第98回(2003年06月号掲載
宮本武蔵と奈良(5)
武蔵が訪れた頃、
既にあったと思われる
柳生の名所
 笠置から柳生までは、寄り道さえしなければ、徒歩一時間程の距離である。
 数年前の秋、奈良ライオネスクラブのハイキング同好会で、柳生から笠置へ行った。往きはバスをチャーターして、忍辱山圓成寺に詣で、柳生家の菩提寺である芳徳寺に参り、「柳生錦」や「春の坂道」等の銘酒の醸造元の畑中さんの蔵や、旧柳生藩の家老屋敷を見学させて頂いた。昼食場所の「華小路」で、バスには帰って貰い、あとは歩いて笠置に向かった。杉や桧の緑に紅葉や黄葉が色を添える秋色を愛でながら笠置寺に着き、磨崖仏や胎内くぐり等、変化に富んだ修業場めぐりをして、JR笠置駅まで歩いた。出発前は山道だし、かなりハードかなと思っていたが、気の合った仲間と歩くのは楽しく、感銘深い充実した一日コースであった。
 翌日、一緒に行った人達に会うと「ふだんあまり歩かないのに、あれだけ歩いたせいか、朝起きると足が痛くて。」と言われるので、「私はどうもないよ。」と言うと、「あなたが一番年長なのにスゴイネ。」と言われて、戦争中によく歩いたおかげかなと自負していた。
 ところが、それから三、四日たった頃、膝や足首が痛くなってきた。まさか、この間歩いたせいだとは思わずに、同年配の方々が、よく「足が痛い。」とおっしゃっているので「いよいよ来たな。年の病だからしかたがないわ。」と思っていた。そんな時、なにげなしにテレビをつけると「おもいっきりテレビ」で、偶然、足痛の話をしていた。みのもんたさんが「平素歩かない人が急に歩くと、若い人は翌日、直ぐこたえますが、年をとった人は二、三日してから、後でこたえてくるんですよ。」と冗談まじりに笑顔で言っておられた。それを聞くと、痛みが気にならなくなって、そのうち忘れたように治ってしまった。
 歩くことが主な(馬や籠があっても普通の人はあまり乗らなかっただろうから)交通手段であった昔の人達は、足が丈夫であっただろうし、まして武蔵のような武芸者は足も鍛えられているので、この位の道程はものの数ではないだろうし、せっかく訪れた柳生の里や、その近辺を、武者修業の気持で、心眼で観て歩いたことだろう。
 奈良市の東部の高原地帯は、東山中と呼ばれ、布目川、今川、白砂川等の流域の肥沃な平地(田原・大柳生・柳生・阪原、山添等)に点在する山里では、ところどころから弥生式土器や石器が出土しているので、弥生時代頃から人々が住んでいたと推測され、大化改新(六四五)の折の地名にも楊生(やぎゅう)の名が記されてい程、早くから開けた土地である。
 奈良時代には氷室(ひむろ)が築かれたり、南都諸寺の僧侶の修業の道でもあった。柳生が剣豪の里として多くの武芸者が訪れるようになったのは、柳生宗厳(むねよし 石舟斎と号す)が柳生新陰流を編み出し、石舟斎の五男の宗矩(むねのり)が石舟斎の推挙で、徳川将軍家の剣道の指南役となった頃からである。宮本武蔵が柳生に来たのは、石舟斎が隠居の身とはいいながら、まだ健在な頃であったから、現在、柳生の里で名所として知られている中にも、まだ存在していなかった所もある。そこで、道順というより、武蔵が訪れた頃、すでに有ったものと、その後出来たものにわけて書くことにする。
◆武蔵が訪れたであろう名勝
【忍辱山 圓成寺】
(にんにくせん えんじょうじ)
