第92回(2002年12月号掲載
奈良町のかくれ寺
十輪院近辺
 奈良町はお寺の多い町である。しかも壇家をもつ普通のお寺でも、驚くような歴史や寺宝をもっておられるのである。明治・大正の面影を残す町家が建てつんでいる家並みに、もとを正せば奈良時代からの由緒をもつ寺が何の異和感もなく、調和よく納まっている。殊に十輪院町では、法徳寺、十輪院、興善院と三寺が並んでいる上に、お向いには金躰寺がある。私が幼い頃、家の壇家寺である十輪院へお使いに行く時は、祖母がよく「三軒並んでいるお寺の真ん中のお寺でっせ」と念を押していた。去年の夏休みに、四国へ嫁いでいる末娘が孫達を連れて遊びに来ていた。何日か泊まって、今日は昼ご飯を食べたら直ぐ出発して帰るというので、上の娘達も見送りかたがた家族づれでやってきて一緒に昼食をとっていた。なにしろ大勢のことなので、電気釜が一つ空になって、立田(末娘の嫁ぎ先)の次男雄亮が何杯目かのお替わりをした時、電気が切れたばかりの炊き立てのご飯だった。雄亮はそのご飯をお茶漬にしようと、これも熱いお茶をかけたので、熱くて食べられなかったようだ。「僕、お茶漬がさめるまでの間に、お墓参りに行ってくるわ。」と言って一人で出かけて行った。
 この子は娘が里帰りした家で産れ、生後一ケ月、明日はお宮詣りを済ませて四国へ帰るという前日に突然高熱を出した。お医者様は風邪だろうと言うことであった。翌日になっても熱がひかないので、再度お医者様へ行くと、診察中に激しい痙攣をおこして、大きい病院へ移された。風邪のウィルスによる急性隋膜炎と診断され、即入院したが、病状は素人目にも刻々と悪くなってゆくばかり、だった。いよいよ危篤状態におち入った時、娘が「なにとぞ雄亮の命をお救い下さい。」と神仏に一心不乱に祈っていると、なんだか右手の横を風が通り抜けて、雄亮が入っているガラス箱の上にふわっと紗のような薄いものが掛けられたような気がしたそうだ。さわってみても何もかかってなくてガラスの感触だけなので不思議だなと思った時、真っ直ぐになりかけていた心電図が動き始めたということだ。それからは目ざましい回復ぶりを見せて、八月二十三日の地蔵盆の夜、発病してから、死の寸前まで行ったのに九月十日には一応全快して退院させて頂いた。一応というのは、先生方も驚かれる程、早く元気になったが、生後三十日位でこんな大病をしたのだから、歩行や話し方等に後遺症が残るかもしれないと心配しておられたからだ。しかしおかげ様で後遺症もなくスクスクと育ち、今では両親よりも背の高い、スポーツ好きの少年に成長している。こうした次第で、周囲の人達から、「まあ元気になって、本当に神仏のおかげやで。」とよく言われるせいか、この子は信仰が篤い。だから、ご飯の途中で「お墓参りに行ってくる。」と言っても、「四国へ帰るからご先祖様に挨拶に行くのだな。」と思ってあまり気にもとめていなかった。家から十輪院までだと、熱すぎるお茶漬が適当にさめる位の距離だからである。
 ところが、お茶漬がさめても帰って来ない。どうしたのだろうと心配しだした頃にやっと帰って来た。奈良へ来る度にお参りしているので、よく知っている筈なのに、手前の法徳寺さんへ入って行ったようだ。お墓が見つからない、なんだか夢の中で迷路に迷い込んだような思いで外へ出て少し歩くと見慣れた十輪院さんの門が目に入って、やっとお墓参りが出来たということだ。そんなこんなで、出発が一時間余り遅れて、兄弟達に「お前が寺を間違ったから、家へ着くのが夜更けになるぞ。」と口々に言われて、あやまりながら帰って行った。
 見送って間もなく、ガタガタと大きな音がして少しゆれるような感じがした。きっと二階の孫の室で、孫達があばれているのだろうと気にもとめずにいると、孫の崇が下りて来て、「今地震があったやろ。」と言う。「千壽子叔母ちゃんの携帯に電話したら、自動車で走っていたから地震があったのも気がつかなかったけれど、第二阪奈の入り口に『地震に注意』と貼り紙がしてあったので、おかしいなと思っていたところや。有難う、気をつけて帰りますって言ってたけれど、大丈夫かな。」と言っていた。
