第95回(2003年03月号掲載
宮本武蔵と奈良(2)
 柳生と武蔵

 吉川英治は、その著書「宮本武蔵」のなかで柳生のことを次のように記している。
「ここは笠置山の中にあるが、笠置村とはいわない。神戸の庄(かんべのしょう)柳生谷といっている。その柳生谷は、山村とよぶにはどこか人智の光があり、家居風俗にも整いがあった。といって、町と見るには戸数が少なくて、浮華(ふか)な色がちっともない。中国の蜀へ通う途中にでもありそうな『山市』(さんし)といった趣の土地である。
 この山市のまん中に、土民が『お館』(おやかた)と仰ぐ大きな住居があって、ここの文化も、領民の安心も、すべての中心が、その古い砦(とりで)の形式を持った石垣の家にあった。そして領民は千年の昔から住み、領主も平将門が乱をなした大昔の頃からここに住んで、微かながら、土民の上に文化を布き、弓矢の蔵を持っていた土豪である。そして、この地方四箇の庄を、祖先の地、自分たちの郷土として血をもって愛護していた。どんな戦禍があっても、領主と民とが迷子にならなかった。
 関ヶ原の戦後、すぐ近い奈良の町は、あのとおり浮浪人に占領され、浮浪人の運びこんだ悪文化に風靡(ふうび)されて、七堂伽藍の法燈も荒れわびてしまったが、この柳生谷から笠置地方には、そんな不逞分子は、さがしても入り込んで来ていない。」
【柳生の歴史】
 この文中にある通り、柳生は、木津川支流の白砂川、水間川の清らかな水と豊かな緑に恵まれたおだやかな土地で、六世紀の頃から人々が住んでいたようだ。
 孝徳天皇の御代に、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 後の天智天皇)を中心として行われた大化の改新(六四五年)の折にもうけられた大和六県(やまとのむつのあがた)の中に「楊生」(やぎゅう)の地名が記されている。
 奈良時代には、この地に氷室(ひむろ)が築かれていて、冬の間に囲って貯えておいた氷を、夏になると切り出して平城宮へ運んだと伝えられる。
 平安時代には藤原氏の所領となったが、藤原道長の長男 頼通が、この地を春日神社に寄進したので、春日神社の社領となった。承平年間(九三一〜九三八)に醍醐天皇の皇女の命によって撰進された「和名抄」には、添上郡楊生郷と記されている。また、春日神領神戸四ヶ郷のなかに、大楊生郷、小楊生郷とある。剣豪の一族、柳生家は、春日社の神領の管理者を先祖に持つ名門で、柳生の姓になったのは鎌倉時代に入ってからということだ。
 鎌倉末期天皇となられた後醍醐天皇は、鎌倉幕府を倒して親政(天皇自ら政治を行うこと)を取り戻そうと企てられたが、元弘元年(一三三一)幕府にその計画が洩れて“元弘の変”となった。
 後醍醐天皇は京の都を脱出して笠置山に籠って兵を挙げられた。笠置山と柳生は峰続きで、笠置山の防衛にはかかすことの出来ない要衝の地である。後醍醐天皇の檄(げき 召文)に応じて、その軍に加わった柳生一族は、天皇軍の糧食の確保に当たる一方、奈良方面から攻めてくる、幕府勢力である六波羅勢の攻撃に備えた。幕府勢は忍辱山一帯に陣をかまえ、両軍は坂原のあたりで激突したということである。
 戦は天皇方に利あらず、笠置の砦は落ちて、天皇は藤原藤房らを従えて有王山(井出町の東にある丘陵)に逃れられたが、幕府側(北条氏)に捕らえられて、隠岐島に流された。柳生家一党も北条氏によって領地を没収されたが、建武の中興(一三三四)によって親政が実現した時、柳生家はその忠誠心を賞でられて、領地を回復した。
【柳生新陰流流祖 石舟斎宗巌(せきしゅうさいむねよし)】
 宮本武蔵が偉大なる人物として畏敬した、柳生宗巌は、戦国時代後半の大永七年(一五二七)、家巌(いえよし)の長男として小柳生城で産れた。
 世は下剋上の時代で、管領(室町時代将軍を補佐して幕府の政務を総轄した)細川晴元の臣 三好長慶が晴元に対して反乱を起こした。柳生家巌は十八才の息子宗巌と共に、正統派の細川方について、三好氏につながる筒井順昭(順慶の父)らと戦って敗れ、筒井氏の配下となり、さらに、松永弾正久秀に属することとなる。戦国波乱の時代、大和の一隅、柳生谷一郷を守のは並大抵の苦労ではなかったようだ。