 東山中には、春日山を取り巻くように、忍辱山、大慈仙(だいじせん)、誓多林(せたりん)、鹿野園(ろくやおん)、菩提仙(ぼたいせん)の五聖地名が残っている。これは春日山をお釈迦様が説法をなさったインドの霊鷲山(りょうじゅせん)にみたてて、大仏様のお開眼の導師を努められた菩提僊那(ぼだいせんな 婆羅門僧正)によって名付けられたと伝えられる。
 仏教の修業には、布施行、持戒行、忍辱行、精進行、止観行という五行がある。忍辱行は、どんな辱めを受けても耐え忍ばねばならないという大切な修業の一つで、お釈迦様の弟子の富楼那(ふるな)が輪那(すな)という国に伝導に行く時「凶悪な人々に伝導するには、忍辱の心が必要である。」とさとされたという。
 圓成寺は、柳生街道からでも、松や杉の常緑樹の間から、朱塗りの多宝塔や桧皮葺の由緒あり気な楼門が垣間見える美しい古刹である。奈良時代、鑑真和上に従って来日した虚瀧(ころう)和尚が、天平勝宝八年(七五六)、聖武上皇と孝謙天皇の勅願によって開創したと伝えられる。その後、平安時代に、京都東山の圓成寺を移して、現在の圓成寺という寺号になったという。
 応仁の乱(一四六七)で焼けたが、再建されて、江戸時代には、塔頭二十三寺、寺領二百三十五石の大寺院となっていた。明治の排仏毀釈の折、寺領を没収されて、今の境内と建物のみが残ったと言うものの、平安末期に造られた浄土式苑池を中心に造営された寝殿造りの庭園を持つ優美なお寺である。
 本堂は、向拝に舞台をつけた寝殿造りで、外から見ると、どっしりとした静寂を感じさせる建物だか、堂内に入ると、内陣の華やかさに目を奪われる。ご本尊の阿弥陀如来が坐っておられるお厨子の前の四本の丸柱には、二十五菩薩の来迎図が描かれている。蓮弁を撒く菩薩、雲に乗って笙を吹いている菩薩、つづみを打っている菩薩等の優雅な姿を極彩色で描かれていたものが、それほど剥落しないで往古を偲ばせてくれる。この華やかな丸柱は、蓮座を伏せたような反蓮座の上に立っているというこりようである。
 ご本尊阿弥陀仏は、上品上生(じょうぼんじょうしょう)印を結んだ定朝様式の、藤原時代らしい豊満なお姿である。宝相華唐草模様の透かし彫りの光背が見事で美しい。四天王が四方から如来を護っておられる。
 朱の色も鮮やかな多宝塔は、創建は後白河法皇が寄進されたものと云うことだが、応仁の乱で焼かれ、二代目の塔は、大正九年に鎌倉に移され、現在の塔は昭和六十一年から平成二年にわたり、全国からの写経や寄進によって再建されたもの。塔の内には創建当初の、運慶二十才頃の作と伝えられる、智挙印を結んだ大日如来(国宝)がお祀りされている。
【夜支布(やぎう)山口神社】
 圓成寺から東北へ約三キロの大柳生町でもひときわ目をひく鎮守の森の中にある。明治の神社制度が定められるまでは、大柳生春日神社と呼ばれていた。参道入口右側の風雨をしのぐ屋形の内には「春日鹿蹄の古伝石」という、鹿の蹄(ひづめ)の跡が残ったような天然石がある。春日大明神(武甕槌命 たけみかづちのみこと)が白い鹿に乗って鹿島を出発され、この地に来られた時、この森を神野の森と称して、しばらく鎮座された後、現在の春日の地を選んでお遷りになったと伝えられる。素戔嗚尊(すさのおのみこと)を祭神としてお祀りした古い歴史を持つ神社である。
 この町では、ご祭神の分霊を集落の長老の家へ一年交替で迎え、身心を清めてお祀りする「回り明神」という珍しい風習が残っている。毎年八月十七日の夜には、回り明神に選ばれた家の前で、盛大な太鼓踊りが行われるのが有名だ。