 テレビを見ていると、地震は四国北部や中国地方の瀬戸内海側が激しかったようだ。しばらくすると千壽子から電話で、「崇君から電話を貰った時はたいしたことないと思っていたけれど、大阪の環状線に入った頃、兄さんから電話があって、『本四橋もその近辺の高速道路も通行止めになっているようだから、奈良へ戻って来い。』とのことなので、環状線から一般道へ下りようとしてもつかえているので、遅くなるかも知れないけれど、そちらへ帰るから心配しないでほしい。」とのことであった。千壽子達一行が戻って来て、「もう一時間早く予定通りに奈良を発っていたら、高速道路で、行きも帰りも出来なくて難儀するところだったのに助かった。」と言うので、「その時雄亮君はどう言っていた?」と聞くと、ポツリと、「お茶漬、熱くてよかったなぁ。」と言ったそうだ。それ程、お寺の多い所というか、元興寺の子院の多い旧元興寺境内に住んでいるから、ご加護を頂けたのだろうか。
 雄亮が間違えて入った法徳寺さんは、もとは元興寺の別院で多門院と称したと伝えられるが、度重なる災害で、その面影を礎石に残すのみとなっていたのを、慶長十年(一六〇五)、倍巌上人が、再興されて、融通念仏宗の寺院となった。その建物も明治二十五年に火災にあい焼失、本堂は天理市長柄にあった天理教の最も初期の建物を移築して寺院形式に改造されたものであるが、前庭の見事な蘇鉄の植込みとよくマッチして堂々たる建物である。
 ご本尊は、平安時代作の桧の一木造りの阿弥陀如来立像で稍小ぶり(九五・七センチ)ではあるが、平安作らしい豊満で穏やかな表情の優雅な像である。「和州法隆寺地蔵院内仏阿弥陀尊座」の墨書があるので、もとは法隆寺におられた阿弥陀様だと言うことだ。
 現住職、倍巌良舜様は倍巌上人から二十一代目に当たられる。この良舜師は、龍谷大学在学時代、法相宗大本山薬師寺の前管長で、お写経によって堂塔伽藍の復興を実現された高田好胤の一年先輩で、兄弟のように仲が良かった。若い修業時代の好胤師は、当時の管長でお師匠様であった橋本凝胤師の愛の鞭の厳しい修業でストレスがたまると、時々法徳寺へ泊まりに来られたそうだ。一晩泊まって、倍巌一家の家庭的な暖かいもてなしを受けると、翌日は元気で薬師寺へ帰って、より一層修業に励まれたと言うことだ。好胤師が薬師寺管長となられてからは、十一月十五日の法徳寺のお十夜には毎年管長さんが法話をしに来られていた。法徳寺さんの奥さんは料理がお上手で法要の後でふるまわれる十夜粥も精進料理も美味しい。管長さんが、「この白和えうまいなあ。煮物もなんとも言えんで。」とおっしゃると良舜住職が、にこにこしながら折箱を持って来られる。お弟子さんが美味しいと言われたものを折箱に詰めておられると、側にいた私に管長さんが「増尾さんも貰って帰り。」と言われた。いくら大鉢に盛ってあると言っても私までと、モジモジしていると、「私が詰めてあげるわ。」と管長さん自ら箸をとって折箱に詰めて下さったのには恐縮した。住職さんはこんなことには馴れておられるとみえて、終始にこやかにその様子を眺めておられる程、家温かく和やかな雰囲気であった。
 住職さんと副住職の良明さんは、薬師寺の大法要には出仕されるし、管長さんが、インドやビルマ、中国等へ慰
霊法要に行かれる時は、どちらかが参加して共に祈られた。管長さんが病の床につかれた時は、良明さんがお弟子さんと共に付き添われ、住職さんは、奥さんの手料理を持って度々お見舞いに伺われたそうだ。生涯厚い友情を貫かれて、管長さんが亡くなられた時は、遺言によって良舜師が導師をつとめられ、忌中は、生前「珠慶さんは日本一のご詠歌の名手だ。」と言っておられた高林寺の稲葉珠慶さんが、ご詠歌をあげに通われた。奈良町には、あまり観光客に名を知られていないお寺にも、人情の厚い、お坊さんらしいお坊さんがいらしゃってあちこちでひっそりと、しかも力強く人々の心を善導しておられる。