 宗巌はこのことから武道の重要性を痛感し、かねてから親交のあった宝蔵院流槍術の創始者覚禅坊胤栄を通じて、神陰流を編み出した兵法家、上泉伊勢守秀綱を柳生に招いて二年間兵法を学んだ。上泉秀綱はしばらく柳生の道場に滞在して多くの人達を教えたが、柳生を去るに当り、宗巌に「我、年来無刀の兵法を工夫するも、未だこれ大成ならず。これを究めよ。」と「無刀の位」を宿題として与え、三年後の再会を約束して出立した。
 殺人のための剣を、人を活かすことに用いるというのだろうか。勝負にとらわれず、それを超越したことを悟るというのは、口で言うのはたやすいことだが、実際に体得することは至難の業だ。宗巌は寝食を忘れてこの課題に取り組み、毎夜、天乃石立神社(あまのいわたてじんじゃ)に籠って、一心に励んだと言われる。そこで次のような伝説が生まれた。
【一刀石(いっとうせき)の伝説】
(柳生観光協会出版「柳生の里」による)
 柳生家歴代の墳墓を護る芳徳禅寺から奥の山道に入って行くと、天乃石立神社がある。この谷一帯は自然石が多く、その中のひときわ大きな岩が、この神社の御神体である。伝説によると【天照大神が素戔嗚尊(すさのおのみこと)の暴状を怒り天岩屋(あまのいわや)に籠られたため、天地が常闇(とこやみ)となり、禍事(まがごと)が続出した。神々が相談して、天児屋根命(あめのこやねのみこと)が祝詞(のりと)を奏上し、天鈿女命(あめのうずねのみこと)が舞うのを、諸神がヤンヤとはやしたてた。何事がおこったのだろうと、天照大神が岩戸を少し開けて覗かれたところ、力の強い手力男命(たじからおのみこと)が、天の岩戸を押し開いて天照大神にお出ましいただいたので、高天ケ原に光がよみがえったという神話がある。】その岩戸開きの際に、岩戸の片方が大空に飛んで、この地に落ちたのが、この御神体の岩だという。
 さらに、この社の奥に「一刀石」と呼ばれる巨石がある。
宗巌が剣の奥義を極めようと、毎夜、天乃石立神社の境内で、剣を振っていた。ある夜、どこからともなく天狗が現れた。何回かの試合のあと、すきをついた宗巌の一刀が、天狗を真っ二つにした。翌朝見ると、天狗の死体はなく、真っ二つになった巨大な石があった。これが今も境内にある「一刀石」の由来である。

【柳生新陰流の誕生】
 三年後に柳生を訪れた上泉秀綱は、宗巌の練磨の集成を見て「恐るべき貴殿の兵法。我及ばざること通し。以後は、憚ることなく、新陰流を柳生流と号されよ。」と言って、宗巌に皆伝印可を授けられたという。
 宗巌は織田信長の大和侵攻の案内役をつとめた功により、信長に招かれて京に上がり、足利幕府最後の将軍、義昭に仕えて但馬守となった。しかし、信長によって足利幕府が崩壊した後は、乱世に嫌気がさしたのか、俗世間との交流を絶って柳生に隠棲してしまった。四十七歳のことであった。
 兵法の梶をとりても世の海を 渡りかねたる石の舟かな
 という心境からか、陰居してからは石舟斎と号した。二十年間、柳生で雌伏していた石舟斎は、文禄三年(一五九四)五月、京都郊外の紫竹村に陣を構えていた徳川家康に招かれた。石舟斎が編み出した柳生新陰流の秘術 無刀取りを、家康が実際に見たいということであった。
 石舟斎は五男の宗矩(むねのり)を連れていった。
 石舟斎は家康の前で初めて柳生新陰流の秘法を披露し、家康から備前景則の脇差と、旧領三千石安堵のお墨付きを与えられた。家康はこの時、素手の石舟斎に木刀で立ち向かったが、二度までそれを奪われて感嘆した、家康は石舟斎の人となりと見識に感心して、その場で誓紙を入れて入門し、息子の秀忠の師にもなってほしいと申し入れた。しかし、石舟斎は老齢を理由に出仕を辞退し、五男 宗矩を推挙した。石舟斎六十八歳、宗矩二十四歳、家康は五十三歳のことであった。石舟斎の長男は、元亀二年の辰市城攻略の戦に負傷して柳生に隠棲し、二男、三男は僧籍に入り、四男は飯山城(鳥取県)の戦いで戦死し、五男の宗矩が家督を継ぐことになったのである。
