第93回(2003年01月号掲載
奈良町のかくれ寺
鳴川町近辺
【聖光寺】 今は暗渠になってしまった鳴川に添って聖光寺がある。建久年間(一一九○〜一一九九)浄土宗の二世、鎮西紹宗国師、聖光上人の開基と伝えられる。本堂は元禄年間のどっしりとした建物で、ご本尊の阿弥陀如来立像、乾漆の地蔵菩薩坐像などがお祀りされている。先々代の住職 乾泰正和尚は幼児教育に熱心で「いちょう教園」というのをつくって、この本堂に日曜学校のように子どもを集めては、童話を聞かせたり、ゲームをして遊ばせて下さった。当時、子どもで、いつも来ていた私にとってなつかしい場所だ。今、私が奈良の昔話と称して、お寺や仏像の伝承を書くようになったのも、そんな所に素地があったのかも知れない。小学校二年生位になると、私も話をする側になって、本堂で次の集まりの時に話す童話の練習をしていると「薬師寺から参りました。高田と申します。」と端正な感じの学生服の少年が管長さんの使いで来られたことがある。後の高田好胤管長さんだった。好胤師が管長さんになられてからその話をすると「昭和十年頃といったら、私が薬師寺へ入ったばかりの頃やなあ。」と感慨深気な表情をしておられた。薬師寺からというと、皆さんが丁重に扱っておられたのと、貴公子のような風貌から、きっと優雅に暮らしておられるのだろうなと思っていたが、管長さんは「その頃は、朝のお勤め、境内の掃除、風呂たき、お経の稽古、学校の勉強と、ゆっくりと寝る間もない位忙しく、早く偉うなったらゆっくり寝てられるんやろか、といつも思っていた。」と笑っておられた。お坊さんの修業というものは大変なものなんだな、と思った。聖光寺の門や土塀に菊のご紋が入った瓦が使われている。これは、明治維新の頃、山村御殿(円照寺)から拝受したものだそうだ。境内の鐘楼には、元禄五年(一六九二)鋳造の銘のある梵鐘が吊られている。この鐘には「皇室の繁栄を祈る為に鋳造した。」旨の銘文があったので、第二次世界大戦の折の金属供出の時も鋳つぶされることを免がれたと言うことだ。

【音声館】 聖光寺の前の道を西に突き当たったところに、平成六年に設立された奈良市音声館(おんじょうかん)がある。普通は「おんせい」と読みがちなところ「おんじょう」というと「大音声をはり上げて…」という戦記物を連想される方があるかも知れないが、これはそうではない。東大寺大仏殿前にある国宝金銅八角灯籠の火袋の四面に浮彫りされている音声菩薩(おんじょうぼさつ)にあやかって名付けられた古都奈良らしい、音と遊びによって人づくり、町づくりを目指す音楽の殿堂である。
 館長の荒井敦子さんは、音楽大学在学中から、夏休み、春休みにはキャンプカウンセラーとして子ども達と一緒に野外活動に没頭して、山村を訪れ、大自然と歌と子ども達によって、ソングリーダーとしての力を鍛えられた。大学卒業後は朝日放送に入社して、話術と人に接する心構えをみっちり仕込まれ、豊かな人脈をつかまれた素晴らしい方である。長年の夢であった「まつぼっくり少年少女合唱団」を結成して、国内はもちろん、中国やオーストラリアにまで演奏旅行をした、歌による「心の架け橋活動」が認められて、音声館館長に就任された。荒井さんは、この多彩な経験による修練から、よく人の心を掌握し、スタッフ一同一丸となって、わらべ歌の採譜とわらべ歌によるお年寄りとの交流で、昔の遊びの掘り起こし(お手玉、おはじき、竹トンボ、ケン玉、ビー玉、かぞえ歌によるまりつきや羽根つき、わらべ歌による遊び等々)、シルバーコーラスのメンバーも今では1800名に増えて、子ども達と共に楽しんでおられる。東大寺開祖の良弁僧正の伝説をミュージカルにして各地で公演したり、特別養護老人ホームへ合唱団の子ども達と慰問に行ったところ、痴呆症の方達の心になつかしいわらべ歌が通じたのか、無表情だった方が笑顔を見せたり、一緒に歌ったりされるところから音楽療法を推進されるなど、まさに八面六臂の活躍ぶりである。これも立派な菩薩行ではないだろうか。

