第94回(2003年02月号掲載
宮本武蔵と奈良(1)
 宝蔵院と武蔵

◆乱暴者のたけぞうから武芸者 宮本武蔵へ
 一月五日、NHKの大河ドラマ 宮本武蔵が始まった。宮本武蔵は、日本の剣道史上最も有名な剣豪の一人で、二天一流(円明流・武蔵流ともいう)の開祖。小説・舞台・映画やドラマ等にもなって、老若男女知らぬ人がない程の人気剣豪だか、その出生地も明確ではない。
 播磨(兵庫県)の宮本村説と、美作(岡山県)の宮本村説があるが、武蔵が晩年に書き上げた「五輪書」によれば、播州の出生となっているそうだ。父 新免無二斎の子として、天正十二年(一五八四)に産れたというが、これも養父であるという説もある。
 一月五日放映の物語は、父無二斎の厳しい仕込みに、幼少の頃から、強くなろう、強くなろうと、ひたすら鍛練にはげんできた新免武蔵(しんめんたけぞう)は十三才の時、武者修行との試合に勝ち、村人達から強いことは認められたが、反面、乱暴者と恐れられていた。十六才の頃、関ヶ原の戦がおこると、功名心に燃えた武蔵は、幼友達の本位田又八と共に関ヶ原の合戦に参加して敗北を経験する。落武者となった二人は、火事場泥棒か禿鷹のように、戦で死んだ人達の持物をあさって生計を立てている母娘にかくまわれて傷の手当などをする。
 この家を野武士の集団が襲う。武蔵と又八は大奮闘で野武士達をやっつけ追い払う。武蔵は、野武士の頭を木刀で叩き殺してしまう程強い。強くなりたいという武蔵の念願は一応かなった。
 しかし、このままでいったら、武蔵は強いだけの乱暴者で終わって、後世に名も残らなかったであろう。郷里に逃げ帰った武蔵に対する故郷の人達の目は冷たく、落人狩りの探索も厳しかった。
 武蔵が人間的に開眼し、剣禅一如の境地を求めて歩み続けるようになったのは、彼の隠れた鋭敏さを認めた沢庵禅師が、姫路城主、池田輝政の了承を得て、 吉川英治作宮本武蔵によれば、白鷺城の天守閣の高い所にある開かずの間に、三年間幽閉して、萬巻の書を読ませたという。真っ暗な部屋の中で、机の横に一穂(いっすい)の燈火と、和漢の聖賢が書き記した藩の蔵書を貸与えられた武蔵は、書物を読むに従って、次第に心の眼を開いていった。
 三年経って、文武両道をわきまえた丈夫(ますらお)となった武蔵は、池田輝政から、郷土を忘れぬようにと「宮本」の姓を賜り、「たけぞう」を「むさし」と読み改めて、宮本武蔵(みやもとむさし)として武者修行に旅立つこととなった。武蔵が更に、人間性に磨きをかけた地は奈良であった。
【宝蔵院流 槍術】
 当時、武芸を志す人達の中で「槍の宝蔵院」と言えば、知らぬ人がいない程、天下に名を鳴り響かせていた。
 宝蔵院流の始祖、覚禅坊法印 胤栄(かくぜんぼうほういん いんえい一五二一〜一六○七)は、興福寺の子院 宝蔵院の院主。幼い頃から武術を好み、柳生但馬守宗厳と共に上泉伊勢守(かみいずみ いせのかみ)から新陰流やその他の刀術を学んだ。一方、諸国修業中の槍の達人、太膳大夫盛忠を坊中に滞在させて槍の修練につとめた。猿沢池に映る三日月を突いて鍛練するうちに感得し、直槍に三日月型の枝槍をつけた十文字槍を考案して、宝蔵院流槍術を創めるに至ったと伝えられる。「通常の素鎗に対して、鎌槍を配した十文字槍は、突くだけではなく、巻き落とす、切り落とす、打ち落とす、摺り込む、叩き落す等、立体的、平面的に使用されて、当時としては画期的な武器であった。」と、現在、宝蔵院流高田派槍術二十世宗家を受け継ぐ鍵田忠兵衛氏は言われる。
 「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」という歌が残っている。
 二世 胤舜(いんしゅん)、三世 胤清、四世 胤風と、代々その院主に正統が伝わった。金春流 能楽家元の金春七郎氏勝も胤栄の門人であったそうだ。
 初代 胤栄の門下から高田派、中村派が出、二代 胤舜の門下から磯野派、下石派、長尾派、が出ている。江戸時代後期には、諸派も含めて、その勢力は増大して、槍術諸流派中最大となり、槍術の代表的流派として栄えた。
【宮本武蔵と宝蔵院】
 武蔵が宝蔵院を訪れたのは、初代の胤栄が隠居し、二世 胤舜の時代であった。