【牛若丸誕生伝説】
 源義朝と平重盛の勢力争いに端を発した平治の乱(一一五九)の頃、源氏の統領 義朝の愛人 常磐御前(ときわごぜん)が、吉野にいるおばさんの家へ逃れようと、今若丸と乙若丸の手をひいて、この辺りまで来ると急に産気づいた。どこの家でも源氏の落人をかくまうと厄介なことになるのを恐れて世話をしてくれない。そこで常磐は大柳生のフジョウの森までたどり着き、平たい石の上で男の子を産んだ。常磐はその子を抱いて白砂川が湾曲して渕になっているところで産湯(うぶゆ)をつかわせたので、この渕を「うぶ湯の淵」と呼んでいるそうだ。また、子どもを産んだ石は、牛のように大きな石だったので「牛若丸」と名付けたという。悲劇の武将 義経は人気が高いだけに、いろいろな伝説の持ち主だ。
【南明寺(なんみょうじ)】
 大柳生から柳生への中間にある平地が阪原町である。大柳生町との境の丘陵に古墳があり、白砂川のほとりで弥生式の石斧が発見されたので、古くから人が住んでいたことがわかる。南明寺はこの阪原町にある。
 天正十年(一五八二)に書かれた「阪原由来記」には、「敏達天皇の御代(五七二〜五八五)に天竺から来た僧が、槙山に千坊を開き、千仏を安置した。南明寺は槙山千坊から移された寺である。」と書いてあるそうだが、現在の堂は鎌倉時代の建築のようだ。堂内には藤原時代の釈迦如来坐像、薬師如来坐像、阿弥陀如来坐像、四天王、地蔵菩薩、弘法大師像等をお祀りしてあるそうだが、私が行った時は、いつも板戸が閉まっていて、おがませて頂いたことがない。しかし、縁に使われている板も木目が細かくて、こんな木材が使われているから、長持ちするのだな、と思われる。境内には、鎌倉時代の宝篋印塔、室町時代の十三重石塔等があり、由緒の深さをしのばせる古刹である。
【疱瘡地蔵(ほうそうじぞう)】
 旧街道を阪原から柳生に入る辺りに、有名なほうそう地蔵がある。高さ三メートル、幅三・五メートル、奥行き二・五メートルの大きなおむすび型の岩に、高さ一・四メートル、幅○・八メートルの長方形のくぼみをつくり、そこに、錫杖を持ったお地蔵さんが浮彫りにされている。ほうそうという病気は六世紀に、仏教伝来と相前後して日本に入ってきて、以後大流行を何回も繰り返し、日本人を長く苦しめる疫病となった。この地蔵は疱瘡が村へ入って来ないように祈願して作られたものと伝えられ、元応元年(一三一九)の刻銘がある。元応とは後醍醐天皇の年号であるが、この頃も疱瘡が大流行したのだろう。この地蔵を有名にしたのは、その向かって右下に刻まれている片カナまじりのたどたどしい文字跡があることである。かなり風化しているが「正長元年ヨリサキカンベ四カンカウニヲヰメアルヘカラズ」と書かれているそうだ。カナ使いも今と違うのでわかりにくいが、「正長元年(一四二八)以後は、神戸四ヵ郷(大柳生・小柳生・阪原・邑地)には負債はない。」という意味で、徳政一揆の際に、農民側が貸借なしを宣言したことを伝える貴重な石文で、国の史跡指定になっているそうだ。
 徳政一揆とは、鎌倉時代末期に、武士の困窮を救うために「質入れしている土地や建物を無償で持ち主に返せ。」という「永仁徳政令」を一二九七年に幕府が出した法令に始まって、室町時代には、しばしば生活に困った農民が土一揆を起こして、幕府に徳政令の発布を要求したと言われる。これもその一つだろうが、石碑で残っているのは珍しいケースだという。
【後醍醐天皇の「お成り道」】
