第97回(2003年05月号掲載
宮本武蔵と奈良(4)
奈良とかかわりの深い
山城の古刹
  浄瑠璃寺に詣でた武蔵は、石仏の道をたどって、四キロ程東の山中にある岩船寺(がんせんじ)に至ったであろう。
【高尾山 岩船寺】
 今でこそ小ぢんまりとした、心の安らぎを与えて下さるようなお寺だが、かつては、十六町(約16ヘクタール)もある広大な境内を持つ名刹であった。
 その草創には諸説があって定かではないが、寺伝によると、聖武天皇が天平元年(七二九)、出雲大社に行幸された時、霊夢によって、この地に阿弥陀堂を建立されることを発願され、大和国善根寺に籠っておられた行基菩薩に勅(みことのり)して建立されたとある。
 後に、弘法大使と甥(お姉さんの子)の智泉大徳が阿弥陀堂に於て、伝法潅頂(でんぽうかんじょう/密教で阿闍梨位を得ようとする者に、大日如来の法を授ける儀式)を修法されたので潅頂堂となった。大同元年(八○六)智泉大徳は報恩院を建立された。
 嵯峨天皇は智泉大徳に勅して、皇孫の誕生を祈願されたところ、皇子(後の仁明天皇)が生誕された。皇后のご信仰が殊に深く、皇孫誕生のお慶びもあって、弘仁四年(八一三)に、堂塔伽藍が整備されて、寺号も岩船寺になった。
 最盛期には、十六町の境内に三十九の坊舎が、その偉容を誇っていたそうだ。
 ところが、承久三年(一二二一)におきた承久の乱(後鳥羽上皇と、その近臣達が鎌倉幕府討滅の兵を挙げ、逆に幕府軍に大敗して鎮圧された事件)のあおりを受けて大半が焼失した。その後、再興された堂塔も焼失して、次第に寺勢も衰え、江戸初期には、本堂、塔、坊舎、鎮守社等を残すのみとなった。当時の住職、文了律師は、この荒廃ぶりを嘆き、自ら勧進に歩かれ、徳川家よりの寄進も得て、本堂や本尊の修復をされた。その本堂も老朽化したので、五ヶ年計画で本堂再建計画がすすめられて、昭和六十三年(一九九八八)四月二日に落慶したのが、現在の本堂である。
【岩船寺の文化財】
◎本尊 阿弥陀如来坐像(重文 平安時代)
 胎内の経文によれば、天慶(てんぎょう)九年(九四六)に造られたという、丈六(二八四・五センチ)の堂々とした、たくましい阿弥陀様である。けやきの一木で頭・体を彫成し、他は矧(は)ぎ付けている。平安初期の貞観(じょうがん)美術の大らかな重厚さから、平安彫刻の特長である、優雅な和様化した美しさへの過渡期の作である。でも私は、のびやかな眉、ふっくらとした厚みのある唇、大粒の丸い無造作な螺髪を持つ、この密教美術的な仏様の自信に満ちたようなお顔が好きだ。
◎普賢菩薩騎象像(重文 平安時代)
 「普賢」とは仏の慈悲を表し、普賢菩薩は、あまねく一切の所に現れて功徳を施されるという。「華厳経」によると、善財童子は福城の豪商の子で、福城の東にある荘厳幢娑羅林(しょうごんどうしゃらりん)で文殊菩薩の説法を聞いて仏法を求める心をおこし、その指導によって、五十三人の善知識(良き指導者)を求めて遍歴した。善知識は、菩薩・比丘(びく)・比丘尼(びくに)・神・婆羅門・王・童子・遊女等、あらゆる階層にわたり、あらゆるものが求道の師であることを教えている。
 善財童子が最後の五十三番にたずねたのが普賢菩薩であった。菩薩は善財童子に、自らの過去の修業を述べて、彼を激励し、普賢行(ふげんぎょう)と呼ばれる、一切衆生の救済を求めて永遠の活動を続けようという「十大願」を授けられたという。
 「法華経」の普賢菩薩勧発品には、法華経を信仰して常に誦唱する人が苦難に会った時、六牙の白象に乗った普賢菩薩が現れて救ってくださると説かれている。
 「仏の知恵」を司り受験シーズンになると門前列をなす文殊菩薩に比べて、お釈迦様の脇侍として共に祀られ、「仏の慈悲」の行徳の代表とされる普賢菩薩を単独でお祀りしているお寺は少ない。独尊としては、岩船寺のお厨子の中で六本の牙を持つ白象に乗っておられる普賢様は有名なのだそうだ。
◎三重塔(重文・鎌倉〜室町時代)
 寺伝によると創建は、天長二年(八二五)智泉大徳が亡くなられて十年程経った承和年間(八三四〜八四七)に、仁明天皇が智泉大徳の遺徳を偲んで建立されたものと伝えられる。