 吉川英治の著本によると、武蔵が宝蔵院に行くのに通り抜けさせて貰った奥蔵院の境内の畑で、畑仕事をしている一人の老僧がいた。あまり熱心に仕事をしておられるので、挨拶するのもはばかられて、だまって後を通り抜けようと思った。しかし、下を向いている老僧の眸がジイッと自分の足元を見据えているようで、何とも言えないすさまじい気が感じられて、思わず九尺ばかり跳んで通り抜けた。鋭い槍の上を飛び越えたような気がしたという。
 宝蔵院では、二代目 胤舜は留守で、高弟の阿巌が相手をしたが、武蔵の木剣で打たれて即死してしまった。挨拶に出てきたのは、先程、畑仕事をしていた老僧 奥蔵院の住職 日観であった。
 「今日は計らずも良いご授業を受けましたが、ご門下の阿厳どのに対しては、お気の毒な結果となり、申し上げようがございません。」という武蔵に対し、日観は「兵法の立ち合いにはありがちなこと、床に立つ前から、覚悟の上の勝負じゃ。お気にかけられるな。」そして、「しかし、おん身は強すぎる。余りにも強い。」と言った。
 誉められたと思った若い武蔵は、恥じらいを含んで「どういたしまして、まだ我ながら未熟の見えるふつつか者で。」と答えると、
 「いや、それじゃによって、その強さを、もう少し撓めぬといかんのう。もっと弱くならにゃいかん。わしが先刻、菜を作っていると、その側を、お手前が通られたじゃろう。」
 「はい。」
 「あの折、お手前はわしの側を九尺も跳んで通った。何故、あんなことをする。」
 「あなたの鍬が、私の両足に向かって、いつ横ざまに薙ぎつけて来るか、分らないように思えたのです。又、下を向いて土を掘っていながら、あなたの眼気は私の全身を観、私の隙を恐ろしい殺気で探しておられたからです。」
 「はははは、あべこべじゃよ。」老僧は笑って言った。
 「お手前が十間も先から歩いて来ると、もうお手前がいう殺気が、わしの鍬の先にピリッと感じていた。それ程、お身の一歩一歩には争気がある。当然、わしもそれに対して、心に武装を持つのじゃ。もしもあの時、わしの側を通った者が、ただの百姓かなんぞであったら、わしは鍬を持って菜を作っているだけの老いぼれに過ぎんであったろうに。あの殺気は影法師じゃよ。つまり、自分の影法師に驚いて、自分で跳び退いたことになる。」
 武蔵はこの後、修行者への接待として出された、茶漬と宝蔵院漬(瓜の中に、紫蘇と唐辛子を漬け込んだ漬物だということで、二十世宗家の鍵田さんは、これも再現させたいと考えておられる。)の味も分らない程、興奮していたようだ。
 「敗けた。おれは敗れた。強いことにおいておれは勝っている。しかし、形では勝ったが、やはり敗けた。」と心の中で繰り返しながら、宝蔵院を後にした。
(私も数十年前、これを読んだ時、強い感銘を受けた。自分が先入観を持って人に接すると、それが相手に反映する。人と会う時は、素直な心で、相手の良い所を受け入れなくてはならないと、肝に銘じる思いがしたので、あえて日観の言葉を引用させて貰いました。)
【宝蔵院の現況】
 宝蔵院は、奈良時代初期の高僧で、我が国における法相宗の基礎を作ったと云われる義淵僧正(?〜七二八)の私坊が始まりで、興福寺の子院の一つ。
 登大路町の南側にあったが、明治初年の神仏分離や廃仏毀釈の折、取り壊されて、その跡地に帝室奈良博物館(現奈良国立博物館)が建てられた。現在、敷地内には、宝蔵院の井戸枠と伝えられる六角形の石組みが残されている。
 流祖、胤栄が庭の大石に、武神、摩利支天を祀り、槍術成就を祈念して稽古をしたと伝えられる「摩利支天石」は、興福寺三重塔前に遷座して安置されている。平成十四年十二月、宝蔵院流鎌槍発祥の地を顕彰する石碑が、奈良国立博物館旧館の西側に建立された。初代 胤栄、二世 胤舜など、歴代一門の眠る宝蔵院墓地は、興福寺から約二キロメートル南西の白毫寺町にあるそうだ。
 私は愚かにも、宝蔵院流の槍術は、宝蔵院が取り壊されたのと共に、無くなってしまったと思っていた。ところが数年前、おん祭の行列を見ていると、鍵田氏を先頭に、白い道衣の一団が「宝蔵院流槍術」の標板を掲げて参加しておられるのを見てびっくりした。堂々と松の下式で型を奉納しておられるのを見て、宮本武蔵の姿を連想した。
 初代 胤栄の教えを受けて高田派を開いた高田又兵衛は、小倉藩に仕えて、以後、子孫代々その術を伝えた。その高弟、森平政綱ら三名が江戸に出て、槍術を広めたので、大きく世に顕れ、全国を風靡して、その弟子四千人と伝えられるに至った。
