第99回(2003年07月号掲載
宮本武蔵と奈良(6)
武蔵が訪れた以降の
柳生の名所
 剣豪の里としての柳生の面影をしのんで人々が訪れる史跡の多くは、柳生宗矩(むねのり)が、徳川将軍家の剣道指南役になって以降のものが多いので、武蔵が訪れた頃とは、場所や様相が異なっているものが多い。
【柳生藩陣屋跡】
 宗矩は剣の達人であっただけでなく、思慮深く、禅の道でも奥義を極め、剣禅一如の心眼で天下の情勢を見透かし、政治の要諦を悟って、その進言は常に核心を突いていたので、三代将軍家光の信頼が厚く、最初、三千石であった知行が、晩年には一万二千五百石の大名となった。
 江戸時代の大名は、原則的に参勤交代を義務づけられていたので、地元に半分、江戸に半分在住することになっていたから、江戸屋敷と、地元にも領主の居城を持っていた。しかし、柳生藩主は、宗矩以来代々、将軍家の剣道指南役、さらに、始祖の石舟斎宗巌を除いて、ずっと江戸住まいであった。したがって、柳生藩では藩主の館としての城はなく、それに代わる陣屋があった。
 「柳生藩日記」によると、石舟斎宗巌の屋敷は紅葉橋附近にあったが、宗巌の死後、宗矩が亡父の菩提を弔うために、寛永十五年(一六三八)に芳徳禅寺を建て、引き続き正木坂の上に陣屋の建築を始めて、三年後の寛永十九年(一六四二)に完成したという。その陣屋は延享四年(一七四七)に全焼して、仮建築のまま明治維新を迎えた。
 柳生藩最後の十三代藩主俊益が柳生に帰ってきたのは、慶応三年十月に徳川慶喜が大政奉還をし、明治天皇が王政復古宣言をされた直後の、同年十二月二十二日のことであった。宗矩が江戸詰になってより、二百三十三年ぶりのことであったという。藩主を迎えた陣屋は、仮建築のまま、柳生藩庁舎となったが、明治四年の廃藩置県により不要となり、その後、公売された。今は、奈良市によって、陣屋をしのばせる史蹟公園として整備され、往時をしのばせる散策の場所として市民の憩いの場となっている。
【旧奈良市役所】(現ならまちセンター)
 ちなみに、今ならまちセンター(奈良市東寺林町)のある場所は、旧柳生藩南都屋敷があった所である。南都屋敷は石舟斎から四代目の柳生宗冬の代に建設された。柳生家の領地は、柳生近辺の山間部より、むしろ奈良市の南方の三ヶ村、天理市北部の十二ヶ村と、平地部が多かったので、その連絡場所が必要であった。たまたま、興福寺と春日社家との間に争論があった時、宗冬が仲裁を頼まれてうまくまとめたご縁で、猿沢池の南方にあった光林院という塔頭寺院が無住になっていたのを譲っていただいて、建てたものだという。宗冬は南都屋敷に能舞台を造って、しばしば観能会を催し、領内の住民や僧、出入りの町人等を招いて親睦をはかったと伝えられる。
 この南都屋敷は、明治になってからは、奈良町役場に転用され、明治三十一年(一八九八)二月一日、市制施行により奈良市が全国で四十六番目の市となってからは市役所となった。奈良市役所は、何度か建て直しされながらも、昭和五十二年(一九七七)までこの地にあったが、市の西部への発展にともない、同年二月十一日、現在の二条大路南一丁目の新庁舎に移転し、旧庁舎は、ならまちセンターとして、市民に親しく利用されるようになった。
【正木坂道場】
 「剣禅一如」の活人剣を伝えるため、柳生十兵衛三巖(みつよし)によって建設され、全国各地から逸材が集って、門下から一万二千余名の俊才を世に送り出したと言われる旧正木坂道場は、現在、奈良市営駐車場になっているあたりにあったようだが、いつの頃か無くなってしまった。大正末期に、芳徳禅寺の中興の祖である、故橋本定芳師がこの寺に入山して来られた時には、すでに道場は無かったそうだ。剣道のメッカとも言うべき柳生に道場が無いということは定芳師にとって大きなショックだったのだろう。定芳師は、明治の排仏毀釈以来荒れ果てていた芳徳寺の復興に精根をこめる一方「柳生に道場が無いということは、あるべき所にあるべきものが無いということじゃ。あるべき所に、あるべきものをつくらにゃならんのじゃ。」と、正木坂道場の再建にも、たくましい情熱を燃やされた。
 定芳師は奈良県内は勿論、しばしば東京へも足を運ばれて、各界の名士に柳生に道場の必要なことを説いてまわって、資金の協力を求めた。入山より約四十年の不撓不屈の奮闘の結果、ついに昭和三十八年五月、見事に竣工の日を迎えられ、道場開きが行われた。
