第91回(2002年11月号掲載
奈良町雑感(2)
「奈良町って、静かな良い所ですね。」と、奈良町に来られたお客様方は、よく言ってくださいます。たしかに今の奈良町は静かで、私も、そのしっとりとした風情が好きなんですが、私の子供の頃の奈良町は、もっと活気のある暖かい音でみたされた町でした。
 朝は先ず、二月堂さんや南円堂さんに朝詣の方達の足音にはじまりました。続いて表戸をあける音。(どの家も間口いっぱいに店をしておられるので、引戸をガラガラと引く音にも、朝らしい活気がありました。顔をあわせた隣近所の人達に「お早うございます。」とか、暑い寒いの挨拶をしながら、打水をして、家の前の道を掃除もします。朝の早い方は、向い三軒両隣まで掃除しておいてくださるので、掃除して貰った家では、明日は早く起きて、お礼にお隣も掃かなくっちゃあと、お互いにいたわり合い、感謝しあってのお付き合いでした。)
 道の掃除が済んだ頃、子供達が誘いあって登校します。昔は今より寒かったので、朝撒かれた水が道路に凍りついたり、水たまりには薄氷がはったりするので、一層寒く感じました。私が「冬は水なんか撒かなければ良いのに。」と言うと、祖父は「水を撒いとかないと、荷車が通ったら埃が立つから。」と答えました。その言葉通り、子供達が登校した時間位になると、荷車で到着した荷物や、付近の農村から運ばれる荷物が、大八車や牛車に積まれて商店に運び込まれて来ました。この頃は、犬も腹帯に曳き綱をつけて貰って、荷車を曳く飼い主を助けて、一緒に車を曳いていました。この時代、打水は掃除のためだけではなく、土埃を立てないためにも必要だったようです。でも、奈良町にもだんだん舗装道路が増え(元興寺町や井上町の商店会でもある勉強会は、昔からのメイン街道筋の町であるというプライドが高く、市とも交渉されたのか、東向きや餅飯殿についで、昭和十年頃にはアスファルト舗装されました。)戦後、自動車が増えてくると、冬の水撒きは凍りついてスリップ事故の原因になるとの理由から、冬だけでなく、道路への打水はあまりしなくなりました。
 店には、番頭さんや丁稚さん(でっちさんのことは、普通ぼんさんと呼んでいました。)が沢山いて、お客様への応対、注文取り、配達などで動き廻るので、町は活気のある音に包まれます。
 そのうち子供達が幼稚園や学校から帰って来ると、道路や広場は子供たちの遊び場に変わります。町なかで遊びつけている子供などは、巧みに通行人に突き当たらないように気をつけながら、鬼ごっこやかくれんぼう、石けり、陣取りなどに興じます。店の倉庫が空いている時などは、手のすいた丁稚さん達が子供達を呼び込んで角力をしていることもありました。奈良町では、夏場の午後三時前後は昼寝をする家が多かったので、お客様も少なく、配達に行ってやすんでおられるのを起こしても悪いからと、遠慮をする習慣がありましたので、遊びたい盛りのぼんさんにとっては、絶好の遊び時間でした。大体、丁稚さんというのは、小学校か高等小学校を卒業するとすぐ「商売を見習わせてやってください。」と、商家に住み込みで預けられるので、近所の子供とあまり年が変わりません。角力などをすると、年が二つ三つ大きい上、普段力仕事をしているだけ優位に立てるし、倉庫の内だと、外を走り廻っていて番頭さんに見つかってお目玉を食うこともないので、角力は大好きだったようです。なにしろ、一軒の家に五、六人の子供さんがいらっしゃるのが珍しくない時代でしたから、子供達の声が町を明るく彩りました。物売りの声も結構にぎやかで「焼いもー、石焼ーきいも」と売に来る焼芋屋さんの屋台には「九里(栗)よりうまい十三里」と書かれていました。「きんぎょーい、きんぎょっ」「わらびーもち、ひやっこいわらび餅」とか、鈴を鳴らしながらやって来る「ロバのパン屋さん」、煮豆屋さん、豆腐屋さん。この頃は一町内に一軒か二軒位、八尾屋さんも魚屋さんもあったのに、荷車に積んだ八尾屋さんや自転車やリヤカーに積んだ魚屋さん達も廻って来ていて、近所の奥さん達が楽しそうに話をしあいながら品物を選んでいました。
