第89回(2002年09月号掲載
興福寺(2)
輝かしい栄光の寺、
苦難を乗り越えて
 「奈良といえば、あなたは先ず何を連想されますか。」と聞けば「鹿が遊ぶ奈良公園」と答える方が多いだろう。ともすれば、平城時代の頃から、唐風の衣装の貴婦人達が、春風に領巾(ひれ)をなびかせて、緑の芝生で鹿とたわむれておられていたような幻想を抱くが、現在の奈良公園の大部分は、かつては春日大社、興福寺の境内であった。春日大社は摂関政治の中心として権勢を誇った藤原氏の氏神であり、興福寺は氏寺であったから、神仏習合思想の発展と共に一体化していた。境内には、堂塔伽藍が建ち並んでいたり、春日野は神域であった。
 天平勝宝三年(七五一)に、藤原朝臣清河が遣唐使に任命され、出発するに当たって、まず旅の安全を祈願して、ご神体山の御葢山を遥拝できる春日野で祈願祭が執り行われた。叔母君にあたる光明皇后から、甥御の入唐大使 藤原清河に、
 大船に 真楫繁貫き この吾子を 韓国へ遣る 斎へ神たち
 という御歌を贈られたのに対し 清河は
 春日野に 斎く三諸の梅の花 栄えてあり待て 還り来るまで
 とご返歌しているように、神を祀る場でもあったのであろう。
春日野に 煙り立つ見ゆ をとめらし 春野のうはぎ 採みて煮らしも
と万葉歌にあるように、春菜採み(うはぎはヨメナの古称)にも興じたであろうが、春日野で若菜を採んだり、月を愛でたり出来るのは、古代は貴族や大宮人だけで、庶民には縁の遠いものではなかったかと思われる。興福寺の境内が春日野と共に奈良公園として開設されて、誰でも楽しめる憩いの場となったのは明治十三年(一八八○)二月のことで、明治二十二年には東大寺・氷室神社等の境内も編入して拡張整備され、今日の様な姿になったという。
 官寺でありながら、藤原氏の氏寺として、その庇護を受け、度重なる天災人災からも不死鳥の如くよみがえって権勢を誇った興福寺の起源は「山階寺(やましなでら)」に始まる。
 仏教の伝来にともない、仏教を受け入れるか否かについて、当時の大連の物部氏と、大臣の蘇我氏との間で激しい抗争が繰り広げられたが、五十年余りの闘争の結果、排仏派の物部氏の崩壊によって終わり、推古天皇二年(五九四)「三宝興隆」の詔が発布されて、仏教が公認された。蘇我氏は元興寺の前身である、日本で最初の本格的な仏教寺院、法興寺を造営した。ここまでは蘇我氏は仏教徒にとっては大恩人なのだが、仏教受容の過程で、推進派の蘇我氏は、次第に政権を把握して勢力を強めていった。推古天皇三十年(六二二)に聖徳太子が亡くなられると、その独裁的な権力を益々強化させた。聖徳太子の遺児の山背大兄王(やましろのおおえのおう)は公明正大な方で蘇我氏の専横を憎んでおられた。蘇我入鹿は自分に批判的な山背大兄王を襲撃して、一族もろとも斑鳩宮で自害させてしまった。
 いよいよ権勢をほしいままにする蘇我氏の独裁体制を打破して、政界の清新を計られたのが、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ 後の天智天皇)と中臣鎌子(なかとみのかまこ 後の藤原鎌足)であった。自分が最も尊敬し、信頼できる中大兄皇子と力を併せて立ち向かうとはいうものの、蘇我氏の勢力は絶大であった。鎌足は、自分が信仰する釈迦如来に、蘇我氏打倒の成功を祈って、成功のあかつきには釈迦丈六像・脇侍菩薩像・四天王像の奉造を発願したと伝えられる。
 皇極天皇四年(六四五)六月、飛鳥板蓋宮で、三韓進調の儀式の場で、蘇我入鹿は暗殺され、入鹿の父の蝦夷(えみし)は、甘樫丘(あまがしのおか)の邸に火を放って自殺した。