【安養寺】 中将姫の初発心の道場と伝えられる。法如尼(中将姫)が開祖で、横佩堂(よこはぎどう)と呼ばれていた。中将姫のお父様の藤原豊成卿が、横佩右大臣と称された方であったからだろうか。後に恵心僧都の一刀三礼の作と伝えられる阿弥陀三尊をお祀りするようになって、寺名を安養寺と改めた。その後、観音、勢至両菩薩の像が盗難にあい、伊賀の国の九品寺(くぼんじ)に祀られていたのを、織田信長によってこの寺に還ってこられたという。現在、この三尊は奈良国立博物館に委託されて、代りの阿弥陀如来像と善光寺如来三尊がお祀りされている。本堂は室町時代の建物で県の重文に指定されている。

【精霊市】 安養寺の向いに平岡千玉堂という結納品や和紙を売っているお店がある。平岡家は明治維新まで青物問屋を手広く営んでおられ、大乗院にも「蓮根」等を納めていた。蓮根を傷つけないように蓮の葉にくるむところから、奈良ではお盆のお精霊様へのお供えを蓮の葉に盛るようになったという。そうしたことから、八月十一日の夜には、この町で盂蘭盆(うらぼん)の用具やお供え物、花等を売る精霊市がたつようになった。この精霊市も、三十年位前頃までは、店も買物客も多く、賑やかな中に一種の哀愁がただよう独特な雰囲気があって、私も毎年お盆の買物に行っていた。しかし、近くに次々と市場が出来て、買物のついでにお供えも手軽に買えるようになったので、精霊市も立たなくなってしまった。

【徳融寺】 現在、徳融寺は安養寺の南隣に位置するが、室町時代頃までは、現在地より北へ約百メートルの高御門町辺りにあって、元興寺の子院「高林院」であったと伝えられる。
 元興寺は天平七年(七三五)頃には、興福寺・薬師寺・大安寺と共に四大寺と呼ばれ、その後、東大寺が加わって五大寺と呼ばれるようになったという程、南都七大寺の内でも歴史の古い大寺である。しかし、国や貴族から特別な援護の無い寺院であったので、十一世紀頃には、自然災害や、長い年月による朽損がすすんで寺観の衰退が目立ってきていた。興福寺や諸大寺が、しばしば火災にあっているなかで、元興寺は歳月による破損に耐えながら火災からは免がれてきたのであるが、ついに、宝徳三年(一四五一)土一揆による放火で、小塔院から金堂、食堂等、伽藍の大半が焼失してしまった。寺運が衰退しているので、復旧することが出来ず、寺域は荒廃して、雑草の生い茂るままになっていたが、いつしか民家が建ち並び、芝新屋、中新屋、西新屋、元興寺等、いわゆる奈良町が形成されていった。奈良時代の仏教は国家鎮護のためのものであり、貴族の学問とか信仰であったが、平安時代の中期以降になると、飢餓、疫病、地震、洪水等、度重なる災害と、仏教の末法思想が相まって人心を深くとらえ、阿弥陀浄土信仰が盛んになった。念仏によって極楽浄土を願うこの信仰は、市聖(いちのひじり)と呼ばれた空也上人や融通念仏宗を開いた良忍上人等によって急速に社会に浸透していった。
 鎌倉時代に入ると法然上人が、阿弥陀浄土を信じて、念仏をとなえれば、寺や仏を造って寄進するだけの富や、学識がなくても、貴賎・男女の差別なく在家のまま往生できると説く浄土宗を開いた。その弟子の親鸞上人は、さらにその教えを徹底化して浄土真宗を開いて、阿弥陀仏への絶対的な信心、他力本願を、東国辺地の農民や下級武士等に説いて廻った。心を空にして念仏と一体に結縁することを説いて諸国遊行し、時宗を開いた一遍上人。「法華経」が唯一の正法として「南無妙法蓮華経」とお題目をとなえるだけで、すべての人々が差別なく成仏できると説き、正しい仏法が興隆すれば国土の災害は除去出来るとした「立正安国論」をあらわし、日蓮宗を開いた日蓮上人等、平等利益(びょうどうりやく)を説かれた大徳が続出したおかげで仏教は、貴族の信仰から庶民の信心へと裾野を拡げて行った。
