第96回(2003年04月号掲載
宮本武蔵と奈良(3)
武蔵が歩いたであろう
柳生への道
 吉川英治著の宮本武蔵によると、「武蔵が、ここの地(柳生の地)を踏んだのは、般若野のことがあってから十日程後であった。附近の笠置寺とか浄瑠璃寺とか、建武の遺蹟などを探って、宿もどこかへ取り、十分に心身の静養もして……云々」とある。
 般若坂から柳生までは、歩き馴れた当時の人だと、半日もあれば十分の行程を、十日もかかったと言うのは、いかに奈良の町に迷惑をかけていたならず者とはいえ、大勢の人を手にかけた心の痛みを癒し、仏前で心を清めて、禊をしたような気持ちで柳生の地を踏みたかったのであろう。そこで、十日もかけて柳生に行ったのであれば、おそらく武蔵が立ち寄ったであろうと思われる社寺をたどってみよう。
【浄瑠璃寺】
 般若坂を越えて笠置に行く街道の中ほどの北側の丘陵地帯は、当尾の里(とおのおのさと)と呼ばれ、有名な古刹や石仏が多い。行政区域は京都府だが、奈良の文化圏に属し、昔から奈良との縁(えにし)が深い。浄瑠璃寺は、この当尾にある。
 私が女学校に行っていたのは、第二次世界大戦中で「歩け、歩け、あーるけ、あるけぇ」といった歌が国民歌謡として毎日ラジオから流れていた時代であった。そこで、初夏のある日、全校生徒揃って、往復徒歩で浄瑠璃寺へお参りに行くことになった。学校から佐保川に添って歩き、京街道から山路に入った頃は、さんさんと輝く陽光に映える若葉に目を見張ったり、瑞瑞しく若竹が伸びる竹やぶや茶畑の風情を楽しんだりしていたが、そのうち足が痛くなってくる。上り道を歩くにつれて汗ばんで喉が乾いてくるので、すっかり疲れてしまった。もう、ものを言うのも億劫で、しかたなく列について歩いていた時、前の方を歩いていた上級生の組の列から一人の先輩が、走り出て、道端の土手に駆け登って、一本の笹百合を折り取ってこられた。誇らしげに可憐な笹百合を持って歩く姿を後ろから眺めながら、花が欲しいと云うより、一歩でも余分に歩くのはまっぴらと思う状態なのに、走って百合を取りに行く元気があるのが羨しかった。
 くたびれ果ててやっと山門に達し、阿字池をはさんで美しい三重塔と九体の阿弥陀如来をお祀りする本堂が東西に対峙(たいじ)する境内に入って休憩した時は、極楽浄土に来た思いがした。
 今でもクラス会で旧友に会うと「あの時はしんどかったな。」と浄瑠璃寺に行った時の話が出る。「しっかり歩きなさい。」と、その時は疲れた顔をしないで激励されていた先生方も「あの時は大変でしたね。」とおっしゃるから、やっぱり皆しんどかったのだ。立場上、ダラダラしていられない先生の方が、つらかったかも知れない。
 四十年位前に自動車で行った時も、昔の風情が残る曲がりくねった山道をゆっくり走ったので、結構遠いところだと思っていた。ところが最近お参りに行った時は、広い立派な道路を二十分位走った頃、運転手が「ハイ着きました。」と言うので「ウソォ、もっと遠い筈。」と思って振り返ると、見覚えのある山門が見えたので、びっくりした。便利になったのは良いが、あの鄙びた山里の風情も良かったなと、今になってしみじみ思う。
【浄瑠璃寺の沿革】
 天平十一年(七三九)聖武天皇の勅願を奉じた行基菩薩によって開創されたという説と、天正年間(九七八〜九八三)多田満仲の創建という説もあり、いま一つ定かではない。下って、永承二年(一○四七)頃、当麻寺の義明上人によって、堂宇が一応整備されたようだ。
 ついで、久安六年(一一五○)関白、藤原忠通の子息で、興福寺一乗院の恵信門跡が寺観を調え、更に、治承二年(一一七八)高倉天皇の勅命で、京都一条大宮から三重塔が阿字池の東岸に移築され、一乗院支配下の顕密道場として栄えた。