 蘇我氏打倒に協力した軽皇子(かるのみこ)が即位して第三十六代孝徳天皇となり「大化」という年号が定まった。大化二年(六四六)には皇太子中大兄皇子によって「大化改新」が断行され、政治は刷新された。
 大願を果たした鎌足は、天智天皇の都である大津京の南西にあたる山階陶原(やましなすえはら 山科)にあった私邸で、過日発願した仏像を造立した。鎌足が病床に臥すことになった時、鎌足の妻の鏡女王(かがみのおおきみ)は私邸に精舎を建てて、その仏像を安置し、鎌足の病気平癒を祈った。精舎は地名をとって「山階寺」と呼ばれた。
 天智天皇八年(六六九)十月十六日、鎌足は近江の大津京の邸で没したが、本葬は、翌年九月、山階寺で行われたという。六七三年、天武天皇が即位されて皇居を飛鳥の浄御原に定められたのにともない、山階寺も、山科の地から飛鳥の厩坂(うまやざか)に移り「厩坂寺」となった。
 和銅三年(七一○)平城遷都にともない、厩坂寺は藤原不比等公によって、いち早く平城京の左京三条七坊に移され、興福寺と号されるようになった。
【中金堂】中金堂には、藤原鎌足公が発願造顕された釈迦丈六像・脇侍・菩薩・四天王像が安置されて、和銅七年には落慶法要がなされたようだ。興福寺は、経蔵・鐘楼・僧房・政所・雑舎等、その偉容を整えていったが、本願の藤原不比等は平城遷都から十年後の養老四年(七二○)八月三日、逝去された。
【北円堂】元明太上天皇・元正天皇は、この功臣の死を悼み、北円堂の造営を発願された。官営の造興福寺仏殿司がおかれ、興福寺は藤原氏の氏寺であると同時に官営の大寺院としての基礎が築かれた。
 現在、北円堂と呼ばれるこの八角の円堂は、不比等公の一周忌をめどに工事が迅速に進められ、本尊弥勒仏・脇侍菩薩像二体・羅漢像二体が安置されて、養老五年八月三日には盛大な一周忌が供養が執り行われた。
 北円堂は興福寺の西北に位置し、不比等が生前、遷都や造営に力を尽くしてきた平城京を一望できる眺望絶佳の地であったそうだ。
 長年非公開であった南円堂や北円堂が、数年前から秋期特別公開されることになった。私は大喜びで、さっそく拝観に行った。興福寺も、他の南都の諸大寺と同じく、たびたび火災に見舞われている。ことに治承四年(一一八○)の平重衡による南都焼打の被害は甚大であった。しかし、藤原氏を後ろ楯に持ち、皇族や摂関家から門跡を迎える門跡寺院、一乗院と大乗院を持つ興福寺は、その時代の粋を極めた最高の技術で不死鳥のようによみがえっている。
 北円堂のご本尊弥勒如来は、巨匠 運慶が統率した慶派仏師の名作で、天女を透かし彫りにした光背を背に、どっしりとした端正なお姿で坐っておられる。
 本尊の両脇には、五世紀頃、北インドで法相教学を確立された無著と世親の兄弟の像が立っておられる。堂々たる体躯で、写実的なお姿は、インドの方というより、今にも語りかけて下さりそうな、日本の名僧の感じだ。世親像は、世の行末を憂えるように眉をひそめて見えているかのような玉眼で遠くを見つめ、無著像は、いとおしむような優しい目で右下を見ている素晴らしい造形だ。
 四方を護る四天王は、平安初期作の木芯乾漆像で、大きく見開いた目、大げさな身振りにユーモアが感じられる。いずれも国宝の立派な像だが、私は「北円堂は不比等公が、生前活躍された平城京を見はるかす位置に建てられた。」とかねてから聞いていたので、それが楽しみで西の扉から外を眺めてみた。しかしそこには高い建物が立ちはだかっていて、平城京どころか、途中の農村風景すら垣間見ることが出来なかった。
【東金堂と五重塔】神亀三年(七二六)、聖武天皇は元正太上天皇の除病延命を願って、丈六の薬師三尊像と東金堂造営を発願され、急ピッチで造営された。