 奈良町が出来始めたのは、丁度そうした仏教が民衆化した時代であった。町家が増えると葬送や供養にたずさわる菩提寺が必要となってくる。元興寺は官大寺で、三論・法相教学の修業の寺で、民衆の弔いに直接係わることは出来ない。したがって、民衆が増えるにつれて、檀家寺や墓寺が出来てきた。
 子院の中にも、例えば極楽坊のように,納骨所的性格を持つものもあったが、寺檀制度が確立してくると、元興寺を離れて檀家寺にくらがえする寺が相次いだ。(奈良町にあるお寺は、そうした経過を持つ寺が多い。)高林院もその一つで、天正十八年(一五九○)藤原豊成卿の邸跡と伝えられる現在地に移転した。しばらくは、真言宗と融通大念仏を兼学していたそうだが、慶長年間(一五九六〜一六一五)に融通念仏宗に帰化し、融の一字を取って「徳融寺」と寺名を改めたそうである。
 本堂の手前の右手に南面して建つ庫裡(くり)は、寛文七年(一六六七)に建立された、もとの本堂であることが、昭和大修理の時、確認された。「本尊は木造阿弥陀立像で『如法仏』と呼ばれている。『如法仏』は、源頼朝公の奥方、北条政子の念持仏で、政子は法然上人に帰依し、この像にすがって臨終を迎えたという。没後、大和郡山の額安寺の忍性律師がゆずり受け、年を経て妙忍と称する尼僧の志として当寺に奉納された。」と、現住職、阿波谷俊宏師は、その著書に記しておられる。
 境内には、天保年間、遊行中の明意上人が、この寺に逗留されていた時、町の人達を勧化(かんげ)して建立されたという地蔵堂や「子安観音」をお祀りした観音堂がある。明治初年、十二世住職順海和尚は、子安観音の誓額にあやかるため、この観音堂に寺子屋を開いたのが、だんだん発展し、規模も大きくなって、明治五年、政府の学制発布に呼応して、現在の済美小学校の前身である「魁化舎(かいかしゃ)」という小学校になった。魁化舎はそのうち、中辻町にあった紀州屋敷跡に移転して「中辻小学校」と呼ばれ、さらに明治三十三年には陰陽町に移り、大正五年、生徒の増加にともない、現在の西木辻に校舎を新築して「済美小学校」となっている。
 観音堂を左に曲がった小高い植え込みの中に、聖武天皇の御代に右大臣を務めておられた藤原豊成卿と、中将姫の石塔がひっそり立っている。その脇に「豊成公 中将姫御墓」と彫られた石柱があって、側面に「片岡仁左衛門 片岡千代之助 嵐璃寛」他数名の名前が刻まれている。昔、中将姫の芝居を演じる時は、その都度、役者や関係者が参詣に来られたそうだ。
 この寺には大乗院門跡がお使いになっていた駕籠が保管されているので、大名行列の撮影にこの駕籠が貸し出されたり、市川右太衛門が元気な頃は、境内でも度々ロケが行われたというユニークなお寺である。
【蓮糸まんだら】 鳴川町から井上町にかけては、藤原豊成卿の屋敷跡と伝えられるだけに、中将姫生誕の地として産湯に使われたという井戸が残る誕生寺、豊成卿の廟塔を護り、豊成卿、中将姫の父子像をお祀りする高林寺等、中将姫ゆかりのお寺が多い。
 数年前、文化出版局発刊の「季刊 銀花」という本に「奈良町 民の祈り」という特集記事が掲載された。その中で「祖先の霊を厚くもてなす人々」と題して、私の家の盂蘭盆の仕来たりを写真入りで詳しく報道してくださった。奈良町だったらどこのお宅でもやっておられることだろうのに、なんだかおこがましいなと思ったけれど、毎月の月参りや、お盆にはお参りに来てくださる檀家寺の十輪院や高林寺に、その本をお届けした。
 その本には「蓮糸まんだら」という見出しで須藤美和子さんの蓮糸刺繍の記事も出ていたが、私はその時「なんと気の遠くなりそうな緻密な仕事をしている方もいらっしゃるものだな。」位に思って見過ごしていた。ところが高林寺の住職の稲葉珠慶さんは「蓮糸まんだら」という文字を見て電気に打たれたようにハッとされたそうだ。蓮糸まんだらと言えば誰でも当麻寺にある法如尼(中将姫の法名)が、百駄の蓮の茎から作り出された蓮の糸で、阿弥陀如来と観音菩薩の化身の指導で織り上げられたと伝えられる浄土曼荼羅を連想するだろう。