 新正木坂道場は、昔の道場があつた現市営駐車場から、芳徳寺への道を百メートル余り登った所に堂々と建っている。この土地は、若くして死んだ宗冬の兄、友矩の屋敷のあったところだという。当時の奈良市長鍵田忠三郎氏をはじめ、多くの人達の絶大な応援で、道場は由緒ある興福寺の門跡寺院 一乗院の建物(明治維新以降は、奈良地方裁判所の付属建物となっていた)が移築され、玄関は、元京都所司代の玄関を移したという、堂々たるものだ。
 昭和四十六年、山岡荘八先生の小説「春の坂道」がNHK大河ドラマとして放映されるや、柳生は一気に脚光を浴び、人々は剣豪の里 柳生を訪れた。正木坂道場も、全国から剣士が道具をかついで集るようになり、毎年六月には、五日間、全日本剣道連盟主催の教士七段以上の全国指導者講習会が開かれるそうだ。夏には、全国からの学生剣道家や子ども達の修業の場となり、平素は柳生の里の少年剣士たちの剣と禅の修練道場になっているという。まさに、定芳老師と、それに協力された各界有志の方々志が花開いたというべきか。
【神護山 芳徳禅寺】
 柳生家の菩提寺 芳徳寺は、死後も柳生の里を護るかのように、柳生の里を一望のもとにおさめられる山上に建っている。宗矩が寛永十五年(一六三八)、父石舟斎宗巌の供養のために、親交の深かった沢庵禅師を開基として創建したもの。初代住職は宗矩の四男 列堂和尚がつとめている。
 宗矩が建てた堂宇は、宝永八年(一七一一)の大火で惜しくも焼失したが、三年後には早くも再建された。慶安四年(一六五一)宗矩の三男 宗冬が、亡父の七周忌を前に、京都の七条大佛師 康看に命じて造らせた宗矩公の像と、明暦三年(一六五七)列堂和尚が大仏師 康春に作らせた沢庵禅師の像は厄をまぬがれて、今も、本尊釈迦如来の左右の壇に安置されて往時をしのばせている。
 しかし、明治維新の廃藩後は荒れるにまかせ、明治の中頃には山門、位牌堂、沢庵禅師の銘文を刻んだ梵鐘なども売り払われ、明治末期には無住となって、さらに荒廃を深め、廃寺の危機にさらされていた。大正十年(一九二一)、尾州柳生家の後裔の柳生基夫氏が、亡兄 一義氏(元台湾銀行頭取)の意志によって多額の資金を同寺に寄進され、本堂の復旧回復の兆しが見え始めた。その頃、ちょうど定芳師が同寺に入山してこられ、寺復興の中心人物となって、挺身的な働きをされることになった。定芳師は赴任と同時に、早朝から夜遅くまで、モッコをかついで土を運んだり、鎌を持って庭の手入れなど、荒廃した寺内の整備に常に先頭に立って働かれる一方、復興への協力依頼に、東奔西走された。こうした率先遂行の姿は、里の人々に感動を与え、里人の心をしっかりとつかまえた。こうして芳徳禅寺は、物心両面にわたって、見事に再興された。
(成美学寮)定芳師は「柳生の良寛さん」と呼ばれる位、子ども好きであった。昭和三年頃から、境内に「大和青少年道場」というのを開設して、青少年の育成薫陶にあたり、戦争中は戦争孤児まで引き取って世話をしておられたそうだ。昭和二十四年、戦後の混乱期に於ける知的障害児のために、私財を投じて設備内容の充実を計って法人化したのが「成美学寮」である。
 その頃であったろうか、定芳老師が私の家に来られたことがある。知恵遅れの子どもたちを「菩薩」だと、慈愛をこめて語られる和尚の話に感動して、それから間もなく主人と共に芳徳禅寺を訪れた。そして、天衣無縫というか、無邪気というのか、春の野をもつれ飛ぶ蝶のように、住職ご夫妻にまつわりつく幼い「菩薩」たちに注がれる、慈愛に満ちたまなざしに感激すると共に、大変なお仕事だなと、つくづく感心した。ちょうどその頃、我家の地元の元興寺 辻村泰圓住職も、戦争で親を失った子どもたちの愛染寮や、働くお母さんのための極楽坊保育園を作って、戦後の物不足の中、奮闘しておられるのを間近に見ていたので、お坊さんというのは、困窮している人たちの心と身体を護り、日の当たらぬ場所に慈愛の光をもたらす重要な役割をしておられるのだなと、仏の化身のように感じた。
(柳生家代々の墓)裏の墓地には柳生家歴代の八十数基の墓石が、栄光の歴史を物語っている。
 宗矩の大きな墓石を挟んで、左右に石舟斎宗巌夫妻や友矩夫妻、宗春夫妻などの墓があり、向かって右前に十兵衛三厳、左前に宗冬の墓がある。ひときわ目をひくのは八代目の柳生俊則の次男 乏斎の墓で、酒好きであった乏斎をしのばせるような、酒樽、盃、徳利の形をした珍しい五輪付石塔である。この寺は、初期の城跡に建てられているので、附近には掘割や見張り所らしい跡が残っていて、ここからも柳生の里が一望できる。
【おふじの井戸】