 一方、光明皇后は、天平二年(七三○)四月に、五重塔の造営を発願された。皇后は自ら簀の子に土を入れて運ばれたという。高さ十五丈一尺(約四十六メートル・現在の塔は約五十メートル)の堂々たる五重の塔が、その年内に完成したそうだ。聖武天皇ご発願の東金堂と皇后ご発願の五重塔に廻廊がつけられて、東院仏殿院と呼ばれ、琴瑟(きんしつ)相和すご夫妻の和合ぶりを物語っていた。しかしその東金堂と五重塔は寛仁元年(一○一七)六月二十七日に焼失してしまった。再建された五重塔も東金堂も、治承四年(一一八○)の平重衡の兵火によって炎上してしまい、この時は堂塔伽藍のほとんどが焼けてしまったので、復興を急がれたからか、文治三年(一一八七)の東金堂落慶の時は、本尊の薬師三尊は鋳造されず、飛鳥の山田寺講堂の本尊であった薬師三尊が迎えられた。この薬師如来は、天武十四年(六八五)、天武天皇が蘇我倉山田石川麻呂の供養のために造立されたものであった。白鳳仏の傑作であったが、応永十八年(一四一一)の火事で堂と共にに被災してしまった。高い熱で体部等は崩れ去ったのだろうが、幸い残った頭部が、応仁二十二年(一四一五)に再興されたた本尊の台座に納められていた。
 昭和十二年(一九三七)十月三十日、東金堂解体修理中に発見され、七五○年ぶりに端正な仏頭が日の目を浴びた。伸び伸びと孤を描く眉、切れ長な目、強い意志を表すように額から直線的にのびる鼻、ふくよかな唇、爽やかな美青年を思わせる山田寺の仏頭は、今も国宝館で、来館者に白鳳の夢を語りかけている。
 光明皇后ご創建以来、五回もの焼失と再建を繰り返して現存している塔は、応永三十三年(一四二六)再建のもの。けれども、興福寺の堂塔は、再建するにあたって、実によく旧状を保ってきたから、この塔も天平の面影を伝えているということだ。
【西金堂】光明皇后のお母様、橘三千代夫人は、天平五年(七三三)に亡くなられた。皇后は、お母様の菩提をとむらう為に、東金堂の西むかいに西金堂の建立を発願され、母君の一周忌にあわせて完成された。西金堂も何度か被災・再建を繰り返したが、江戸時代の亨保二年(一七一七)一月四日に焼失した後は、再建されぬうちに、慶応四年(一八六八)三月の神仏分離令の発令を受けた。創立以来の受難時代を迎えて、西金堂は再建されなかったが、天平六年の創建時に造立され、本尊釈迦如来像の周囲に安置されていた、乾漆八部衆立像 八体と、乾漆十大弟子立像のうち六体が、多大な人たちの必死のお働きのおかげで、有難いことに現存している。
 脱乾漆というのは、土で像を作り、その上に麻布を何枚も貼り重ねて乾燥させた後、土を取り出し、空洞になった内部を補強して、その後、木粉などを混ぜた漆を塗り固めて表面を整え、彩色して仕上げたものだ。金銅仏や木彫より脆くて損傷しやすいのではないかと思うのだが、奇跡的に助け出されたおかげで、今は国宝館に安置されて、天平の面影を伝えてくださっている。なかでも、憂いを含んだ表情の、多感な美少年を思わす阿修羅像は素晴らしい。
 この間、率川神社のゆり祭におまいりしたら、静岡県の清水市から来た友人に会った。奇遇を喜んで、一緒に昼食をとりながら話し合った。奈良の案内でもしようかと思って「今からの予定は?」と聞くと、「今日は主人が帰宅する迄に清水に帰りたいので、時間がないから、興福寺の阿修羅さんだけでもゆっくり見て、すぐ帰ります。」と、おっしゃる。よく聞くと、「この前も、朝五時頃起きて、先祖のお墓参り(もちろん清水市にある)に行くと、急に阿修羅に会いたくなって、その足で新幹線に乗って奈良まで来て、興福寺の国宝館だけ見て帰ったことがあります。」とのことであった。憂愁に耐えながら、はるか彼方の真理を見詰め、悟りの境地にたっしようとするかのような阿修羅にあこがれて奈良を訪れる方も多いようだ。
