第90回(2002年10月号掲載
奈良町雑感(1)
 此の頃、ラジオやテレビでよく奈良町の行事や風物が紹介されるようになって、奈良町を訪れて下さる方も増えてきました。数年前、東京在住の恩師に、私の愚著『奈良町回顧』という本を送りましたら、「本の表紙を見て、奈良町という町名に疑問を持ちました。私は、奈良女高師に奉職している時、長い間奈良に住んでいましたが、奈良町という名前は聞いたことがありません。どの辺になるのだろうと地図を開いてみましたが、奈良町というのは見当たりません。あなたの本を読み始めて、やっと、奈良町とは、あなたの家の周囲一帯のことを云うのだなとわかりました。」というお手紙を頂きました。その通り、正式の町名には奈良町という名前はなく、どこからどこまでという、はっきりした区分もありません。明治維新にともない、明治元年五月、奈良県が設置されましたが、明治九年、政府の府県統合方針で、奈良県は堺県に合併されて、堺県添上郡奈良町とよばれるようになった、旧奈良町の中でも、特に古い面影を残す、別称元興寺界隈(元興寺の旧境内一帯)を奈良町と呼んでいます。私の家は、この奈良町を貫く上街道(昔は“かみつみち”と呼ばれた、京街道や伊勢街道、長谷街道に通じる道)に面した元興寺町で、約百五十年前の安政元年から商(あきない)をさせて頂いております。
 初代の傳次郎は天保年間に東山村峯寺(現奈良県山辺郡山添村峯寺)に、増尾兵四郎の弟として産まれました。代々庄屋をつとめていたので、増尾という姓は当時からあったようです。
 長じて分家するに当り、田畑を分けて貰っていては、それを何代か繰り返していると本家が零細化してしまうであろうことを憂いて、奈良へ出て商売をする決心をしました。知り合いの商家で見習いをさせて頂いたりしながら準備をすすめ、現在の元興寺町の地に、郷土名産の大和茶と炭の店を開いたのが安政元年だったそうです。安政といえば、ご存知の通り、大地震が何度もあったり、長年の鎖国の夢を破る、アメリカ・オランダ・ロシア・イギリス・フランスから求められる通商条約交渉、外圧に耐え兼ねて井伊大老が勅許を持たずに結んだ安政の仮条約、それに起因する安政の大獄、続いて万延
元年に井伊大老が暗殺された桜田門外の変と、天変地異・内憂外患ここに極れりといった、夜明け前の暗い時代でした。こうした不安定な時代を初代夫婦は脇目もふらず、只ひたすら働きました。
 車のない時代ですから、商品の茶や炭は生家の近所の人達が背にかついで約七里の山道(今と違って紆余曲折の多い山道)を歩いて届けて下さる。荷を背負って山道を歩くつらさを知っていた初代夫婦は、先ず熱い茶で労をねぎらい、冷たくなった弁当を食べる人達のために、いつも大鍋で味噌汁が炊いてあったそうです。たったこれだけのことですが、これが評判を呼んで、隣村、又その隣村と商品を持って来て下さる方が多くなり、店も繁盛するようになったと言われています。
 商品の供給が多くなったので、近所だけではさばき切れなくなった大和茶を、木津から船に積んで大阪や神戸へも売りに行くようになりました。その帰り、空船で帰ってはもったいないので、当時貴重品だった阿波の和三盆や白下、沖繩の黒糖等を積んで帰るようになりました。
 奈良は神社仏閣が多く、京都から偉い方々がお参りに来られたり、観光に来られる方もあるので、当時としては砂糖の需要が多く、町の人達から、「砂糖屋の傳次郎で砂糖傳だ。」と言われ、砂糖傳と呼ばれるようになったので、屋号も正式に「砂糖傳」と名乗るようになりました。現在、卸や元売部門は道巾の廣い循環道路筋の紀寺や、県営卸市場で営業しておりますが、創業地の元興寺の店は、奈良町に来て下さった方へのサービス・フロアとして出来るだけ昔の風情を残し、幻の砂糖となった「和三盆」や昔なつかしい味の「御門米飴」等、出来るだけいろいろな砂糖を取り扱えております。
 「砂糖傳」に生まれ育った私は今年喜寿を迎えました。家の歴史の約半分を生きたことになります。私は四代目に当たりますが、幼い時母に死なれましたので、初代の娘である祖母から子守唄代わりに、初代の頃の話や祖母の思い出話等を聞いて育ちました。おぼろげなりに覚えているその昔話を、今書きとめておかないと、昔の庶民の暮らしや習慣がわからなくなると、拙文ですが、奈良町回顧や奈良の昔話を書き綴っております。