 拍子木を鳴らしながらやって来る紙芝居屋さんも、子供達には大人気でした。どうなるのだろうと、手に汗握るような場面で「お後は又明日」と終わるので、子供たちは、その成り行きを待ち構えていて、それぞれに遊んでいても、拍子木の音が聞こえてくると、ぞろぞろ集まってきて、おじさんが売る細長い飴(戦後は水飴に代わったようです。)をなめながら紙芝居を見ていました。夕ご飯が終わると丁稚さんたちのお勉強の時間です。
「ごはさんで願いましては(ごはさんが本当らしいが、ごはさんに聞こえた。)二円五十銭なり、三円八十銭なり……」と、そろばんの稽古。先生は番頭さんで、次は番頭さんの書いたお手本を見てお習字。早く稽古を終えて遊びたい丁稚さん達は「何度も書いて真っ黒になるまで勉強しなさい。」(昔は紙を大切にしたので、一枚の紙に何度も重ねて書いて練習していた。)と言われると、適当に、真っ黒く塗りつぶして番頭さんの所に持っていってよく叱られていました。子供だった私は、何故だろうと不思議に思っていましたが、一字づつ書いたのと塗りつぶしたのでは、一目見ればわかります。実は私も、ぼんさんたちのお稽古が終わったら、一緒にトランプやカルタをしようと思って待っていたものですから。
 昭和の初め頃までは、こうした番頭さんが丁稚さんに、その丁稚さんが番頭さんになって又教えることを繰り返していましたので、店に来て十年位たって中番頭さんに、更に結婚して通いの番頭さんになる頃には、字もそろばんも上手になり、簿記も覚えて一人前の商人に育っていったということです。奈良の興行界の重鎮であった故谷井友三郎氏もお元気な時、よく「私も若い頃、お宅で見習いをさせて貰ってましてんで。」と言っておられました。
 番頭さんになると、旦那さんに代わってお付き合いの場に出なければならないこともあるのて、先生に来て貰って旦那さんと一緒に、謡(うたい)や小唄のお稽古をしいました。旦那さん(今だったら社長)という仕事も、店全体を取り仕切って行かなければならない大変な仕事なので、大ていの家では、還暦の祝いを済ますと、息子に家督を譲って隠居されました。この隠居さんたちは、菊や朝顔を作って品評会に出したり、鶯やカナリアなどを飼って、互いに持ち寄っては鳴き比べさせたり、謡の会を開いたり、優雅に暮らしておられましたが、家の奥さんや女中さん達は、隠居さん達のお付き合いに、かなり忙しかっただろうと思います。
 元興寺町の一番南は八尾さんという家で、年とった姉妹が二人で住んでおられました。町内の古い事を聞くのには、生き字引のような方でしたが、姉妹が相次いで亡くなられた。そのお葬式の時、帳場を手伝いに行っていた町内の役員さん達の中で、「ところで八尾さんとこは昔、何の商売をしてはりましたんやろな。」という話が出たそうです。主人は、祖母から聞いていたので、「湯葉屋さんだったらしいよ。」と言ったら、皆さんご存知なかったようで、「ヘェー、湯葉を作ってはりましたん。」と驚かれたそうです。今は駐車場になっているその家の前を通る度に、商売をやめてからは姉さんは縫物を、妹さんは近鉄百貨店へ定年迄つとめておられたお二人の事をなつかしく思い出します。そして、自分の知っている事だけでも昔の様子を書き留めておきたいものだと思うようになりました。元興寺町には、八浅さんという料理屋さんと丸栄さんという鮮魚と料理の店、銀行が建つ前、その地には精進料理屋さんがあったそうです。当時は冠婚葬祭も殆んど自宅でしたので、出前注文も多く、よくはやっていたようです。