【時代の変遷と興福寺】奈良時代から平安時代、藤原氏の勢力の拡大にともない、興福寺は益々の発展を遂げた。平安時代末の治承の南都焼打で、興福寺は全山焼失に近いほどの被害を受けたが、政府、藤原氏、源氏などの援助により、見事に復興して、鎌倉時代の仏教美術の宝庫と言われるほどになった。鎌倉幕府が武家政権を確立すると共に、公卿勢力が武士の勢力におされて衰退気味になってくる。しかし、興福寺は鎌倉将軍家から大和国守護職として支配を許されたので、寺力は盛んで、その後の度重なる罹災にも対応し、復興をなし遂げた。
 しかし戦国時代になると、大和は兵馬に蹂躙され、地方にあった所領、荘園も取り上げられたりした。その後、太閤秀吉によって、春日社領並びに興福寺領として二万千百十九石五斗余の知行が定められ、徳川幕府もそれを踏襲したので幕末まで知行は確保された。一万石以上が大名とされていた時代だから随分裕福なお寺だと思うが、堂塔伽藍が多く、規模が大きいだけに維持管理費は膨大なもので、亨保二年(一七一七)の大火の後は、なかなか再建がはかどらなかった。
 西国三十三ヶ所観音の第九番霊場として一般の信仰を集めている南円堂が寛政元年(一七八九)頃やっと完成した。中金堂が焼失後約百年たって仮設的な堂宇が建てられただけで、講堂、三面僧房、南大門、西金堂の再建が出来ないうちに、慶応四年(明治元年と同じ)神仏分離令が発令されると、これに伴って、神社と仏寺の間に争いが起こり、寺院・仏具・経文などの破壊運動、いわゆる廃仏毀釈の嵐が世間に吹き荒れた。かねてから春日社と一体化していた興福寺では、争うことなく寺僧こぞって還俗して、新神司などという称号を賜って春日社に勤めることになったので、興福寺は無住になってしまった。
 明治三年(一八七○)十二月には、社寺上知令が発令されて、堂塔以外のすべての寺地を没収された上、中金堂は県庁舎に、食堂は寧楽学校舎(奈良師範学校の前身 今は教育大学)として利用されることになった。中金堂本尊の釈迦如来や食堂本尊の千手観音像などの諸仏は、南円堂、北円堂に、所狭しと押し込められる始末となった。
 明治八年には、食堂と細殿が取り壊されて、その跡地に洋風建物が建てられて、県庁はそちらに移り、転用されていた中金堂は整備されて、本堂の釈迦如来像や、食堂の千手観音像が中金堂に祀られることになった。宝蔵院流の槍術で有名な宝蔵院の跡には帝国博物館(現国立博物館)が建ち、法親王を門跡にいただく格式高い一乗院の宸殿は、奈良地方裁判所として四十年前まで使用されていた。(この建物は、一九六二年に唐招提寺に移築され、開山堂として改修されて、の面影をとり戻している。)売られて壊されようとしていた五重塔も無事に収まって、奈良を象徴する風景の一つとなっている。
 明治十三年(一八八○)二月、興福寺の旧境内は春日野と共に奈良公園として開設された。接収されたまま荒れ果てていたのを、イギリス人の技師を招いて整備するのに、ロンドン郊外にある自然を生かしたリーゼントパークを参考にして設計されたという。以前、リーゼントパークに行った時、奈良公園とムードが似ているのにびっくりすると共に、良いお手本を参考にして頂いたことに感謝した。
 多くの方たちのご努力のおかげて、明治十四年、興福寺の再興願は正式に許可されて、着々と復興の緒についたが、公園は、東大寺、氷室神社などの境内地も編入して拡張整備され、市民の憩の場となっている。(興福寺の境内地は一部公園指定から解除され、二万五千坪程、返還されているそうだ。)
 昭和三十四年(一九五九)二月には、食堂跡に国宝館が建設され、貴重な仏像や宝物が、安全に保管され、多くの人たちが拝観することによって、目から仏種を得、法施を受けさせていただいている。