 まだ若かった初代夫婦が、朝晩心のよりどころとして仰いでいた元興寺の東塔が安政六年に焼けた時は、火の粉が雨のように降ってきて、恐ろしかったという話。祖母がまだ幼かった明治の初期、コレラが大流行した時、神戸へお茶を持って行った初代が、「麝香を身につけているとコレラにかからない」という話を聞いて、早速麝香を買って帰り、お守り袋に入れて家族に身につけさせました。高価な麝香の香りを子供までただよわせているのに不審を抱いた人達に理由を聞かれて、「コレラにかからないおまじないだ。」と答えると、我も我もと麝香を買って来てくれと頼まれた話。麝香は麝香鹿から採れるという話を聞いた私は、子供心に麝香鹿が住む異国にあこがれ、世界には自分達が想像もつかない、いろいろな物があり、生活があるということを知る端緒となりました。
 初代は断髪令が出てからもまげを切ることをためらって、長い間チョンまげを結っていたというのに、モダンなところもあって自転車を一番早く奈良へ持ち込んだようです。「神戸へ行ったら、異人さんがたてに二つの車が並んだ物に乗ってやってきたと思ったら、アッという間に向こうの方へ行ってしまう。」と土産話をしたところ、「車が横に並んでいるのだったらわかるけど、縦に並んでいたら、第一車が立たないじゃないか。」と信用して貰えないので、次に神戸へ行った時、自転車を買って帰って来て、傷だらけになって練習の結果、皆をアッと驚かせたそうです。 奈良町は古い面影が残っているということをキャッチフレーズにしているような町ですが、当時としてはハイカラな町であったらしく、自転車屋さんも、洋服屋さんも文明開化のかけ声と共に早々と元興寺に店を開かれました。
 今、生きておられたら百歳をとっくに越えておられる北沢善之さんという方が、天理市長をしておられる時、「私が学校を卒業したら直ぐ親父が元興寺(町)へ連れてきてくれまして、京伊洋服店で服を注文し、多田自転車店で自転車を買ってくれました。その服を着、自転車に乗って役所に通ったので、元興寺町というとなんだかなつかしい感じがします。」と言っておられました。近在の方達は何か大きな買物(例えば、冠婚葬祭等、人寄りの折りの食料品等も)には奈良町へ来られていたようです。ハイカラといえば、明治の始め頃でしょうか、初代が神戸へ行った時、異人さんが「こんなお茶がほしいんだが、日本ではどの店へ行っても無いのでなんとかならないか。」と言って持って来られたというお茶の見本を預かって帰って来たそうです。色はどす暗くて緑茶を見慣れた目で見ると見映えしないし、飲んでみると発酵したような味で、「異人さんて、こんな発酵したようなお茶のどこが美味しいんだろう。」と不審に思いながらも、生家の茶畑の葉で、発酵したような味を頼りにいろいろ工夫して似たような物を作って納めたら大変喜ばれたそうです。勿論、それが紅茶というものだとも、レモンやミルク、砂糖等を入れて飲むとも知らない時代の話です。それと関係があるのかどうか知りませんが、二十年位前までは、初代の生家の近くに、日東紅茶の分工場の看板が立っていました。
 元興寺町に、市の施設として「奈良町格子の家」というのがあります。表に格子戸があって、鰻の寝床のように奥へ細長いという奈良町の家を見学して頂くように建てられたもので、写真や絵の展示会や、デッサン能やコンサート等が催されて、観光客にも市民にもよく利用されています。それで観光客の方達は、よく私達に、「昔、奈良町には、こんな格子造りの家が並んでいたのですか。」と聞かれます。「とんでもない。昔の奈良町は殆んど商家で、敷地はたいてい奥へ細長いものですから、中庭を作ってそこから光や風を入れる家の構造はよく似ていますが、表は店ですからあけっぱなしで商品を並べていました。商売していない家は“しもたや”と呼ばれて一町内に一、二軒しかありませんでしたよ。」と答えます。
 以前、家の筋向かいにあったヱミヤという紙箱屋の東井さんという方が木辻に住んでいる友人と一緒に、昔の記憶をたどりながら造ったという昭和八年当時の手書きの地図を持って来て下さいました。私も芝新屋町、元興寺町、井上町等のことは朧気ながら覚えていて、これは上街道だから昔から商家が多かったのだと思っていました。しかし、この地図を見ると、木辻の遊廓には四十軒もの花楼があって賑わってい
たと書いてあるのにびっくりしました。 そういえば、奈良では目抜通りの餅飯殿から鳴川を経て木辻へ行く道筋にはカフェーが何軒もありました。もともとカフェはコーヒーを飲ませる店で喫茶店のようなものだったのでしょうが、昭和初年の頃の日本では、着物の上へ白い洋風のエプロンをかけた女給さんのいる酒場のようなものでした。お風呂屋さんも、一町内に一軒ずつ位有って、結構よくはやっていたようです。古き良き時代と言ったらよいのか、女性の人権が認められていなかった時代と言ったらよいのか、複雑な思いが致します。