 承久の乱によって焼失後、鎌倉時代に再建され、現存する塔には「嘉吉二年(一四四二)五月二十日」の銘があるそうだ。塔高約十八メートルで、小ぶりだが安定した美しい塔で、周囲の景色とよく調和している。塔の隅垂木を支える天邪鬼(あまのじゃく)の木彫も微笑ましい。
◎石室不動明王(重文・鎌倉時代)
 「応長第二(一三一二)初夏六日。願主 盛現」の銘がある。寺伝によると応長二年二月に、塔頭(たっちゅう)湯屋坊の住僧 盛現が眼病に苦しみ、不動明王に十七日間の断食修法をされたところ、満願日に不思議にも眼病が平癒された。そこで報恩のために、みずから不動明王のお姿を彫って安置された。入滅の時に「後生の凡俗にて眼病に苦しむ者あらば、必ず岩船寺の不動明王に祈念せよ。十七日間に、祈願成就するであろう。」と遺言された。今も、霊験にあやかろうと、多くの参拝者があるという。
 お寺の方達のお手入れが良いのか、春にさきがけて、梅、みつまた、椿が咲き始め、陽春には、桜、つつじ、みやこわすれと咲き続き、六月頃からは、紫陽花、睡蓮、さるすべり、秋には紅葉がいろどりを添える、小ぢんまりとした美しいお寺である。
 二、三十年も前になるだろうか、私が岩船寺に詣でた時、住職さんに「浄瑠璃寺まではどう行ったら良いでしょうか。」と道をたずねた。すると「どうぞ、その犬について行ってください。」とおっしゃって、犬にむかって「浄瑠璃寺に案内してお上げ。」と言われた。すると門前に坐っていた犬が、野道をトットと歩き始めて、ついて来いと言わんばかりに、こちらを振り返っている。
 お礼を言って犬について歩いていると、その犬は時々、細い脇径へ入って行く。犬のことだから案内にあきたのだろうと思って、向こうへ行く犬に「ありがとう」と言って、浄瑠璃寺と思われる方角へ、まっすぐ歩いて行こうとすると、その犬は急いで分かれ道まで戻ってきて「こちらへおいで。」と言うように「ワン、ワン。」となく。何故だろうなと思いながら戻って、犬について細い径を行くと、由緒ありげな石仏や磨崖仏があるのである。この犬は石仏街道の石仏のある所をよく知っていて、忠実に案内してくれているのに、びっくりしたことがある。
 この話を、現在、加茂町に住んでおられる、元京大教授の椎名駿輔先生にしたら「私は、その案内上手の犬は知らないけれど、あの寺の犬は代々ガンちゃんと呼んでいるから、何代か前のガンちゃんでしょう。笠置寺にも案内してくれる猫がいましてね。笠やんと言う名前で、その子が笠ボンと言って、新聞に出たりして有名でしたよ。死んでしまった今でも絵葉書になって、その絵葉書がよく売れているし、境内にお墓もたっているんですよ。」とおっしゃって、次に来られる時、笠やんの絵葉書を持って来てくださった。笠置山寺縁起の碑の前に坐っている笠やんの写真の絵葉書の裏には「笠やん夢をありがとう」「愛し猫よ ひと声なりと 雪笠置」と印刷されていて、猫の足跡が模様のように散らしてあった。こんなのを見ると、私も案内してくれた岩船寺の「岩ちゃん?」の写真を一枚でも撮っておいたらよかったなあと思えてくる。
【笠置寺】
 武蔵もお参りしたという笠置寺は、笠置山の山頂にある。
 今昔物語によると、大友皇子(天智天皇の第一皇子で、三十九代弘文天皇)の開創とのことで「笠をしるしに置きければ笠置と云う也。其れを和かにカサギと云也けり」と寺名と地名の起源を語っている。
 千三百年位前から、笠置山の大岩石には仏像が彫刻され、その仏を中心として笠置山全体が一大修験行場として栄えたようである。その頃、笠置山には龍が棲むという、はかり知れない深さを持った龍穴という洞窟があり、その奥には兜率天があるとの言い伝えがあった。兜率天とは、菩薩達が住んでおられる所で、弥勒菩薩が常に説法をしておられるという世界である。
