと、微笑ましい思いがした。
 それからまた、何十年かたって、この間、曾孫が産まれるというので、孫夫婦を連れてお参りに行った。帯解寺の大きな駐車場が二つも出来ていて、その日は戌の日でもあったからか、ガードマンが立って整理をしておられる位で、境内は人であふれていた。本堂には小学校の教室程、椅子が並べられている。この頃は少子化のせいか、懐妊されたとなると、若夫婦と、婿方と嫁方の両親で、六人揃ってお参りに来られる方が増えたので、この位、椅子を並べておかないと、とのことであった。
 交通の便が良くなるにつれて、日本全国、随分と遠い所からも、お参りに来られる方が増えたそうだ。岩渕千坊の一院として創建されたという、千二百年に余る寺の歴史から言えば、僅か六十年程でも、お参りの仕方もいろいろ変わって来るものだなと思う。これは帯解寺さんだけでなく、奈良のお寺全体に言えることだが、長い歴史の中で、兵火や落雷で焼けたり、地震でこわれたり、排仏毀釈の大嵐に会ったりしながらも、一貫した仏心と伝統を守り通し、時代の流れと共に変化する諸事情にとまどう人達の心の支えとして貢献し、変化に対応しながら、お寺の復興維持をしてこられたのは、偉大なことだと改めて感心する。

【ご本尊地蔵菩薩像】(国指定重要文化財)
 子授け安産に霊験あらたかとして信仰を集めておられるご本尊様は、像高一・八八メートルある堂々としたお姿で、本堂の奥の、防火施設の完備した内陣の高い須弥壇の上で、左手に宝珠、右手に錫杖を持ち、左足を踏み下げて、岩座の上に坐っておられる。地蔵菩薩がこのように、弥勒半跏像に似た姿で表されているのは、釈迦入滅後、千五百年位たつと(年数は経論によって異なる。)末法の時代に入って、弥勒様が、この世に出現されるまで無仏の時代になる。その末法の時代に衆生を済度して下さるのがお地蔵様だということだ。
 日本では平安時代末期から末法の世になると信じられていたので、地蔵菩薩を、兜率天で修業しておられる弥勒菩薩の姿勢で表したのだろうと言われている。
 深くくった納衣のお腹のあたりに、裳の結び紐が見えるのが、腹帯の紐を結んでおられるように見えるので「腹帯地蔵」として安産祈願の仏様と、信仰を集めておられる。腹帯をしておられるというと、女性的な感じに受け取られるだろうが、桧材の寄木造りのお像は、お顔もふっくらして慈悲深く、彩色がほのかに残る納衣を召したお身体は、がっしりとした力強さで頼り甲斐のあるお姿である。安政の大地震の時、堂が転倒し、本尊も大破したというが、歴代のご住職のお骨折りのおかげで、立派に復元されている。

【芸術家肌の住職ご一家】
 数年前、帯解寺の倉本尭慧住職が「うちの長老が描きました。」と言って、美しい花を描いた色紙を持って来てくださった。 素人ばなれした見事な画なので「お父様、画がお上手なんですね。」と褒めると「実はおやじは若い時、画家を志して、東京へ勉強に行っていたのですが、寺を継がなければならないようになって、帰郷して、仏教の修業をしましてん。」とおっしゃる。住職のお父様の倉本泰尚長老は、幼い頃から画が大好きで、東京の川端画学校で学び、卒業してからは、春陽会の研究室で研鑽を重ねておられたそうだ。
 住職の尭慧師は、慶応大学文学部を卒業して、東映に入社、十年程社会勉強をしてから、高見寛恭師他、先賢方について仏道の修行をされ、寺に帰って来られたという。住職の息子さんは、東京大学大学院人文科学研究科を卒業され、今も研学中とのこと。きっと立派な僧侶になられることだろう。
有名な書家で、日展理事、筑波大学名誉教授の今井凌雪先生は、住職の従兄にあたられる。平成三年から修理にかかられた興福寺南円堂が、見事に昔日の輝きを取り戻して、平成九年四月五日から七日まで、盛大な落慶法要が挙行された。これを契機に、従来宝前にあった国宝の燈籠は、興福寺国宝館に収蔵されることになった。この燈籠の火袋の羽目に鋳出されていた銘文は、弘法大師が撰をされ、平安時代の三筆の一人、橘逸勢(たちばなのはやなり)の筆になるものであった。複製を設置するにしても、それにふさわしい当代の一人者を選ばなくてはならない。そこで白羽の矢が立ったのが、陳舜臣先生と今井凌雪先生で、舜臣先生が「平成の観音讚」を撰文され、凌雪先生が謹書された。
 翌平成十年四月十七日、復元記念式典がとり行われた。平城宮趾の朱雀門の扁額も凌雪先生の染筆によるものである。恩賜賞や芸術院賞を受けられた先生の墨蹟は、こうした史蹟の中で、後世まで、益々光彩を放つことであろう。

【お伊勢参りや長谷詣と帯解寺】
 奈良大学の学長 鎌田道隆先生は、毎年夏休みの初め頃、学生さんや一般人の希望者を連れて、奈良から徒歩で、片道五日間かけてお伊勢参りをされる。上街道を南に向かって歩いていると、帯解寺の前を通るので、必ず本堂にお参りして、境内にある小町宮趾(小町に関しては来月号に書きます。)にも参って行かれるという。
 平安時代、貴族の間で、長谷詣や熊野詣が盛んだったというから、通り道にある、文徳天皇や清和天皇ゆかりの帯解寺にも、きっとお参りになったことだろう。
 江戸時代になって治安も良くなったので、一般の人達の間でも旅への願望が高まったが、当時は、病気治癒のための湯治か社寺詣しか、旅手形が貰えないので、社寺参拝を口実として、その道中で上方見物をしようという、お伊勢参りが盛んであったようだ。ことに、五十年に一度位おこる、おかげ参りの時は、ひと月かふた月の間に、数百万人の人がお参りしたというから、そのうち五十分の一か百分の一の人が帯解寺に立ち寄られたとしても、随分賑わったことだろう。
 お寺の隣にも大きな料理旅館があったそうだが、今は、帯解寺の駐車場になっている。七月二十三日・二十四日は、地蔵会式で、出店などもたくさん出て、、広い境内もおおいに賑わう。