 南北朝時代になって、宮廷貴族の勢力が衰えると共に寺運も傾き、寺伝によると一三四三年、ほぼ現存する建物を残して、講堂、十万堂、如法堂、開山堂、経蔵、楼閣などが焼失してしまい、ついに復旧することは出来なかったという。このことだけでも、この寺が、かつてはいかに壮大なものであったか、又、奈良との関係の深さを推測することが出来る。
【浄瑠璃寺の伽藍配置と仏様】
 堀辰雄の「浄瑠璃寺の春」に、「旅びとらしい気分で、二時間あまりも歩きつづけたのち、やっとたどりついた浄瑠璃寺の小さな門のかたわらに、ちょうどいまをさかりと咲いていた一本の馬酔木(あせび)をふと見いだしたときだった。最初僕たちは、その何の構えもない小さな門を寺の門だとは気づかずに危うくそこを通りこしそうになった。」とあるように、名刹の山門としては簡素な門をくぐると、境内に意外に広く、平安時代の浄土式庭園が、ほぼ、そのままの面影で残っている。
 庭の中心の池をはさんで東には、平安時代後期作と見られる桧皮(ひわだ)葺きの優雅な三重塔(国宝)があって、薬師如来がお祀りされている。
 これに対峙する西側には、間口十一間、奥行四間の長い本堂(国宝)が建っていて、九体の阿弥陀如来(国宝)がお祀りされているので、この本堂は九体阿弥陀堂と呼ばれ、寺全体も九体寺として知られている。
 この配置は、太陽が昇る東方にある浄瑠璃浄土の教主が薬師如来で、その太陽が天空で輝き、やがて沈んで行く西方にある西方極楽浄土の教主が阿弥陀如来であることを如実に示す。この様式は平安時代によく行われた。
 人間は清らかな瑠璃光に満ちた東方浄土から、薬師如来に見送られてこの世に生れてくる。人はお薬師様に見守られながら、この世に出現して正しい生き方を教えて下さった釈迦如来の教えに従い、煩悩の河を越えて彼岸を目指して精進すれば、やがて阿弥陀如来に迎えられて西方の極楽浄土に至ることが出来る、という教えを具体的に表した構図である。
 本堂に入ると、丈六の中尊をはさんで、ずらりと横一列に並んだ九体の定朝(じょうちょう)様式の阿弥陀如来坐像に圧倒される。
 平安中期頃になると、末法(まっぽう)思想が広がり、阿弥陀仏にすがって極楽往生を願う習慣が貴族の間に根強く流布する。末法思想とは、釈迦入滅から五百年を正法といい、釈迦の教えが正しく隅々まで伝わる理想的な時代。それから千年を像法(ぞうほう)といって、釈尊の教えが徐々に薄れて、形だけが残る時代となる。それから後は末法の時代で、人心は乱れ、自らの力では成仏出来ず、ひたすら念仏によってのみ極楽浄土に迎えられるという考え方である。
 末法の世をおびえる平安貴族達の間では、阿弥陀仏にすがってひたすら念仏をするという信仰が、阿弥陀堂の造営を盛んにし、関白道長の子、頼通によって、宇治の平等院などが造られていった。
 九体仏というのは「観無量寿経」から来ていて、人間の信仰の深さや生前の生き様によって、上品上生(じょうぼんじょうしょう)から、下品下生(げぼんげしょう)まで、九つの段階があり、臨終にのぞんで、その生き方に合わせて、この九体のいずれかが迎えに来て下さるというのだ。菩薩行を実践する人は上品、そのための修業を重ねる人々は中品(ちゅうぼん)、迷いの娑婆(しゃば)でうごめく者を下品と言い、それが又、上、中、下に別れている。と云うことは、どんな人間でも心をこめて念仏をとなえれば、いづれかの阿弥陀様に導かれて極楽に行けるということだ。
 ならず者とはいえ、沢山の生命を奪った武蔵は、下品下生の人達をも救って下さるという阿弥陀如来に、彼らの後生(ごしょう)を祈ったのであろうか。武蔵の胸には、関ヶ原の戦以来、野武士達とのいさかいや、試合で彼によって命を失った人達のことが去来したであろう。武蔵は、懺悔(ざんげ)の意味もこめて、柳生へ行くには遠まわりして、この寺を訪れたのかも知れない。