 明治、大正期の大家、山里忠徳先生が、第一高等学校撃剣部に、その槍合せの型を伝え、元最高裁裁判官・故石田和外先生がこれを伝習した。昭和五十一年に石田先生より、表・裏・新仕掛三十五本を西川源内先生に伝授されて、発祥の地 奈良に里帰りしてきた。さらに、平成三年六月に鍵田忠兵衛氏に第二十世を継承されて今日に至っていると言うことだ。
 平成十五年一月十二日の奈良新聞に「武蔵も食べた?狸汁。宝蔵院流槍術 伝統の味が復活 けいこ始め。」という見出しの記事が掲載された。
 「奈良発祥の古武道『宝蔵院流槍術』の稽古始めが、十一日、奈良市中央武道場で行われ、江戸時代末期まで稽古始めに振る舞われていた狸汁会が百数十年ぶりに復活して、二時間の初稽古を終えた伝習生達が舌鼓を打った。狸の肉と歯ごたえが似ているというコンニャクを中心に、大根や人参、里芋などの野菜をたっぷり入れた、味噌仕立ての汁が、直径一メートルの大鍋二つに二百人分用意された。同流二十世宗家 鍵田忠兵衛氏は『宝蔵院と果たし合いをした武蔵も食べたかも知れない狸汁が奈良名物の一つになれば楽しい。』と語っている。」と書かれていた。
【武蔵が訪れた頃の奈良】
 奈良というと、由緒ある社寺の間を鹿が歩く平和な古都を連想されるだろうが、江戸時代初期の奈良は治安の悪い所だったようだ。というのは、関ヶ原の戦で敗れたおびただしい数の敗残牢人達(浪人)が奈良に流れ込んでいたからだ。西軍に加担した大阪方の牢人達は、徳川幕府が着々と勢力を蓄えていく現状では、到底、禄にありつくことは出来ない。関ヶ原の戦で扶持を離れた牢人達は、ここ五年程で十二、三万人は出来ているだろうということだ。
 その牢人達にとって、奈良のように武力の入り難い寺院の多い土地は、残党狩り等からも屈強の隠れ場所であったようだ。腕力と、昔の夢はあるが、持っている物は売り尽くして無一物で、なかばヤケにになって風紀を乱したり、喧嘩をふっかけてゆすったりしている人の吹きだまりのような物騒な状態であった。
 そんな折に、宝蔵院で試合に勝った武蔵のうわさを聞いた牢人達が、武蔵の泊まっている宿にやって来た。「春日野で小屋をかけて、賭試合の興業をもくろんでいるので加わらないか。」との誘いだった。断っても断ってもしつこく誘うので、ついに業を煮やした武蔵が「拙者はばくち打ちではない。痩せても枯れても剣人をもって任じているので、木剣では食わん男だ。馬鹿、帰れ。」と、怒鳴りつけた。牢人達は怒って「忘れるな。」と捨てぜりふを残して帰っていった。
【般若野の変】
 武力では勝ち目のないことが解っている牢人達は、武蔵が宝蔵院の悪口を言いふらしていると告げ口したり、辻々に落首をはっているとか言って、宝蔵院衆を挑発して武蔵を討たせ、意趣返ししようと目論んだ。
 武蔵が奈良を発つ日の朝早く、宝蔵院二世 胤舜がひきいる一行が十人余り槍を持って般若野で武蔵を待ち受けると出かけたという。また、辻々には牢人が集って「今日は宮本という男を捕まえて宝蔵院に引き渡すのだ。」と息まいているからと、宿の人達は出立を止めた。しかし武蔵は予定を変えない。般若野では宝蔵院の僧達が手に手に槍を持って、黒衣のたもとを背に結んで待ちかまえていた。牢人達は牢人達のみでかたまって、武蔵を逃がさないように、包囲しながら高見の見物をしようとする魂胆らしい。
 武蔵が姿を現すと、黒衣の僧達は、列をくずさず武蔵の右側に駆け寄った。はじめから見物のつもりの牢人達が、弥次を飛ばすと、武蔵は牢人の方に斬り込んでいった。牢人達は宝蔵院衆が助けてくれると信じていたが、僧達は傍観しているだけで動かない。牢人達があらかた倒れ、残った者が八方に逃げ出そうとした時、宝蔵院の僧達が一斉に動いて牢人達に襲いかかり、一人としてこの般若野から逃がさなかった。
 これは、胤舜と日観、それに奈良奉行所が相談して、牢人達にそそのかされるふりをして、押し借り、強盗、賭試合、ゆすり等をする牢人達の中心人物をやっつけて、奈良の大掃除をしたのだと言うことだ。日観は武蔵の無事な姿を見て喜んでいる城太郎に小石を沢山拾わせて、それに一つ一つお題目を書いて死骸に撒き、法衣の袖を合わせて誦経したとある。
 破邪顕正の剣とはいうものの、この頃の武蔵は日観の言う通り、まだ強すぎるきらいがあったようだ。
 宮本武蔵はここで宝蔵院衆と袂を分って、柳生の里へと向かった。