 これが柳生家が、代々徳川将軍家剣術兵法師範として仕える第一歩となり、一族隆盛の基礎となった。
【石舟斎と武蔵】
 武蔵が柳生の地を訪れたのは、石舟斎も晩年に近い頃であった。年を重ねるにつれて人間的にも益々円熟味を加えた石舟斎は、天下の情勢をしっかりと心眼にとらえながらも、俗世間から離れて、風月を友に、ひっそりと暮らしておられたようだ。
 吉川英治著「宮本武蔵」によると、柳生領内に足を踏み入れた武蔵は「不思議だ。」と何度もつぶやいたようである。
 「柳生谷四箇の山は、みな樹齢が経っている。これはこの国が兵火にかかっていない証拠だ。領主や民が飢えたことの無い歴史を物語っている。畑が青い。麦の根がよく踏んである。戸毎に糸を紡ぐ音がするし、百姓は、道を行く他国の者の贅沢な身装を見ても、さもしい目をして仕事の手を休めたりしない。ほかの国とちがって畑に若い娘が見える。この国では若い女が他国に流れ出ていない証拠だろう。だからこの国は、経済も豊かで、子供はすこやかに育てられ、老人は尊敬され、若い男女は他国へ走って、浮いた生活をしようとは思わない。従って、領主の内福なこともわかるし、武器の庫には、槍、鉄砲がいつでも、磨きぬいてあるだろうという想像もつく。」と語っている。さらに「武者修行というのは、何も試合をして歩くだけが能じゃない。一宿一飯にありつきながら、木刀をかついで、叩き合いばかりして歩いているのは、武者修行ではなくて、渡り者という輩(やから)。ほんとうの武者修行と申すものは、武技よりは、心の修業をすることだ。又、諸国の地理水理を測り、土民の人情や気風をおぼえ、領主と民の間がどう行っているか、城下から城内の奥まで見きわめる用意をもって、海内隈無く脚で踏んで、心で観て歩くのが、武者修行というものだ。」とのべている。
「強くなりたい。強くなろう。」とばかり心がけていた新免武蔵の頃とは、人が変わったような成長ぶりだ。しかし、柳生新陰流の開祖、石舟斎宗巌に会ってみたいとという思いは、つのるばかりだった。
 ちょうどその頃、生前は石舟斎とも付き合いのあった吉岡拳法のの二男が伊勢参りの帰りに柳生に立ち寄り、柳生道場へ試合を申し込んできた。柳生家では「石舟斎は陰居、但馬守宗矩は江戸表に出仕中につき。」という口上で礼をつくして断った。しかし吉岡伝七郎は、重ねて立ち会いを申し出てきた。石舟斎は、自らが切った白芍薬(しろしゃくやく)一枝に断りの結び文をつけて、お通(つう)を使いに出した。伝七郎は手紙を読むと「道中のお慰みに。」とお通が差し出す芍薬を「芍薬は京にも咲いておるわ。」と突き戻した。お通は宿の少女に、その芍薬を与えて帰って行った。
 その宿に泊まっていた武蔵は、少女が持って来た芍薬の枝の切り口を見て驚いた。柔軟な芍薬の枝を、花も散らさず、相当な刀で切ったものらしく、その切り口には、切った人の非凡な腕の冴えが光っていた。武蔵もそれにならって腰の刀で芍薬の枝を切ってみた。そして、自分の切り口と、元の切り口を較べると、どこがどうとも言えないが、自分の切り口のほうが遥に劣るものを正直に感じたという。これは多分、吉川英治のフィクションであろうが、戦おうとする相手の心を事前に封ずる、これも一種の無刀の勝利だろう。
 しかし、若い武蔵は、かなわぬとは思いつつも、石舟斎という武道の大先輩に見参してみたかった。苦心して石舟斎の住む草庵を探し当てて、門までたどりついた。そして、左右の門柱に一面ずつ懸かっている聯(れん)を読んだ。
 右側の柱には
 吏事(役人)君よ怪しむを休めよ 山城門を閉ずるを好む
 左の柱には
 此山長物無し 唯野に清鶯の有るのみ
 石舟斎が門を閉じて拒んでいるのは、武者修行の者だけではない。一切の名利、我利我欲を遠ざけ、花鳥風月を友として自然のふところに抱かれる心境なのだ。
「届かない、まだ自分などは到底届かない人間だ。」と反省しながら武蔵は石舟斎に会わず柳生を去って行った。しかし、このことによって、武蔵の人間性は一生磨きをかけられ、より大きく、たくましく成長したことであろう。