 末法思想が流布した平安中、後期には、九体阿弥陀仏が盛んに造営されて、文献に残るだけでも三十例以上あるようだが、次々と消滅して、九体阿弥陀堂で、建物も仏像も現存するのは、この寺一つだけだという。
 四方を守護する四天王立像も平安時代作で国宝。桧の寄せ木造りで、邪鬼を踏んで立つ、たくましい姿だが、腰をひねった姿勢に、王朝時代の優雅さが感じられる。華麗な彩色が残り、切金模様が見られる。現在、広目天と多聞天は国立博物館に出ておられ、持国天と増長天が堂内を守っておられるようだ。
 宮本武蔵がお参りした折は、四天王が揃っておられたのだろうか。
 この寺には地蔵菩薩像、不動明王三尊像、吉祥天女像、本堂前の石燈籠など、平安時代から鎌倉時代、南北朝時代作の国宝や重要文化財が沢山ある。まさに、奈良の文化圏を思わせる。
 本堂の前から、池をへだてて樹々にかこまれた瀟洒な朱塗りの三重塔を拝するのは、一幅の画のように美しいが、三重塔の辺りから、阿字池をへだてて、九体阿弥陀堂の白壁や屋根、宝前の石燈籠が水面に映り、開かれた扉から泰然と坐しておられる阿弥陀仏を拝むと、煩悩の河を越えて彼岸の極楽浄土に至るという教えを、目で見る思いだ。春秋の彼岸の中日には、本堂の中央、九体の阿弥陀仏の中尊の背後に日が沈むそうだ。
 数年前、メキシコへ行った時、ククルカンのピラミッドに行ったのが、たまたま春分の日(春彼岸の中日)だった。ククルカンのピラミッドには、春分の日と秋分の日には、羽毛の蛇神(ククルカン)が舞い降りるというので有名だそうで、たいへんな人出だった。私も、その人込みにまぎれて見ていると、太陽が西に沈む頃、石の階(きざはし)に付けられた蛇の頭の彫刻と、日光がつくる石段の影とが、ある一瞬ピッタリ一致して、本当に蛇が舞い降りたかに見えた。マヤ族は天文学の研究に優れ、暦と記録に取りつかれたような民族だと言われるが、日本でも昔から太陽の運行を、よく調べて設計されたものだなと、感心する。
【当尾の里の石仏】
 浄瑠璃寺から岩船寺へのなだらかな起伏を持つ山あいの小径は「石仏の道」と呼ばれる程、優れた石仏が多い。
▼『薮の中の三尊磨崖仏』
 右に一メートル位の十一面観音、長谷寺型で錫杖(しゃくじょう)を持って立っておられる。その横に一・五メートル位の地蔵尊が刻まれていて、別の岩に、一メートル位の阿弥陀坐像が、ひっそりと定印を結んでおられる。
▼『カラスの壺 阿弥陀・地蔵磨崖仏』
 少し行くと、カラスの壺と呼ばれる四つ辻がある。辻に面した田に、岩が倒れるように突き出していて、その岩肌に、阿弥陀如来と地蔵菩薩が刻まれている。
▼『阿弥陀三尊磨崖仏 通称笑い仏』
 なだらかな丘の上の大きな花崗岩に、像高七十六センチの阿弥陀坐像と、小さな観音・勢至菩薩が、見事な半肉彫りで彫り出され、螺髪(らほつ)まで丁寧に表現されている。あどけなく微笑をたたえているように見えるところから、笑い仏と呼ばれている。静かな山の中で、この仏と向き合っていると、心の中のわだかまりも溶けて、自然に微笑みが湧いてきそうな気がする。作者は伊末行で、末行は、東大寺大仏殿の鎌倉復興の際、宋の国から渡来した石工、伊行末の子孫だという。
▼『ミロクの辻の弥勒磨崖仏』
 岩船寺に向かう途中の四つ辻の崖の中央に、二・五メートル位の壺形光背を深さ十センチ程彫りくぼめ、その内に、二メートル位の弥勒立像を線彫している。室生の大野寺磨崖仏と同じ形で、どちらも元弘の役で焼失した笠置山の弥勒仏を模して作られたものだという。これも、伊末行の作で、力強くのびのびとした作である。
 武蔵も、この石仏の道を歩いて、心を落ち着けたことだろう。