 珠慶尼は、その著書「高坊 高林寺」で、「中将姫ならずとも、私たち人生を生きるものが、日々の生活に縦糸と横糸がしっかり整えば、おのずから浄土の曼荼羅が織り上がってゆくともいえましょう。ただ蓮糸で織られたということに深く考えさせられます。近頃、科学的な立場からは、蓮の糸ということに疑問を持たれたりしていますが、今そのことは問題ではありません。蓮花は仏の最も好まれる華です。(中略)殊に尊ばれるのは、泥より生じて泥には染まず、泥がなければ咲かぬということです。観経には念仏者を『人の中の芬陀利華(ふんだりけ・蓮の花)』と譬えられるように、念仏は五濁(ごじょく)の世にこそ最も光を放つ蓮の如き教えであると説かれています。」と述べられている。それが、実際に蓮の糸で刺繍しておられる方があるということを読んで、とびたつ思いで「銀花」の編集部に電話して、須藤さんの住所を問いあわせられたが「本人の承諾を得ないと…。」と直ぐには教えていただけなかったそうだ。
 何度も折衝の結果、お会いできた須藤さんは名古屋在住の方で、森村宜永先生について大和絵を修業すること十年、日本刺繍歴二十年のベテランで、蓮糸の刺繍を始められる五、六年前に、能登半島の西念寺というお寺で蓮糸で刺されたという繍仏を見て、感動された。
 「私にも出来ないかしら。」と早速、蓮根の産地として有名な名古屋近郊の立田村に行って蓮の茎を数本貰って来られたそうだ。茎をポキンと折って左右に引っ張ると、細い細い繊維が何本もすうっと伸びる。それを撚りあわせると、キラキラと透明だった繊維が、生成りの柔らかでしっとりとした光沢のある糸に代わってゆく。けれども沢山の茎からも、ほんの少しの糸しか取れない。茎は乾燥する前に一気に糸を引かなければならない、非常な集中力と根気の要る仕事である。須藤さんは良い糸が取れる七月から九月まで、自動車にいっぱい蓮の茎を積んで持って帰っては糸を引かれたそうである。なにしろ蓮の糸から出るあの細い繊維を撚りあわせた糸で刺すのだから、花びら一枚といえども大変なことだ。信仰心の篤い須藤さんは、豊成卿と中将姫の菩提をまもる高林寺の稲葉珠慶さんとの遭遇を喜ばれて、法如尼(中将姫)の御霊前に、労作のお軸を奉納された。
 そのお軸には、紺地に金糸で般若心経を刺繍し、さらに蓮糸で刺した蓮の花びらが二十一枚散らしてある。蓮の花びらが本物のような、ほのかな紅色をしているのは、蓮糸刺繍の上にコチニールというサボテンにつく虫を材料とした染料を、筆に糊と共に含ませて、そっと花びらの先に置くと、すうっと色が滲んでいって、こんなに美しい花びらになるそうだ。須藤美和子さんは、その後も度々高林寺の法要にお参りに来られるので、私もよくお目にかかるが、温かい、おだやかなお人柄で、どこにそんなひたむきな情熱を持っておられるのだろうと思う位、柔和な方だ。しかし、その情熱と粘り強さは素晴らしく、今年(平成十四年)十月二十日の高林寺の大般若経転読会には、数年かかってやっと完成させられた、紺地に蓮糸ばかりで刺された般若心経を見せに来て下さった。一文字づつの下には蓮の花が一輪づつ蓮台として刺されている。その労力を考えると気が遠くなりそうな力作であった。これは、菩薩行というよりも、中将姫様が仏の助けによって蓮糸曼荼羅を織り上げたように、菩薩様が須藤さんに手を添えて刺し上げられたのではないかと思われる程、感激した。
 この蓮糸の故郷の、名古屋近郊の蓮の村というのは、私共が結婚する時、仲人をして頂いた方の奥さんの出身地で、昔、お元気な頃は、よくその蓮畑の話をして頂いたり、歳末には毎年大きな箱で蓮根を沢山送ってくださつたこと等なつかしく思いだしすと共に、不思議なご縁が感じられる。