 郷土史家というより、私にとっては童話の先生であり、友人のお父様として親しくお付き合いさせて頂いていた山田熊夫先生の著書を読んでいると、後醍醐天皇が笠置寺を行在所として北条氏との間に戦いが起こった、いわゆる元弘の変の折のことが書かれてあった。その一節に「『元弘戦図』によると、陶山藤三小見山次郎(北条方)は、阪原から楊生(柳生)の東に出、布目川ぞいに飛鳥路に出、その土地の者に案内させて笠置の北口、鯰岩山峰に登り、夜討をかけた。裏手からの夜討で、笠置の行在所もわずか二旬にして落日の憂目を見、天皇は難を、河内の赤坂城にさけようとされた。柳生から田原にかけての一台山の尾根通りの小径を里人たちは後醍醐天皇の『お成り道』と呼んでおり、この道筋にツゲの木が生えているが、これは道しるべとして植えたと伝えられる。(後略)」とあるのを見て、私は数十年前のことを思い出した。
 旧柳生藩陣屋跡の近くにある花しょうぶ園のの横を登ったところに、家の山がある。祖父が大正の中頃に植林させた山だというのだが、足場が遠いというので、家では祖父以外誰もその山を見たことがなかった。昭和二十七年頃、自動車を買って、運転にも自信を持ち始めた主人が「一度、柳生にある山というのを見に行こうか。」と言い出した。柳生に行ってもどれが自分の山かわからないので、阪原に住んでいた西久保たみゑという遠縁の小母さんに案内をお願いした。山の境界を案内して廻ってくれた小母さんは、尾根の小径を歩きながら「山の瀬は、この径が境界にになってます。この径は柳生と阪原の境界にもなっていて、昔、後醍醐天皇が通られたお成り道でっせ。」と教えてくださった。しかし、後醍醐天皇は直接笠置から吉野へ行かれたのではなく、いったん捕らえられて隠岐に流されられたのに、いつお通りになったのだろうと疑問に思っていたが、これを読んで、小母さんの明るい笑顔が目に浮かんだ。武蔵も近辺を見て廻るのに、この径を歩いたのだろうか。
【天乃石立神社(あまのいわたてじんじゃ)】
 現在、旧柳生藩陣屋跡と言われる所は、宮本武蔵が柳生を訪れた頃の陣屋の跡ではない。武蔵が会いたがっていた石舟斎の屋敷は紅葉橋の附近にあったらしい。柳生宗巌(後の石舟斎)は若い頃、毎晩天乃石立神社に行って、剣の修業をしたと伝えられているので、私もこの稿の取材に柳生に行った時、宗巌の屋敷があったと思われる辺りから神社まで歩いたみた。
 坂を登って共同墓地の前を通り、杉桧の木立の間や、手入れの行き届いた茶畑の間を一本細々と続く径を一キロ余り歩くと、むこうの方になんだか神気のただよう森が見えてくる。森に近づくと、道よりはるか下の谷間に、無数の大きな自然石が積み重なるように転がっていて、石と石の隙間が、妖怪でも棲んでいそうな洞穴のように見える。ご神体の大きな岩は、天の岩戸開きの折に、天の岩屋の戸の片方が外れて、この地に落ちてきたという伝説が生れたのも、もっともだと納得する程、平らな大岩を加工したような形をしている。天照大神や手力男命のご神霊が覗いておられるような気がする。昼でもその辺りに霊気がただよって恐いような感じがするのに、毎晩往復二キロ余りの径を歩いて武芸の鍛錬に来られた若き日の石舟斎は、さすがだなと思う。この雰囲気だと、真夜中、木の枝がざわめいても、天狗が出てきたと思うのは、無理もないことだけれど、それにしても天狗を切るつもりで切ったという一刀石の大きいこと。こうした伝説が生れるだけでも、やはり石舟斎は超人だったんだなと思う。