 法徳寺の隣は、鎌倉時代の僧、無住一円著に『沙石集』に「南都には地蔵の霊仏あまたおわします。知足院、福知院、十輪院の地蔵など、とりどりに霊験あらたなる。」と誌されたお地蔵様を中心とする石仏龕がご本尊の十輪院。その東隣りが興善寺である。興善寺は、南門から北門へと通り抜けが出来るので、俗に「つきぬけ寺」とか「そこぬけ寺」とか呼ばれて、終戦直後位までは、境内を通って、十輪院畑町から公納堂町へと抜ける近道のように利用されていたようだが、此の頃は境内も綺麗に整備されて壇家寺らしく寺観を整えておられるので、通り抜けをされる方も少なくなっただろう。
 もとは元興寺の別院だったとも、十輪院の奥寺であったとも言われ、その頃のご本尊は、境内にある鎌倉時代の作と思われる、阿弥陀三尊の石仏だったそうだ。大きな阿弥陀如来の両脇に可愛らしい地蔵菩薩と観音菩薩を、自然石に刻んだ珍しい三尊石仏である。荒れ果てていたのを、天正年間(一五七三〜一五九二)愛誉和尚によって再興されたという、浄土宗のお寺である。現在のご本尊は、桧の一木造りで、快慶の作風をしのばせるような優雅で美しい阿弥陀如来立像である。この像は、春日山を越えた田原の里から移されたとも、山辺郡都祁村から運ばれたとも言われる。昭和三十七年(一九六二)四月、このご本尊の胎内から、浄土宗開祖法然上人直筆の消息文と、二十数枚の和紙に書かれた結縁者の名簿や筒形の納骨器が発見されて、一躍有名な仏様となった。
 法徳寺の向いにある金躰寺は寺伝によると、道昭菩薩の開基で元興寺にゆかりのあるお寺であったという。後に荒廃していたのを、天正十七年(一五八九)奥州岩城から良誉清範上人が来られて、浄土宗の寺として再興されたということだ。
 西新屋屋町にある小塔院は、養老二年(七一八)元興寺建立の時建てられた壮麗なものであったのであろうが、度重なる災害に、今は西の奥に庵のような寺と地蔵堂を残すのみとなってしまった。かつては、現在元興寺の収蔵庫に収蔵されている国宝五重塔や孝謙天皇ご発願の百万塔を納めた荘厳なお堂が建っていたのではないかと思われる辺りは広場になって子どもの遊び場になっていた。夕方になると紙芝居がやってきて拍子木の音や紙芝居特有の名調子を響かせた。「東大寺大仏開眼の大導師となった天竺のバラモン僧、菩提僊那が来日した時に持って来られた仏舎利を小塔院に安置した。」との記録があるそうだ。境内に、奈良時代末期から平安初期にかけて活躍した名僧護命僧正の供養塔がある。護命は、美濃国の人で、十歳の時、金光明寺で道興法師に師事し、十五歳で奈良の元興寺に遊学して唯識を学び、十九歳で唐招提寺で戒を受けられた。延暦十五年(七九六)正月、平安京のまあたらしい大極殿で「最勝王経」を講じて大法師に任じられた。天長三年(八二六)、淳和(じゅんな)天皇の命によって、新薬師寺で「薬師経」を講じ、僧正に任じられる。晩年、元興寺の小塔院に住んで、承和元年(八三八)九月、八十五歳で亡くなられたそうである。護命僧正が、小塔院で読書をしておられる時、蛙がやかましく鳴きたてるので、僧正が呪文をとなえられると、蛙がピタッと鳴きやんで、その後も鳴かなかったので、側を流れる川を当時鳴かず川と呼んでいたのが、その後なまって鳴川となったという伝説がある。また、川の流れの音が高いので鳴川と呼ばれるようになったとの説もある。地蔵堂は子どもたちの遊び場になっていた広場から一段下がって鳴川(今は暗渠になってしまって川の姿は見えない。)のほとりにある。
 恐ろしい顔をした閻魔様や鬼達に舌を抜かれたり、火あぶりにされたりしている地獄絵を描いた大きな額が掲げられているので、子ども達は悪いことをしたら、死んでからあんな目にあうのだと、こわごわ見上げたり、目を閉じて走って通ったりした。私は小学校の頃、このすぐ近くにある平岡さんへ仕舞を習いにいっていたので、、行きはまだ明るいので地蔵堂の前を通って行ったが、帰りが季節によっては暗くなるので、寒いのに遠まわりして帰ったのも、今となってはなつかしい思い出だ。今もこの辺りを鳴川町というが、鳴川町もお寺の多い町である。