 お菓子屋さんも二軒あって、お向いの杉浦さんは、キャラメルやお前餅・飴等をおいておられるお店、もう一軒はお饅頭屋さんでした。まだ幼かった私のおやつは、キャラメルやおかき等が多かったからお饅頭を買いに行くことはあまりありませんでした。ところがある日、突然お饅頭屋さんの店の前に自動販売機(といってもブリキで出来たような簡単なものですが。)が現れました。一銭だか二銭だか忘れましたが、コインを入れてボタンを押すと紙に包まれたお饅頭がポトンと出てきました。それが面白くてお金をねだっては、よく買いに行きました。祖母は、「お饅頭だったら、いつでもお茶菓子用に用意しているのがありますのに。」と、やめさせようとしましたが、父は「そのうち飽きよるやろから好きなようにさせとき。」と言うがままに小銭を渡してくれました。その通り、紙に包んだお饅頭がいくつもコロコロと固くなる頃には子供達もあまり買いに行かなくなって、店前から自動販売機も消えました。
 その頃、まだ珍しかったパチンコ屋さんが出来たこともあります。これにも近所のぽんさんや子供達がむらがって、親指でバネ仕掛けのハンドルを押さえると銀色の玉がグルグル廻るのを面白がりましたが、そのうち未成年は入店禁止となり、大人はまだそんな所で遊んでいられる時代ではなかったので、間もなく無くなりました。
 化粧品屋さんもあって、夜店などのよく人が集まる日にはメーカーから美容師さんが来て、通る人毎に「お化粧して差し上げます。」と呼びかけますが、大人の人達は恥ずかしがって、皆が見ている店先でお化粧して貰う人はなかなかいませんでした。そこで、先ず子供達がモデルになりました。いつも見慣れている顔がみるみる変わって舞妓さんみたいになるのには驚くばかりでした。私が化粧して貰っている時、店の人が、「お嬢ちゃん、誰か大人の人連れて来てくださいな。」と頼まれたので、家の女中さんを連れて行きました。見違えるように綺麗になった女中さんは、顔を洗うのが惜しいからと、その晩はそのまま寝たようです。
 お酒屋さんは二軒あって、これはどちらも現在営業しておられます。下駄屋さんも二軒ありました。下駄屋さんは鼻緒すえをしておられる時は、手は忙しく動かされているけれど、口はひまなので、老夫婦がやっておられる下駄屋さんへは子供達が集まって昔話をして貰いました。別嬪さんの娘さんがやっておられるお店には若い人達が集まって、そのうち、その中の一人のお医者さんと結婚されて、下駄屋さんはお医者さんに変わりました。大きな呉服屋さんや、雑貨屋さんも二軒あり、荒物屋さんと金物屋さんがありました。荒物とは、ざるやほうきやちり取り等、木や竹やしゅろで作ったもの、金物とは金属で作った器具を言うのでしょうが、鍋ぐらいだったらどちらのお店にも置いていたし、店構もよく似ているので、よく間違えて買いに行って、「それは隣りにあります。」と、教えて貰いました。
 和田さんという、はかり屋さん(度量衡店)には、私と同じ年の子がおられたので、毎日のように遊びに行きました。お揃いの服を着て幼稚園に通ったら、双子に間違えられたこともあります。小学校の卒業記念会では、お揃いの着物を着て、仕舞「羽衣」を舞いました。時計屋さんのおじさんもお話上手で、時計の修理をしながら話がはずむのか、お年寄りのたまり場のようになっていました。蚊帳屋さん、花屋さん、あんまさん、粉屋さん、八百屋さん、お豆腐や油場を製造販売するお豆腐屋さん、紙屋さん、瀬戸物屋さん、たいていの物は町内かせいぜい隣りの町で買うことができました。
 でも買物に行くのは、女中さんかぼんさん達で、家の者が買物に行くことはめったにありませんでしたから、買物は現金を持たずに買物帳を持って行って、それにつけて貫って月末払いにしていたようです。
 なにしろ町内に銀行(はじめは六十八銀行だったのが、南都銀行元興寺支店に変わりました。)と郵便局があったのですから(郵便局は今もあります。)当時の繁栄ぶりがしのばれます。
 JRや近鉄が出来て、繁栄がだんだんそちらの方へ移って行くのを必死にくいとめようと努力していた商店街でしたが、戦争による物不足で店を閉めざるを得なくなり、そのうちに息子さん達はお勤めに出られるようになって、しもたやの多い町になってしまいました。
 けれども、町並全体に昔の面影があり、古いしきたりも残る、人情細やかな土地なので、この頃その風情を訪ねて来てくださるお客様も増えて参りました。私はその方々を出来るだけ温かくお迎えしたいと思っております。