 阪原にある古刹 南明寺の北側の野道のかたわらに、簡単な片屋根をかけられた古い井戸がある。
言い伝えによると、今からおよそ三百年程前のある晴れた日に、柳生但馬守宗矩が馬でこの辺りを通りかかると、井戸の側で、おふじという美しい村娘が井戸ばたで洗濯をしていた。いたずら気を出した宗矩が「その盥(たらい)の中には波がいくつ立っているか。」と問いかけた。おふじは、にっこり笑って「二十一(7×3)でございます。ところでお殿様がここまで来られた馬の足跡はいくつでごさいましたか。」と問い返した。機知に富んだ娘の才気にほれこんだ宗矩は、おふじを後添いの妻に迎えようと思った。
 それからしばらくした早春の日、柳生家の紋どころ(二蓋笠)をつけた馬が、阪原の南明寺の近くの小さな百姓家の前に止まった。おふじが妻として柳生のお城に入る日だった。人目にたたないように、ひっそりとおふじを迎えようと気を遣った宗矩は、使いの者だけをよこしたので、見送る者も、母と近所の人が二、三人だった。阪原から柳生の城までは峠一つ越えるだけだが、一旦お城に入ってしまうと、娘とも容易には会うことが出来ない。名残を惜しんで母は娘を乗せた馬の後を付いて峠のてっぺんまで来てしまった。坂を下れば、もう柳生の里である。母はしぼり出すような声で「おふじ、おらはもうここで帰りばさ。(帰るよ)」と言った。うしろ髪をひかれる思いのおふじの姿は、やがて木立の中に消えていった。それ以来、誰言うともなく、この峠は「かえりばさ峠」と呼ばれるようになった。
 宗矩はこの時、六十才をこえていたそうだが、おふじとの間に、四男 義詮(幼名 六ツ丸)をもうけている。義詮(後の列堂和尚)は、宗矩が六十六才の時に生れた子だという。
 宗矩の病篤しと聞いた将軍家光が見舞に訪れた時、宗矩は「せがれ両人(十兵衛三厳と宗冬)は、お上の思召し次第にに召されられ、在所(柳生)にある、今一人のせがれ(六ツ丸)は、出家させて、亡父の菩提所を守らせたいと存じます。」と後事を語ったそうだ。
 宗矩の死後、家光の内意によって六ツ丸は出家して仏門に入り、京都 大徳寺の天佑和尚の弟子となり、後に芳徳禅寺の初代住職となった。墓所にある墓石には「当山第一世 列堂和尚 元禄十五年壬午歳七月廿四日示寂」と刻まれている。
 この町には
仕事せんでも器量さえよけりゃ おふじ 但馬の妻となる
器量よければ 手に職いらぬ おふじ けなるや(羨しい)但馬さん
 という俗謡が残っている。
【旧柳生藩家老屋敷(柳生資料館)】
 江戸時代末期に柳生藩の国家老をつとめていた小山田主鈴(しゅれい)の屋敷で、見事な石垣が遠くからも目に付く。主鈴は奥州白河藩の郷士の家に生れ、二十五歳の時、江戸の柳生藩邸に足軽として仕え、その才腕を認められて、四十五歳の時、国家老として奈良に移り、柳生藩南都屋敷を預かったという英才である。主鈴は大阪 堂島の米相場で巨利を得て藩財政の窮乏を救ったり、理財の才能を発揮して藩の財政を支えた功労者だという。
 主鈴は弘化三年(一八四六)に家督を譲って、十代藩主 俊章から賜っていたこの地に新邸を建てて余生を送った。石垣には、天保十二年(一八四一)尾張の石工が築いたという銘が残っている。大阪の木津宗詮に茶道を学んだという、なかなかのお茶人で、庭園を作るにあたっても木津宗詮の指導を受けたという。主鈴は安政三年 七十五歳で他界したが、その子孫は昭和の中頃まで、この邸に住んでおられた。昭和三十一年、小山田家の後裔が、奈良の大森町に移られるに当たって、地元の岡田弥惣治氏の手に渡ったが、昭和三十九年に、柳生を愛してやまなかった作家 山岡荘八氏の所有となった。荘八氏は、しばしばこの屋敷に滞在され、昭和四十八年、NHKの大河ドラマとして放映され、一大柳生ブームを引き起こした「春の坂道」の原作も、この屋敷で構想を練ったと言われる。
 昭和五十五年、荘八氏の遺志により、遺族の山岡賢二・雅子夫妻から奈良市に寄贈された。奈良市は庭園や塀を修復すると共に、主屋にも若干の補修を施し、古文書、武具、民具などを展示して、柳生資料館として一般公開している。昔の武家屋敷をしのぶ貴重なものである。
 それにしても、我家の先祖は、安政元年に、柳生の近くの山添村から現在地(元興寺町)に出てきて商売を始めている。初代(私の曽祖父)が若い頃、柳生の知人の家へ訪ねて来た頃は、まだ、この家老屋敷に、人生双六の主人公のような立志伝中の人、小山田主鈴様は健在でおられたのだと思うと、感慨ひとしお深いものを覚える。