 東大寺別当 良弁(ろうべん)の高弟、実忠は、大仏開眼の前年、天平勝宝三年(七五一)この龍穴で参籠しておられた。そのうち実忠は、ものに憑(つ)かれたように立ち上がり、洞窟を奥へ奥へと進んでいった。およそ四キロばかり行くと、まわりがパッと開けて輝くような明るい所へ出た。見渡すと、四十九棟の荘厳な摩尼宝殿が建ち並んでいる。「あっ、兜率天だ。」実忠は胸をとどろかせながら四十九院を巡拝して、最後に常念観音院に着くと、ちょうど、沢山の天衆が集って十一面観音の悔過の行法を行っている所であった。一心不乱にそれを拝観していた実忠は「さすがに有難い作法だ。これをなんとか人間世界に伝えることは出来ないだろうか。」と考えて、そばにおられた菩薩に相談してみた。菩薩は「兜率天の一日は人間世界の四百年に相当します。また、この行法のきまりは厳しく、一日に千遍もの行道をきちんと繰り返さねばなりません。とても人間に出来ることではないでしょう。」とやさしくさとしてくださった。
 しかし、その素晴らしい行法をまの当たりに見た実忠は、どうしてもあきらめることが出来ず「一心不乱にやれば、出来ないこともないだろう。千遍の行道も歩いてやれないのなら、走りまわってやれば、その数を満たすことも出来るわけだ。」と思ったとたん、実忠は夢からさめたように、龍穴の入口に立っておられたそうだ。
 その頃、東大寺は大仏開眼を目前に控えて、目のまわる程忙しい毎日であったが、実忠はもののけに憑かれたように「十一面観音悔過の行法」について熟考を重ね、ついに東大寺独特の、現在も行われている悔過行法を完成した。
 天平勝宝四年四月九日の大仏開眼を目前にした三月一日から「修二会」の本行が始まった。今年(平成十五年)で千二百五十一回目の「悔過法要」(お水取りとか、おたい松とか言って皆に親しまれている)は、それ以来、一度も途切れることなく行じ続けられている。
 笠置山はその頃、東大寺の修業の場となっていたようだ。黒雲母花崗岩からなる険しい山で、各所に絶壁や奇岩巨石があって、鬼気迫るような神秘性のある山だから、修業には最適の地だったのであろう。
 東大寺の良弁僧正も、ここで秘法を修され、弘法大師もここに籠られたことがあると伝えられるから、その頃から寺院が建っていたのだろう。
 平安時代の永承七年(一○五二)八月に大和の長谷寺が焼失したのは、末法の到来を示す凶事として受け止められ、末法時代には天変地災がおこったり、疫病が流行すると恐れられた。末法思想の広がりと共に、笠置寺の大磨崖仏は天人が彫られた仏様として大変な信仰を受けたという。
 鎌倉時代の初期、法相宗の僧 貞慶(じょうけい 後の解脱上人)が、末法の世には弥勒如来を信仰して、そのお救いを願うべきだとして、弥勒浄土とされた笠置山を拠点として、弥勒信仰を広められたので、貴賎の参詣が盛んとなり、諸堂が建立され、住僧も増えて、笠置山は信仰の山として全盛を極めた。
 しかし、元弘元年(一三三一)八月二十七日、倒幕を計画した後醍醐天皇は、東大寺別当、聖尋のはからいで要害の地 笠置寺に行幸、本堂を行在所とされた。太平記によると、ここで夢想して、楠正成を召し出されたとのことである。
 天皇方は幕府の大軍を相手に一ヶ月戦ったので、伽藍のほとんどが焼失してしまった。室町時代になって、修験道の中心として復興したが、再び火災にあい、江戸時代には藩主 藤堂家の保護で維持されたが、明治初年には無住の寺となって荒れ果てていた。その後の復興努力により、今日の賑わいを取り戻している。
 磨崖仏や胎内くぐりや蟻の戸わたり等、修験道の行場らしい変化に富んだ名勝が参拝者に喜ばれているが、武蔵の訪ねた頃の笠置山は、もっと鬼気迫る感がただよっていたのではないだろうか。

【笠置寺修業場めぐり】正月堂(東大寺二月堂の前正月堂)→磨崖仏(本尊仏弥勒仏・文殊仏・薬師仏)→十三重石塔(重要文化財)→千手屈(修行場)→磨崖仏(弥勒上生の図)→胎内くぐり(行場入りをする前身を清めるためのトンネル)→→太鼓石(たたくと音がする)→平等石(ここからの眺めは最高)江戸時代の月見の場所→東ののぞき→蟻の戸わたり(奥に石像不動明王を安置する)→二の丸あと→貝吹き石→後醍醐天皇行在所→西ののぞき(本尊仏の頭上)→大師堂(旧正月堂跡)→鐘楼(重要文化財)→笠置寺本坊(1周800メートル 所要時間30〜40分)